1 ソウルフード

文字数 1,227文字

 その男と、あんかけスパを食べるはめになったことを、オーダーを()ませた直後から俺はすでに後悔していた。やがて男から、あの手紙を渡されることになる、それを予期していたかのように。

 店は、駅に近い雑居ビルの地下にあった。
 この街――伊豆半島のつけ根に位置する沼津(ぬまづ)市――で育った俺にとって、懐かしい店ではある。ただし、アンバーがかった照明や合皮の椅子は、記憶のそれに比べて色あせて見えた。
 男と俺が座ったのは四人掛けテーブルで、店内には、同じようなテーブルが他に四つ五つと、申し訳程度のカウンター席があり、その奥に壁棚(かべだな)(しつらえ)えられていた。棚には古めかしい絵皿や置時計、旅の土産物らしき民芸品が並べられ、昭和を思わせるスタンドライトの薄っぺらな光が、それらの品々を照らしていた。
 時間が止まったような空間だ。と一瞬、俺は思い、いや、色あせているんだからやはり時は積み重なっているのだと、考え直した。

「名古屋の御当地(ごとうち)グルメとして、すっかり有名になっちゃいましたよね、あんかけスパ。沼津にも、ずっと前からあったのに」
 本題に入るのをためらってか、あるいは俺が、名古屋の自動車メーカー勤務であるのを必要以上に意識したのか、男はどうでもいい話をふってきた。
 その日を含めてたったの二度しか会ったことがなかったというのに、なぜ男と差し向かいで昼飯を共にしたのかといえば、妹の瑠都(るつ)が「相談にのってあげて」などと余計(よけい)な口をきいたからだ。
 俺にではなく、男に、である。
 五十過ぎのこの俺が、六歳も年下の妹の同窓生だという、()えない男に何を相談しろというのか。俺は内心、苛立(いらだ)っていた。

 男は、野々辺(ののべ)公助(こうすけ)。市内の小さな印刷会社で営業職をしていると語った。営業職のくせに、作り笑いは下手である。スーツではなくポロシャツにチノパンを着ていたのは、その日が日曜だったからだろうが、ポロシャツはロゴなしで、左手薬指の指輪もノーブランドだと俺は踏んだ。
 なにからなにまで、相談するにはそぐわない相手に思えた。そのときは。
 だから、
「名古屋のも旨いけど、やっぱりちょっと違うんだ。俺のソウルフードは断じてこっちだね」
 俺もまた本題を避けるべく、どうでもいい話にあえてのった。
 おふくろは末期がんで、瑠都と俺は、治療法そのほか最後の日々をどのような環境で過ごさせるのがよいかという点で割れていた。
 おふくろはまだ八十前だ。がんと闘い、最善の手をつくすべきだと俺は考え、瑠都は本人の好きにさせるほうがいいと主張していた。

 まったく莫迦(ばか)げていることに、俺たちは信じていたのだ。おふくろのためにと考えて、議論して、一致できれば、だれもが納得できる方法を見つけることができるのだと。そんな方法が、この世に存在しているのだと。
 そのときは、まだ。
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