四月の風色のなか、六年後の街で

文字数 3,050文字

 朝、窓を開けると、四月を纏いはじめた風が新しい気配を連れてきた。他の月とは違う匂いと肌触りで、頬をくすぐっていく。とはいえ北の大地。空気がほんのり春っぽいだけで、目に見える風景は枯草の茶色が多くを占めている。花の彩りは、まだない。

 代わりに色鮮やかなのは、真新しいカラフルなランドセルを背負い歩いていく子どもたち。入学したての初々しさと、誇らしげに歩く姿を微笑ましく眺める。
 窓辺の、新芽をつけ始めた華奢な枝先が少しずつ背伸びをしていて、子どもたちのようで思わず口角が上がった。四月はいつも新しい春を携えてくる。花が待ち遠しい。

 昼過ぎに娘の用事で車を出す。気温が下がり天気が崩れてきていた。行き先を確認すると、ビル名を言ったあとに、娘はもう一言付け加えた。「母の職場があったところじゃない?」
 十五年近くも通った場所なのに、娘にビル名を聞いてもピンとこなかった。確かそんな名前だった気もするけれど、と思考を巡らせる。
「どっちにしても、その近辺。駅まで行ってくれたら大丈夫」
 話を振っておいて、娘はスマホ画面を指でスワイプさせながら興味なさげに言う。
 運転しているうちに、もくもくと湧き上がる記憶。そう、そのビル名で間違いないはず。駅を通り過ぎ、記憶を頼りに車を走らせる。「このまま行くと反対車線になるから」とすっかり思い出した私は、一本手前の脇道へ入る。「裏から回りこめば入り口前に着ける」という言葉もむなしく、あったはずの道は消えていた。驚いている私に「あーあ、残念」とため息をつく娘。
 区画が変わるほどの大掛かりな工事中。片側三車線の通りから一本中道に入ると、低層の市営住宅が並んでいた街は、巨大なマンションと産業ビルに変わろうとしていた。
 ぐるりと回ってもとの道へと戻ってしまう。娘がちらりと腕時計に目をやるのが視界の片隅に入る。そばまで来て、自分の通っていた場所も覚えていないのかと、ウロウロしている母に呆れているのだろう。ほんの少し焦り始めたところで、ギリギリ時間に間に合うように到着し、娘は降りていった。

 運転席から見上げたビルは、ひとまわり小さく見えたが、そこは間違いなく私が十五年近く通っていたビルだった。あんなに通っておきながら、ビル名すら既にうろ覚えになるほど、私は遠くへ来てしまったのだと感じた。ひいふうみいと指を折り、辞めてから六年ほど経っていた。この年になると六年なんて「ついこの前」と表現することもあるほどなのに、随分と遠く感じるのは何故だろう。ほんの六年前の私は、ここが一番馴染みの場所であったというのに。元職場は、私が辞めて間もなく移転したので、ここには特に用事もなく見知った顔も既にいない。そのせいもあるだろうか。
 駐車場を見つけて車を停め、少し歩くことにした。遠くなった距離が、わずかでも縮まるかもしれない。
 車を降りると、思っていたよりも肌寒い風が、容赦なく吹きつけた。雲が素早く駆けている。雪解けは観測史上一番の早さで進んでいても、四月初めのこの土地は、まだ冬が春へとすんなりバトンを渡しきれずにいた。溶けた雪の下に埋もれていた、秋の名残の枯葉らが顔を出していて、強風に舞い上げられカラカラと音とをたてながら転がっていく。季節感のないそれを追うように、風に押されながら歩いた。

