12 オン・ザ・ウェイ
文字数 1,939文字
何秒か、あるいは何分か、静寂が続いた。
「もう、いいから」
瑠都 がいつの間にか横に立っていて、俺の背に手を添えて促してくれた。その手が妙に温かくて、俺はひと言も発することができず、促されるままマイクを離れた。
気がつくと、献花 が始まっていた。
一人ずつ参列者が前に出てきて、仏式であれば焼香 するところを、そのかわりに、白いカーネーションを一本ずつ、台の上に手向 けている。
俺たち遺族は、献花台の脇に、並んで立って見守っている。
花を手向け終えた参列者は、帰り際に俺たちの前を通り、声をかけていってくれる。
「病院でね、『ここも案外いいところよ~』なんて、言っていたのよ。花菜 ちゃんは」
「あのね、花菜ちゃんも悩んだと思うけど、きっと、よかれと思って、厳しいことを書いたのよ。恨み言とか、そういうのじゃないと思うから。親心をわかってあげてくださいね」
「お見舞いに行ったとき、病床で、基和 さんに感謝していましたよ。ほんとうよ」
以前、俺を取り囲んで詰め寄った婦人らは、誰一人、俺を責めず、むしろ慰 め、気遣ってくれた。
これを俺は、偽善と称して嫌っていたのだ。
偽善――真の善かと問えば、皆、腹の底では違った思いもあるだろう。しかしいまこの場所で、俺を慰 めようとしてくれている、その気持ちに偽りはないのだ。それを疑ってどうするのか。疑うことには、なんの価値もないじゃないか。
自分という人間は、なんて小さかったのだろうと、恥じ入った。
「どうも」
男の声に顔を上げると、野々辺 が立っていた。
「勇気がありますね。あの手紙を、ここで読み上げるなんて」
「そんな……勇気なんかじゃないよ」
「そうですか?」
「ああ。そんな上等なものじゃない」
「でも、うらやましいです」
野々辺は淋しげに笑んだ。
「私の母は、何も言ってくれませんでした」
そう語る夫を、傍 らで彼の妻が見守っている。
野々辺は言葉を継いだ。
「でも、まあ、仮に何か言われても、割り切れなさは残ったでしょうけどね」
***
火葬場の控室で、骨上 げの時を待っている。
マラナ・タ。
おふくろの手紙にあった言葉が、いつまでも頭に残っている。意味がわからないので、手持ち無沙汰 にスマホで検索をかけてみる。
簡単に、ずいぶんたくさんヒットした。
ざっと見ていくと――。
「主よ、来てください」の意味のギリシャ語だとあった。
讃美歌の歌詞にもなっているらしく、クリスチャンにはよく知られた言葉のようだ。
聖書には、新約のほうに一か所だけ出てくるという。
『コリントの信徒への手紙 一』の16章22節だ。
それもまた検索すると、ネットで聖書の該当箇所の文言を、探して見ることができた。便利な時代になったものだと思う。
『主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。』
16章22節という箇所には、そうあった。
「見捨てられるがいい、か……」
「なに?」
俺のつぶやきに、瑠都が手元をのぞきこんできた。
「あら」
「なんだよ」
俺のスマホの画面を見て、瑠都は軽く肩をすくめ、頬 をゆるめる。
「大丈夫よ。どんな人も、神さまは決してお見捨てになったりしないから」
「なんだよ。別に……」
さっきからずっと下を向き、自分のスマホをいじっていた息子が目を上げた。
「今日、富士山が見えたよ。新幹線で」
唐突 に言う。俺にまっすぐ視線を向けて、なんの前ふりもなく、唐突に。
その瞬間、ある光景が俺の脳裡 に、まばゆくフラッシュバックした。
――親父の葬式に向かう新幹線で、まだ幼かった息子が、富士山を見てはしゃいでいる。その記憶を、この間、沼津 に向かう新幹線のなかで、何度も再生していた俺。
そうか。
そうなのか。
なにが「そう」なのか、自分でもよくわからないまま、俺は、
「そうだったのか」
と納得した。なぜだか、深く、納得した。
