桜のてっぺんを眺めながら
文字数 2,168文字
気付くと五月も数日を過ぎていて、ようやくカレンダーをめくる。
赤く塗られた数字を見て気付く。あ、世の中は連休なのだ。桜の時期だ。
いや、そういえば今年は桜前線が早いと言っていたのではなかったか。同じ市内に住む娘から、一週間程前に桜の写真が送られてきていたっけ。
「え、もう咲いているの」そう感じたのだった。
北国で生まれ育った私には、桜は五月のイメージ。我が家周辺は、娘が住む街の中心部よりは遅れて咲く。とはいえ、もしかしてここも咲いたかしらと、自立したあともそのままになっている娘の部屋へ行く。窓の外を眺めて安堵した。咲いていない。見逃してはいない。
ここからの桜は存在感が違うもの。見逃すはずがない。
覗いたついでに、窓を細く開けて風を通す。空には刷毛で描いたような薄い雲が浮かんでいた。窓辺の、娘が使っていた椅子に腰を下ろす。
ぼんやり眺めていると、子ども部屋から見える景色って意外と大切な気がしてくる。
私が小中学生時代に使っていた部屋は一戸建ての二階部分で、南東向きだった。晴れた朝は薄いカーテン越しにも、朝陽が輝いているのが感じられるほど部屋全体が白くなる。
カーテンを開けると、真正面には同級生が住む平屋建ての赤茶色の屋根が下方に見えていたけれど、いつからか二階を増築してクリーム色の壁になった。車が二台通れるくらいの道路が間にあったので圧迫感などはなく、いつも空は広かった。なによりも、少し左の東側に目を映すと空き地が広がっていて、広大な自然が遠くまで見渡せた。
どこか現実感のない美しい絵画のような山並みが、遠く薄群青色をして空の下に長ひょろく伸びていた。手前には黄緑色の小高い丘があり、その姿のあまりの可愛らしさに、私はすぐに丘の虜になった。低く丸みのある台形の、上辺部分から下へ広がる斜面を見ていると妙に落ち着いて、心が和んだ。
いつかあの小高い丘に登ってみたい、と思いながら毎日飽きもせずに暇さえあれば眺めていた。しばしばあの丘は空想の舞台となり、私は愉しい時間を繰り広げる。
頭の中で、あの丘で寝ころんで本を読んだり、好きな人と並んで座って街を見下ろしたり、歌を歌ったり。家で飼っていた私に懐かないウサギも、あの丘では仲良しだった。時にハイジが乗っているみたいな長く空まで届きそうなブランコがあったり、時に一面に広がる菜の花畑になったり、冬には巨大なかまくらができたりと、脚色された風景になることもあった。
あの小高い丘は、私の空想世界を宇宙のように果てしなく広げた。あの丘を眺めている間、私はふわわと空飛ぶ風船みたいに浮かれた気持ちになり、夢見心地な幸せの中に浸かっていることができた。
空想の記憶と同時に、不思議と自分の部屋の風景も思い出す。机の上にいつも出していたお気に入りのノートとBOXYのシャープペンシルや、大事にしていた若草色のエプロンをしたマージ―ちゃんと名付けた人形のことなんかを。
まるで私の部屋は丘の上にあって、文房具もマージーちゃんもあの黄緑色の原っぱで寝そべって一緒に過ごしていたかのように、現実の風景と空想の景色が、混じり合って存在している。
あれから私も親になり何度か家探しと引越しをしたけれど、当時はそんな子どもの頃の気持ちなどすっかり忘れて住処を選んだ。
今の家に住んで二十年になる。娘はすでに自立した。
私が椅子に腰掛けている娘の部屋だった窓の下には、一本の桜の木が植わっている。ここに来てからもう二十年もの間、一度もサボることなく咲き続け、私たちの目を楽しませつつ春の訪れを知らせる木。
我が家は三階部分に位置しており、その木の上部が窓のすぐそばにあり、見下ろすかたちになる。なので、いつも見ているのは木の頭、てっぺん部分。人間ならば頭頂部だ。カーテンを開けると目に入るので、四季折々の桜の頭頂部を見てきた。
蕾、三分咲き、満開、散り際、葉桜、枯れ木、そして雪花。
ほんの少し散ってきた頃が私のお気に入りだ。上から見下ろすと、木に咲いた花に加えて地面がピンク色の絨毯のように染まっていて見惚れてしまう。
まだ娘たちが幼い頃に、便利さ重視で、隣の住宅との距離が狭い駅近に居を構えた。見晴らしなんて気にせず、それなりに日当たりが良ければいいと思っていたけれど、この桜の木が一本あるかないかで随分と心は変わったと思う。
大人の私は残念ながら、もう空想の世界へと入っていくことはなかったけれど、娘はどうだったのだろう。何かを空想したり、物思いに耽 ったりしたのだろうか。
住宅の谷間にあって市内の他よりも、いつものんびりと咲き始める桜。本来ならば下から見上げる桜を、当たり前のように木のてっぺんばかりを眺めながら、過ごした娘。
五月だけではなく、次第に緑から茶、そして真白な冬にも、桜のてっぺんは、どこかへ誘 ってくれただろうか。それが幸せだったと思える瞬間はあっただろうか。多感な、心を育む時代に。
街の中心部は散り始めたという声が聞こえる中、今年ものんびりと、ようやくちらちらと咲き始めようとしている桜のてっぺんを今、眺めている。
我が家の中で、ささやかながらも、とっておきの窓辺。
