ドリップ

文字数 1,998文字

 真木先輩と知り合ったのは、大学の図書館でだった。私はアガサ・クリスティの『ブラック・コーヒー』を元に演劇の脚本を書いていて、先輩から声を掛けられたのだった。推理小説が好きだった先輩は、ポアロ・シリーズの最後の一冊を探していた。

 先輩は奨学金で法学部に進み、弁護士を目指していた。努力家で、けれど優しくて、ウィットに富んでいて、いつも私を元気づけてくれた。小説に登場する探偵の決めゼリフを真似するのが上手くて、学生劇や路上バンドを2人で観にいった。『困っている子どもやお母さんたちを助ける弁護士になりたい』と先輩は言っていた。

 二十歳(はたち)のお祝いに、先輩はアルバイト先のバーで、カルーアミルクをご馳走してくれた。クリームたっぷりの、甘くてアルコール低めのカクテル。
「お酒を始めるならこれからね」
 と、カウンターの向こうで笑っていた先輩は、キャンパスで小説やドラマや音楽の話をしていた先輩よりも、大人に見えた。

 私は卒業して行政書士事務所に勤め出した。先輩とは連絡も途絶えがちになってしまったが、司法試験の勉強をしながら働いていると聞いていた。毎日忙しくて、大学時代のことも思い出せなくなってきた頃、事務所の忘年会に連れていかれたクラブで、先輩に再会した。黒のタイトなドレスという出で立ちで、綺麗にルージュを引いた先輩は、華やかに笑って、事務所の同僚たちをもてなしてくれた。試験の結果が出るまで、やっぱり働かないといけないから。大学時代の先輩だと知って驚く同僚に、先輩はおどけるように答えて、私は申し訳ないような悲しいような気持ちになった。それまでお酒に弱くて飲み会が苦手だった私に、こっそりエスプレッソを混ぜたカルーアミルクをつくってくれた。
「受かるつもりないんじゃない?」
 こっちで働くほうが手取りもいいんだろうし。先輩が他の席に移っていった間際に、同僚の一人が囁いた。憤りで、グラスを持つ私の手は震えた。先輩のことを何も知らないくせに、先輩よりも恵まれてるだけの人間が、なんてことを言うんだ。そう叫びたかったのに、声にならない自分に、怒りを覚えた。

 もう一度先輩に出会ったのは、二十代最後の年に、彼と別れた頃だった。顧客のオフィスからの帰り道、名前を呼ばれて振り返ると、オーガンジーの上品なワンピースドレスを纏って、少し歳が離れて見える男性と組んでいた腕を振り解き、こちらへ駆け寄ってきてくれた。紳士的な男性の好意で、高級そうなフレンチ・レストランで3人、ディナーを食べた。始めは萎縮していた私も、男性が推理小説好きだと分かってからは、お喋りに花が咲いた。食後のコーヒーの後、別れ際に素敵な方ですね、と先輩に耳打ちしたら、ひどくおかしいように笑われた。ワインできっと酔っていたのだと思う。それから涙が滲んだように呟いた。私、カルーアミルクだけはまだ上手につくれるわ。お仕事頑張って。また飲みに来て頂戴ね。司法試験のことは訊けなかった。2人の乗ったタクシーは、雨の向こうへ消えていった。

 10年ぶりのことだった。夜桜でも見ようかと、残業帰りに川岸をふらふらしていたのだ。私は事務所でも中堅となり、重要案件を任されるようになって、疲れていた。夜空におぼろに散り急ぐ桜は美しかった。堤防の道脇に小さなワゴンのカフェバーが明かりを灯していて、私はこのささやかなお花見のために、何か飲みたくなった。他の二組のお客さんたちも堤防に腰掛けて飲みながら、川に映る夜景を眺めているらしかった。
「菅原さん、来てくれたの? 嬉しい」
 ワゴンをひとりできりもりしていたのは、ジーンズにバンダナ姿の真木先輩だった。大学時代に戻ったみたいで、私は言葉が出なかった。立ち尽くしている私に、先輩は照れ笑いのように言った。
「あの人が資金を貸してくれたの。手切れ金だけどね。私にはこれが合っている」
 弁護士になることは、随分前に諦めた。私には適性が無いんだと認めるのに時間がかかったし、その諦めすら自分の怠慢なのではないかと、自分を責め続けるのは辛かった。結局、何も為せないまま、今になってしまった。
「でも、菅原さんが私のカルーアミルクが好きだって言ってくれたからさ、そのくらいは私も役に立てるんだと思って」
 コーヒーリキュールとミルクをゆっくり混ぜる指先はたおやかで、花びらのようだ。クリームにシナモンを散らした温かいカルーアミルク。コーヒーの焦茶と、ミルクの白が渦になって溶け合って、琥珀色(アンバー)のカルーアミルクになる。初めて飲んだ時よりもリキュールが多めで、シナモンとあいまってスパイシーだ。夢を追ったり現実に流されたり、私たちはそうやってまろやかに生きていく。だんだんその苦みに慣れて、ほろ酔いの思い出になってしまうのだろうけれど。
「まだ仕事中だからね」
 先輩はブラック・コーヒーを淹れて、2人で飲んだ。次に会えるのはいつだろう。
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