注文の多い彼女たち

文字数 2,000文字

 トウコさんの最寄りから隣の隣の駅、鄙びた商店街の裏道で月明かりを浴びながら、ほろ酔いのトウコさんはローストチキンの脚を片手にうろうろしている。
「ちょこくろ、お土産だよ」
 顔の中心のぽてんとした黒ブチと、白だか茶だかのモサモサした毛並みがチョコクロワッサンに見えなくもない。野良時代が長かったせいか、いつも脱走してこの辺りの街を闊歩している。でも朝は必ず起こしてくれますよ、とベーカリーの若主人である(リン)さんはトウコさんに話したことがある。いつの間にか戻ってきて、林さんの耳元で目覚まし時計と一緒にダミ声を上げるのらしい。トウコさんは思い出し笑いをした。

 そもそも日付も変わりそうな時間に何をしているかといえば、さっきまで結婚退職する同僚の送別会で飲んでいたのだ。グラスを傾けつつ、心からお祝いするのでも、関係無いと割り切ることもできない自分が嫌になった。結婚をはやるのも分かるし、そのために彼女が努力していたことも知っていた。忙しさにかまけて何もしてこなかった自分が、妬んでいいことじゃない。

 突然どうと風が吹いて、突き当たりにライトアップされた洋館が忽然と現れた。仰々しく掲げられた看板には、
『エステ・サロン 玉猫庵』
と書かれている。エステかあ、最近疲れていて隈も酷いし。少しは綺麗にしてもらった方がいいのかもしれない。上司や顧客や代理店のウケだけじゃなくて、林さんだって、気にかけてくれるようになるかもしれない。ふわふわと酔いの回った頭でトウコさんは考え、その重そうな扉を開けた。

 大きなシャンデリアに照らされ、幾つもの部屋が並んでいるドアホールにトウコさんは立っていた。受付らしきものは無く、玄関前に置かれたサイドテーブルの上に、『いらっしゃいませ。本店は準備が多く時間がかかりますが、ご容赦ください』と黄色い字で書かれたカードが載っていた。準備?とトウコさんが訝しげに思っていると、ちりんちりんと鈴の音が聞こえた。

 鈴の音は廊下に並ぶドアの一つから鳴っているらしかった。恐る恐る開けてみると、キラキラとしたワードローブの並んだ部屋だった。コートやバックをここで預けるのだろうが、スタッフが一人もいないとはおかしい。トウコさんは隣りの部屋も覗いてみることにした。

『身体の内側から美しくなれるスープをどうぞ』
 次の部屋はおしゃれなカフェのようなつくりだった。テーブルの上、器に注がれたスープが湯気を立てている。美味しそう……というよりは、魚の臭いが強い気がする。けれどフィッシュ・オイルっていうものもあるし、綺麗になるには健康も大事よね、不摂生して肩凝り腰痛に悩まされているようじゃ駄目なんだわ。とトウコさんは考えた。

『爪と髪を整えて下さい』
 次の部屋はラグとクッションが敷き詰められており、可愛らしいネイルやヘアケアの道具が一式揃えられていた。細かなところまで、きちんとお手入れすること。怠りがちなトウコさんは反省した。

『美肌クリームです。まんべんなく塗って下さい』
 鏡の部屋で、壺に入ったクリームを覗きこむと、酸っぱいようなしょっぱいような香りがする。外見って、生まれながらのものだけじゃなくて、日々のたゆまぬ努力の結果が現れるんだろうなあ、食事に気を付けたり、運動・睡眠を十分取って、身体をケアすること。自分のことすらできないのだから、相手のことなんて気遣えない。と、トウコさんは落ち込んだ。するとお腹がぐう、と鳴った。

 隣の部屋はピカピカのキッチンだった。野菜カゴはともかく、寸胴鍋やオーブンはヒト一人収まりそうなほど大きい。しかしトウコさんは、料理が好きではないのだ。林さんのチョコクロワッサンが食べられれば充分幸せで、家事全般苦手である。料理も掃除も最小限で留めたいし、洗濯の手間がかかりそうな服も持っていない。全く面白みの無い人間である。そうだよ、とトウコさんは思った。ローストチキンの詰め物みたいなもんなんだ、私は……

(あるじ)の大切な人に、何するんだい!」
 突然、喧しいベルが鳴り響いた。トウコさんが驚いて部屋から飛び出すと、廊下に黒ブチの猫が、目覚まし時計を携えて立っていた。そう、立って喋っているのだ。睨みを効かすその先には、艶やかな毛並みの白猫が、不敵に微笑みこれまた立っている。
「人間を食ったって、永遠の美貌なんか手に入らないよ」
「ちょこくろ!?」
 トウコさんは駆け寄ると、そのモサモサの毛皮を撫ぜる。
「ちょこくろ、私もう林さんに会えない」
「状況分かってる?」
「綺麗にしてないし、生活態度悪いし、家事できないし」
 自分で言っていて泣きたくなってきた。鼻を啜り上げるトウコさんの肩を暖かい肉球がポンポンと叩く。
「猫被んないところが、トーコちゃんのいいところじゃない」
 あたしもいるでしょ、とちょこくろがダミ声で喉を鳴らして、トウコさんはベーカリーのシャッター前で、目を覚ました。
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