あのときの運転手さん

文字数 2,307文字

 赤信号で停車した信号待ち。隣の車線には空港行きのバス。
 窓にはそれぞれ人の頭が見えており、乗客は多いように見えた。覗くように横を向いていると、運転手と目があい、慌てて視線を逸らし前へと向きなおった。
 じろじろ見たかったのではなくて、ある旅の帰りに乗車したバスの運転手さんのことを思い出していた。

 四、五年前に乗った関空行きのバス。私ひとりの貸し切りだった。もちろんひとりで借り切ったわけではない。たまたま始発から終点まで乗客が私ひとりだった、というだけ。それだけ。でも高速を走る長距離バスで始発から終点までたったひとりは、約半世紀生きてきて初めての体験だった。

 遅い時間の関空行きだった。始発駅(確か西宮だったと思う)で乗り込んだときは1番目の乗客で、席は選びたい放題でラッキーとすら思った。
 窓の外はもう真っ暗闇で、曇り空なのか、晴れ空でも星が見えない空なのかは分からなかった。

 そのまま始発駅を発車し、いくつかの停留所へ停まるたびに前の扉が開いては誰一人乗り込まないまま扉が閉まる、ということを繰り返していた。誰も乗り込んで来ないことに、徐々に不安が押し寄せ、同時に、何故?という疑問が浮かんでくる。もちろんその疑問が解決することはなく、バスは高速道路へと入った。このあと乗車はなく終点までひた走るのみ。乗客が私ひとりだと決定した瞬間だった。
 申し訳なさが一気に加速して脳内を駆け巡る。たったひとりで、この大きなバスを。ああ、何ということ。

 友人に、電車の方がお安いよ、と言われたけれど、慣れない乗り継ぎが面倒でバスにしたのだった。電車を選んでいれば、この運転手さんはこの経路を走らず済んだのだろうか。それとも空っぽでも走らせなければならないのだろうか。私ひとり分の運賃で経費は?と余計な心配までも持ち上がる。

 運転席側の前から五番目くらいの窓側に座っていた。乗車時よりどりみどりだったとは言え、深いこだわりもなく、とりあえず窓側で、なんとなくこの辺でいいかと選んだ席。
 その位置からは微妙に運転手の気配が伝わってきてバックミラー越しに私のことも見えているのかなと感じる距離だった。こんなことであれば、もっと視界に入らないような場所を選べばよかったと思いながら、スマホを見ているふりをしたり窓の外を眺めたりした。
 真っ暗闇の風景は特に目新しさもなく、すぐに時間を持て余した。

 本でも読もう、と人のいない車内で鞄の中を手繰る。バッグのファスナーを開ける音、がさがさ底のほうにある文庫本を出す音、気のせいかもしれないけれど、静かな車内で私ひとりが出す音の大きさに驚く。
 と同時に、昼頃空港のコンビニで買ったおにぎりが入ったままになっていたのを見つけた。

 飛行機の到着時間の都合で、現地の友人たちとは昼食後に待ち合わせをしていた。空港から目的地まで移動に小一時間。待ち合わせぎりぎりだったので、おにぎりと水を買い、隙間時間にどこかのベンチに座り胃の中へ入れるつもりだった。
 が空腹感を感じず、食べずにリュックに押し込まれたままになっていたおにぎり。食べなくちゃ捨てることになってしまう、と食す使命感が沸き上がり、そろりと取り出す。フィルムを剥がすと、カサカサとした乾いた音が静かな車内に響いた。ぷうんと海苔の磯の香りまで立ち上がる。
 申し訳ない気持ちになり、食べるのを躊躇う。というか車内で食べていいだろうか。
 私のためだけに、この大きなバスを走らせている人の後姿をそっと盗み見る。ごめんなさい。
 ひと口、ひと口、音をたてぬようひっそり食べようと試みたけれど、パリパリの海苔を食む音がやけに大きく空中へと広がり、そして前の運転席へと放たれていくように感じた。

 夜の闇の中を、低い操車音とともに移動してゆくバスという空間。
 中には私と運転手のみ。ふたり無言で共有する時間。ときおり響く海苔を食む音。どうか操車音でかき消されていますようにと願う。

 スマホが震え、LINEが届き始める。一緒に過ごしていた地元民である友人たちが、それぞれの自宅へと戻ったとの連絡。またもや着信の振動音が大きく響いて、慌ててサイレントモードに切り替える。ひとのざわめきがないと、私の出す音が車内に響くすべての音になるのだ。怖い。
 また運転席の後姿とバックミラーをチラ見した。貸し切りって、こんなに音に敏感になるものなのか。彼は何を思って運転しているのだろう。同世代だろうか。恰幅のいい運転手さんの肩幅と後頭部を眺めながら思う。

「あの、ひとりなのに走らせてしまって…ありがとうございました」
 無事空港に到着し、運転席のほうへ挨拶をすると、運転手さんはひょいっとこちらを向いてにかっと笑った。
「こちらこそお茶のひとつも出さず、おかまいもしませんで」
 ああ、絶対食べてたのバレてる。思わず苦笑する私に「おおきに」と重ねて彼は言った。一気に心の奥が、じん、と温まる。お礼を言いたいのは私の方なのに。気の利いた言葉をかける優しい運転手さんに、胸が熱くなって言葉が出てこず、私はただ、ぺこりと頭を下げて降車した。

 もう一度ちゃんとお礼をいうか「ほんまお茶くらい出してや」なんて、合っているか分からない関西弁で冗談を言ったりしてコミュニケーションをとりたかったけれど、上手くできないのも私なのだなと感じて空港へ入った。

 食べているあいだ放っておいてくれてよかったですよ、ほんとうに。最後の優しい言葉も。ほんとうに。
 あのときの運転手さん、忘れへん。

 青信号になり、バスは直進していった。
 旅先での一期一会に想いを馳せながら、バスを見送り、私は左折した。




 
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