仲良くなる道が増えていく

文字数 2,929文字

 上の娘がようやく一人暮らしを始めた。
 何度か留学しているので今までも長期間で家を出て暮らしていたことはある。でもホームステイだったりシェアハウスだったりした。社会人となり随分経つので、一人暮らしをするには遅いくらいかもしれない。それでも、慣れない手続きや買い物、準備に親の出番は意外に多かった。

 数日前に、つつがなく引越しを終えた。
 いや、細かいことを言えばつつがなく、とはいかなかった。

 朝八時、ドアの梁に頭をぶつけそうなほど背の高くひょろりとしたお兄さんと、中肉中背に見えた中年男性(実は激重(げきおも)段ボールを三個同時に持つマッチョだった)のペアがやってきた。ふたりの引越し業者さんは、呆気にとられるほど美しく流れるような作業で、スムーズに荷物を運び出していった。
 途中で下の娘が住んでいた家に立ち寄り家電を積み込む、というおまけつきの引越し作業。我が家から運び出す荷物が無くなり「では、現地で」と、出発後すぐに追いかけるはずが、娘のお腹の調子が悪い。なかなか出発できずに後れをとり、運転席の私は若干焦る。それでも安全第一でハンドルを握る。高揚しているのか口数の多い娘の話を聞きながら。
 立ち寄り先へ到着すると当然トラックが既に停まっており、すみませーん、と慌てて娘をおろすはめに。

 待たせておいて更に待たせるハプニング。暗証番号式の玄関鍵がなかなか開錠してくれない。下の娘へ電話をすると教えてもらっていた番号が違っていて、電話越しで突っ込みを入れつつボタン操作の後、ジィーガシャリと音がして開錠。ようやく室内へ。
 その経過を優しい苦笑いで待つひょろりさん。かくれマッチョさんは話をするのが苦手な印象で、離れた場所で待っていて、運び出せる絶妙なタイミングでやってきては黙々と荷物を運ぶ。
 待たせたことを忘れ、ふたりの見事な連携プレイに感心し、ただただ案山子のように立ち尽くして眺める母娘。

 そこから新居への道は、同じ市内とはいえ来たことのない初めての道。見慣れない景色に緊張感が増していく。曲がり角を間違えないように娘の頼りなげな道案内で進む。私も口数が多いことにふと気付いて、一緒に高揚しているのかもしれない、と可笑しくなる。

 新居となる娘の部屋へ、無事に荷物を運びこまれたあと、接続する蛇口の違いから洗濯機がすぐに使えないということが判明。
 用意していた延長コードの口が足りずに、テレビのHDDが繋げないことが判明。と、細かい失敗は幾つかあった。
 それでもひとつひとつ準備は進む。
 家具家電が設置され、ラグマットを敷き、ベッドカバーをかける。足りないキッチン収納や小物、突っ張り棒や延長コードなどを選びに出かけ、買い足し、配置する。
 ミルクティーを淹れ、ひと休み。
 換気のために開けていた窓辺のカーテンがたなびいているのを眺める。五月と言えど、まだ風は冷たいけれど、動いている体には気持ちがいい。目の前に高い建物がなく、空が広い。深緑色をした山の稜線がくっきりと見えた。
 娘がクローゼットに洋服を概ね収納し、こちらへ来てソファに座る。

 いいんじゃない。
 うん、いいね。
 部屋を見渡し、満足そうに声に出しては頷きあう。
 時間とともに人が暮らす部屋らしくなっていく。
 まだまだ足りないものを少しずつ買い足し運びいれながら、新しい自分の時間を刻んでいくことだろう。私が、毎月ひとつずつお気に入りを揃えたあの場所のように。
 希望がたくさん詰まっていて、室内の空気が柔らかなピンク色に見えた。桜の時期。そういえば、我が家のように桜はあるだろうか。立ち上がり窓の下を見ると、残念ながら桜の木はなかったけれど、ムスカリとチューリップが可愛らしく咲いているのが見えた。


 実は先月からこの直前まで、下の娘の引越し作業をしていた。
 四年半ほど一人暮らしをしていたが、春に一旦戻ろうと思う、と聞いたのは卒業がみえてきた年始だった。
 不要になる家電を姉である上の娘へ引き取ってもらい、大きなものは処分し、細々(こまごま)としたものは、何度かに分けて私の車で日曜日のたびに運んでいた。
 一気にではなく、少しずつ減っていく部屋の荷物。どんな想いなのだろう。
 あともう一回で運び終わる、という日に一緒に荷造りと掃除を手伝ったのだが、その日だけで何回聞いただろうか。娘がいちいち言うのだ。掃除をしながらや、手放すモノを段ボールに入れながら「四年半ありがとー」と。
 そのたびに、部屋で過ごした娘だけの生活や想いが、空気中へ濃度を上げて溢れだしてくるようで、胸が締め付けられて泣きたくなった。一緒に掃除しながら、遠い昔、私が二年間だけ一人暮らしをした部屋での最後の瞬間を思い出したりもした。
 下の娘のひとり暮らしは暫し休憩に入る。今、どんな想いで、部屋との最後の時間を向き合っているのだろう、と横顔や荷造りする後姿をちらりと眺めながら、勝手に感傷的になっていた。それでも、今後のやりたいこと、目的があって選んだ実家暮らし。桜のてっぺんを眺めながら、一歩前へと踏み出してもらいたい。

 一方で、これから始める生活の準備を始めている上の娘を盗み見ても、やっぱり感傷的になってしまう。ふたりの眩しさが目に沁みる。
 陽が沈みかけていく。豊かな光量が、山並みを美しく浮かび上がらせていた。これから娘が日々見るだろう景色を、私はこっそり写真に収める。
 泣きたくなるから親の出番はこのくらいでいいだろう。
 最後に、一緒に洗濯物干しを組み立てて、日暮れとなり私は離脱。
 じゃあ、元気でね。と帰路につく。

 外に出ると真っ暗の空。
 今日、朝から何度も出入りした道。到着前にたち寄ったコンビニ。馴染みのない地域なので、買い物に出て、出口が右折禁止ゾーンで回り道したり、戻れなくてUターンしたり。
 そんな数時間前のことがもう懐かしく、星の少ない空を見上げ思い出しては笑えてくる。
 娘の住む場所が、私の思い出のページに、早くも仲間入りを果たしている。

 混雑した街の中心部を車で走ることのない私。
 帰り道に時計台の横を通り過ぎて、感動する。行きも同じ道を通ったのに、あまりの興奮で見過ごしたのだろうか。徒歩では見慣れた観光名所も、こんなふうに運転しながら通り過ぎるのは新鮮だった。これからはこの道を運転席から眺めることが増えるのかもしれない。
 娘たちが引っ越すたびに、仲良くなる道が増えていく。
 なんだか自分の世界も広がるようで「いいんじゃない」と独り言ちる。

 テールランプを追いながら、ハンドルを握っていると、車窓の風景が下の娘の住んでいた駅を通り過ぎた。見知った道に入りホッとする。四年半何度か(かよ)った道は、安堵を感じるほど、すでに仲良くなっていたんだな、と思う。

 長い道のりにふとシングルを選んだ日の澄んだ空や、長女を留学に送り出した日のこと、次女の努力が報われた卒業制作のことなどを思い出す。私にも娘にも、幾度かある岐路に今いるのだと感じた。 
 我が家付近の見慣れた道へと入っていくと同時に、脳内も日常へと戻っていき、夕飯の心配をし始める。頭の中で冷蔵庫内を思い出し、簡単メニュー作成をシュミレーションしつつ、我が家を目指した。





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