ふと、あの小高い丘と、時空を飛び越えて繋がっている気がした。
(写真は去年の散りはじめの頃)
赤く塗られた数字を見て気付く。あ、世の中は連休なのだ。桜の時期だ。
いや、そういえば今年は桜前線が早いと言っていたのではなかったか。同じ市内に住む娘から、一週間程前に桜の写真が送られてきていたっけ。
「え、もう咲いているの」そう感じたのだった。
北国で生まれ育った私には、桜は五月のイメージ。我が家周辺は、娘が住む街の中心部よりは遅れて咲く。とはいえ、もしかしてここも咲いたかしらと、自立したあともそのままになっている娘の部屋へ行く。窓の外を眺めて安堵した。咲いていない。見逃してはいない。
ここからの桜は存在感が違うもの。見逃すはずがない。
覗いたついでに、窓を細く開けて風を通す。空には刷毛で描いたような薄い雲が浮かんでいた。窓辺の、娘が使っていた椅子に腰を下ろす。
ぼんやり眺めていると、子ども部屋から見える景色って意外と大切な気がしてくる。
私が小中学生時代に使っていた部屋は一戸建ての二階部分で、南東向きだった。晴れた朝は薄いカーテン越しにも、朝陽が輝いているのが感じられるほど部屋全体が白くなる。
カーテンを開けると、真正面には同級生が住む平屋建ての赤茶色の屋根が下方に見えていたけれど、いつからか二階を増築してクリーム色の壁になった。車が二台通れるくらいの道路が間にあったので圧迫感などはなく、いつも空は広かった。なによりも、少し左の東側に目を映すと空き地が広がっていて、広大な自然が遠くまで見渡せた。
どこか現実感のない美しい絵画のような山並みが、遠く薄群青色をして空の下に長ひょろく伸びていた。手前には黄緑色の小高い丘があり、その姿のあまりの可愛らしさに、私はすぐに丘の虜になった。低く丸みのある台形の、上辺部分から下へ広がる斜面を見ていると妙に落ち着いて、心が和んだ。
いつかあの小高い丘に登ってみたい、と思いながら毎日飽きもせずに暇さえあれば眺めていた。しばしばあの丘は空想の舞台となり、私は愉しい時間を繰り広げる。
頭の中で、あの丘で寝ころんで本を読んだり、好きな人と並んで座って街を見下ろしたり、歌を歌ったり。家で飼っていた私に懐かないウサギも、あの丘では仲良しだった。時にハイジが乗っているみたいな長く空まで届きそうなブランコがあったり、時に一面に広がる菜の花畑になったり、冬には巨大なかまくらができたりと、脚色された風景になることもあった。
あの小高い丘は、私の空想世界を宇宙のように果てしなく広げた。あの丘を眺めている間、私はふわわと空飛ぶ風船みたいに浮かれた気持ちになり、夢見心地な幸せの中に浸かっていることができた。
空想の記憶と同時に、不思議と自分の部屋の風景も思い出す。机の上にいつも出していたお気に入りのノートとBOXYのシャープペンシルや、大事にしていた若草色のエプロンをしたマージ―ちゃんと名付けた人形のことなんかを。
まるで私の部屋は丘の上にあって、文房具もマージーちゃんもあの黄緑色の原っぱで寝そべって一緒に過ごしていたかのように、現実の風景と空想の景色が、混じり合って存在している。
あれから私も親になり何度か家探しと引越しをしたけれど、当時はそんな子どもの頃の気持ちなどすっかり忘れて住処を選んだ。
今の家に住んで二十年になる。娘はすでに自立した。
私が椅子に腰掛けている娘の部屋だった窓の下には、一本の桜の木が植わっている。ここに来てからもう二十年もの間、一度もサボることなく咲き続け、私たちの目を楽しませつつ春の訪れを知らせる木。
我が家は三階部分に位置しており、その木の上部が窓のすぐそばにあり、見下ろすかたちになる。なので、いつも見ているのは木の頭、てっぺん部分。人間ならば頭頂部だ。カーテンを開けると目に入るので、四季折々の桜の頭頂部を見てきた。
蕾、三分咲き、満開、散り際、葉桜、枯れ木、そして雪花。
ほんの少し散ってきた頃が私のお気に入りだ。上から見下ろすと、木に咲いた花に加えて地面がピンク色の絨毯のように染まっていて見惚れてしまう。
まだ娘たちが幼い頃に、便利さ重視で、隣の住宅との距離が狭い駅近に居を構えた。見晴らしなんて気にせず、それなりに日当たりが良ければいいと思っていたけれど、この桜の木が一本あるかないかで随分と心は変わったと思う。
大人の私は残念ながら、もう空想の世界へと入っていくことはなかったけれど、娘はどうだったのだろう。何かを空想したり、物思いに
住宅の谷間にあって市内の他よりも、いつものんびりと咲き始める桜。本来ならば下から見上げる桜を、当たり前のように木のてっぺんばかりを眺めながら、過ごした娘。
五月だけではなく、次第に緑から茶、そして真白な冬にも、桜のてっぺんは、どこかへ
街の中心部は散り始めたという声が聞こえる中、今年ものんびりと、ようやくちらちらと咲き始めようとしている桜のてっぺんを今、眺めている。
我が家の中で、ささやかながらも、とっておきの窓辺。
ふと、あの小高い丘と、時空を飛び越えて繋がっている気がした。
(写真は去年の散りはじめの頃)