だから――沼津のあんかけスパを。
まだ、食べさせたことのない妻と息子に、俺のソウルフードを味わわせてやらなければならない。
いや、そうじゃなく、
食わせてやりたい、
味わってほしい、
知っておいてもらいたい、だ。
いまさら心の向きを変えるとか、そう簡単にできるものじゃない。だけど、今日、名古屋へ帰る前に……こいつらを、あの店に連れていく。
それくらいなら、できる気がして、俺は、
「なあ」
と切り出した。
(了)
「もう、いいから」
気がつくと、
一人ずつ参列者が前に出てきて、仏式であれば
俺たち遺族は、献花台の脇に、並んで立って見守っている。
花を手向け終えた参列者は、帰り際に俺たちの前を通り、声をかけていってくれる。
「病院でね、『ここも案外いいところよ~』なんて、言っていたのよ。
「あのね、花菜ちゃんも悩んだと思うけど、きっと、よかれと思って、厳しいことを書いたのよ。恨み言とか、そういうのじゃないと思うから。親心をわかってあげてくださいね」
「お見舞いに行ったとき、病床で、
以前、俺を取り囲んで詰め寄った婦人らは、誰一人、俺を責めず、むしろ
これを俺は、偽善と称して嫌っていたのだ。
偽善――真の善かと問えば、皆、腹の底では違った思いもあるだろう。しかしいまこの場所で、俺を
自分という人間は、なんて小さかったのだろうと、恥じ入った。
「どうも」
男の声に顔を上げると、
「勇気がありますね。あの手紙を、ここで読み上げるなんて」
「そんな……勇気なんかじゃないよ」
「そうですか?」
「ああ。そんな上等なものじゃない」
「でも、うらやましいです」
野々辺は淋しげに笑んだ。
「私の母は、何も言ってくれませんでした」
そう語る夫を、
野々辺は言葉を継いだ。
「でも、まあ、仮に何か言われても、割り切れなさは残ったでしょうけどね」
***
火葬場の控室で、
マラナ・タ。
おふくろの手紙にあった言葉が、いつまでも頭に残っている。意味がわからないので、手持ち
簡単に、ずいぶんたくさんヒットした。
ざっと見ていくと――。
「主よ、来てください」の意味のギリシャ語だとあった。
讃美歌の歌詞にもなっているらしく、クリスチャンにはよく知られた言葉のようだ。
聖書には、新約のほうに一か所だけ出てくるという。
『コリントの信徒への手紙 一』の16章22節だ。
それもまた検索すると、ネットで聖書の該当箇所の文言を、探して見ることができた。便利な時代になったものだと思う。
『主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。』
16章22節という箇所には、そうあった。
「見捨てられるがいい、か……」
「なに?」
俺のつぶやきに、瑠都が手元をのぞきこんできた。
「あら」
「なんだよ」
俺のスマホの画面を見て、瑠都は軽く肩をすくめ、
「大丈夫よ。どんな人も、神さまは決してお見捨てになったりしないから」
「なんだよ。別に……」
さっきからずっと下を向き、自分のスマホをいじっていた息子が目を上げた。
「今日、富士山が見えたよ。新幹線で」
その瞬間、ある光景が俺の
――親父の葬式に向かう新幹線で、まだ幼かった息子が、富士山を見てはしゃいでいる。その記憶を、この間、
そうか。
そうなのか。
なにが「そう」なのか、自分でもよくわからないまま、俺は、
「そうだったのか」
と納得した。なぜだか、深く、納得した。
だから――沼津のあんかけスパを。
まだ、食べさせたことのない妻と息子に、俺のソウルフードを味わわせてやらなければならない。
いや、そうじゃなく、
食わせてやりたい、
味わってほしい、
知っておいてもらいたい、だ。
いまさら心の向きを変えるとか、そう簡単にできるものじゃない。だけど、今日、名古屋へ帰る前に……こいつらを、あの店に連れていく。
それくらいなら、できる気がして、俺は、
「なあ」
と切り出した。
(了)