句点のあと

文字数 2,264文字

 “まる“は床に伏せて、尾っぽをゆっくり揺らしながら待っている。
 本当の名前は“クテン“という。句点だ。だから家族も近所のみんなも“○《まる》“と呼ぶ。

 秋の日に祖母が他界し、私は仕事を辞めた。田舎の家に戻るためだった。と言えば若干聞こえはいいが、仕事も今の生活も限界だったので、どこでもいいから隠れてしまったのだ。祖母には申し訳ないけれど。そして祖母が暮らしていた家とはつまり、まるの居る家なのだ。

 実のところ、河原で震えていた小さなまるを見つけたのは私だ。共働きの両親に代わり、幼い頃の私の面倒を見ていたのは祖母で、だから祖母は私を孫たちの中でも特に気にかけていてくれたと思う。私はまるを飼いたいと泣いて頼んだが、忙しい両親は首肯せず、祖母が引き取ったのだった。それから私は成長して一人で留守番もできるようになり、だんだん祖母ともまるとも疎遠になってしまった。祖母不孝な孫である。

 祖母は本を読むことが好きで、どの部屋にもお気に入りの本が置かれている。広告紙や包装紙を使ったお手製のカバーをかけ、何度も読み返していたのかそのカバーも少しささくれだったような文庫本が、キッチン台の端に、ダイニングテーブルに、布団の枕元に、こたつの上に、積まれているのだ。お葬式のためにそれをダンボール箱に入れて片付けたら、まるは怒ったような悲しそうな声で私にうなった。

 まるには大切な役割があるのだ。祖母に『まるちゃん、本取って』と言われれば、本をくわえて祖母の手元へ持ってくる。私がその時の気分で一番読みたい本を持ってくるのよ、と祖母はよくまるのことを自慢していた。本当だとしたら凄いけれど、多分まるは本の匂いと、祖母がどんな気持ちの時にどの本を読みたいかが分かっていたのではないかと思う。お茶の染みがついていたり、甘いお菓子の包装紙をカバーにしていたり、煮物を作りながら読んでいた本だったり、……読んで泣いたり、そういうことだ。私の想像に過ぎないけれど。

 祖母の家に住み始めて、まるを散歩に連れていってやるようになると、毎度亀岡書店の前を通ることになる。亀岡書店はこの辺りで一番の老舗であり、そして最後の本屋さんになってしまった。
「アキちゃん」
 ポスターを貼り出してあるガラス戸に足を留めたら、中からフミコさんが顔を出した。初冬の冷気に呼気が白くけぶる。傍らのまるが、ふにゃりと嬉しそうに笑い尻尾を振った。フミコさんは亀岡書店のパート店員で、祖母の友達だ。年齢は母よりもちょっと年上なだけなので、祖母とは大分離れている。旦那さんの実家があるこの街に越してきて、一人で子育てに悩んでいた頃、祖母と知り合ったのだという。好きな本が似ていて、亀岡書店で働けるよう紹介してくれたのも、すずさんなのよ、とフミコさんは言う。祖母は亀岡書店の常連客であり、店長の亀岡さんとは古い馴染みなのだ。
「まるちゃん、よかったね、アキちゃんと一緒にお散歩できて」
 まるの首元を撫ぜてやってから、フミコさんの優しげに痩けた目尻が私を見る。
「アキちゃん、これ、大庭とう子の新刊……すずさん、楽しみにしてたから」
 小脇に抱えていた紙袋を渡された。取り置きしておいてね、って頼まれていて、すずさんそのまま入院されたから……お仏壇にお供えしてちょうだい。フミコさんのしきりに瞬きしている睫毛に雫が一つ二つと浮かぶ。お葬式でも、フミコさんは気の毒なくらい顔をくしゃくしゃにして縮こまっていた。ごめんなさいね、私、すずさんに何も恩返しできなかったのが心残りで。ぼんやり立ち尽くしている私の代わりに、まるがフミコさんのエプロンの裾に擦り寄った。

 まるが枯葉を踏んで歩く音がなんだか楽しい。胸元に抱えた紙袋の重みが、なぜかあったかい気がする。紙の本を手にするのも久しぶりだった。私の蔵書はもうほとんど電子書籍である。解約した小さなアパートには本を置けるスペースがあまり無かったし、引越しの際にも、本が無いと荷物の重量が全く違う。だから祖母の家にはまだ私の本が一冊も無い。

 モノクロの空が反射する光を背に受けて、家の引き戸を開けた。まるの脚を拭いてやり、畳の部屋にある仏壇にフミコさんから預かった本を置く。まるは私の傍らの床に伏せて、尾っぽをゆっくり揺らしている。真っ黒でまん丸の瞳が仏壇を見上げながら、待っている。『まるちゃん、本取って』と呼ばれるのを待っているのだ。私は差し出されたフミコさんの赤ぎれ跡の残る手を思い出した。おばあちゃん、と私は心の中で呟いた。どうして新刊出るまで待てなかったの。その次の巻だって、その次だってきっと絶対面白かったのに。

 まるがのそりと立ち上がり、部屋をうろうろし出した。
「まる、もしかして本探してるの」
 困ったような顔をして首を傾げてこちらを見る。その時の私の気分に必要な本を持ってきてくれるのよ、という祖母の言葉が聞こえた気がした。私は畳にひっくり返り、まるは私の首元に鼻先を突っ込んでくる。年のせいか寂しいせいかしぼんでしまった毛を、もさもさと掻いてやった。そう言えば小さい頃はよくここで寝転がって、祖母に絵本を読んでもらった。
「……私の本買いにいくの、付き合ってくれる?まる」
 タブレットの中に幾つお気に入りが有ったか、自分でも思い出せない。全部紙の本で揃えたら、どのくらいするのだろう。無職の懐に二重出費は痛い。でもいいか、フミコさんに探してもらおう、亀岡書店に通ってお喋りするのだ。それで、この家に積み上げて言うのだ。『まる、本取って』
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