 古びた低層の市営住宅はすっかり姿を消していた。代わりに、線路向こうに真新しい高層の住宅が、レゴブロックで作られたおもちゃのように、つるんとした姿で立ち並んでいる。一見、無機質すぎて営みが感じられなかったけれど、近くへ行けばきっと温もりが感じられるのだろう。住人は皆向こう側に移り住んだのだろうから。
 小路沿いにあった個人商店も、姿を消していた。玄関先に藁色の賢そうな雑種犬が座っていて、その姿を職場の窓からよく眺めては癒されていた。年配の男性と中年の娘さんが切り盛りしていたはずだけれど、彼らがどこへ移住したのか、もはや私に知るすべはない。
 街は前へ進んでいく。様変わりしていく。禍に翻弄され、外界を歩き見ることもせず、同じ道の中だけで動いている私は、随分と置いてけぼりをくらっている気持ちになった。
 広い三車線の通りには出ずに、人気のない小路を工事現場のフェンスに沿って歩く。フェンスの向こうに見慣れたビルの頭が見えたけれど、なんの感慨も湧かない自分に驚いていた。工事音がやけに耳障りに響く。駅近くの通りには随分と学生らしき人達が歩いていて、街が若返っているように見えた。街とともに集う人も変わっていくのだ。遠く感じるのは、そのせいかもしれない。喪失感は不思議と感じない。それでも。と、ビルの頭を遠目に見ながら、線路沿いまで歩くことにした。なにかあの頃のカケラを探すかのように。

 あの長い日々は子育てに夢中の期間だった。預け先がないからと、子どもの休日通りに休むことのできる職場を探した。当時そのビルの中で働いていた記憶はのっぺりとおぼろげで、寄せ集めても薄曇りが広がる空のように遠近感がない。強風にあおられて急ぎ足で走り抜けていく雲のように、ひたすら日常を業務のようにこなし過ごしていた。
 能天気にぼんやりして歩みを緩めた今のほうが、視界も広く澄んで穏やかな気持ちでいられるのは、晴れ空にあまり動かない雲がぽっかり浮かぶ姿に近いからなのかもしれない。
 工事現場沿いを目的もなく歩く私を、工事車両の行き来を管理している警備員のような人が、不思議そうに、あるいは不審そうに見ていた。
 目が合っても気にしないで歩く。
 向こうの電柱に立ち止まっている犬をみて、あの個人商店の犬ではないかと一瞬思い懐かしさがこみ上げるけれど、近くに寄ると全然違う犬だった。通りすぎるさまを横目で盗み見て、くっきりと思い出すのが藁色の犬であることに笑えてくる。でも、私は休憩時間によく小路に面した窓にもたれ、外を眺めては息抜きをしていた。もしかするとあの頃一番気を抜いて見ていた風景かもしれない。その中にあの犬はいたのだ。

 見慣れたビルの前まで来て、案内板にいくつか六年前と同じ名称を見つけ、訳もなく安堵する。ただ、案内板は洒落たつくりに変わっていて、素知らぬ顔の佇まいをしていた。
 そのまま歩くと、ビルの駐輪場の傍らにある小さな植え込みが視界に入った。
 あの植え込みを見て、覚えた花がある、と唐突に思い出す。こんな肌寒い春間近の四月で、幼い娘たちを連れてきたときのこと。「ママ見て。ちっちゃいかわいいお花が咲いてるよ」と娘が指さして笑ったのだった。あの春、植物に疎かった私は、娘に教えたくてその花の名前をわざわざ調べた。
 足早に過ぎて忘れてしまっている日々も、懸命に刻んだ尊い日々だったことに違いはない。そう感じながら植え込みに近づいて行くと、思いがけない強さで胸が躍り、私は立ち止まった。
 目を落としたその先に、同じようにあったから。
 今年初めて出会う、地面に咲いた花。
 誰かを喜ばせようなんて気持ちも持たず、ただ「季節が来たから咲きました」と囁く花の横顔を、愛しげに見つめる。
長い冬のあと、毎年一番に小さな春を知らせる花。娘が、かわいいお花、と言った花。名前を知りたくて調べた花。
 クロッカスが、真新しいランドセルのように誇らしげに咲いていた。
 今年一番の彩りとの出会いに、あの頃のカケラを見つけ、私はおおいに満足して駐車場へと戻ることにした。記念に数枚、今年のクロッカスの写真を撮って。









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