スティル

文字数 1,999文字

 橋本に再会したのは梅雨の真夜中、バイト先のコンビニだった。警備会社に勤めている橋本は、近くの工事現場に派遣されてきたのだった。高校生の時よりもタッパが良くなっていて、始めは気付かなかった。

 新卒で入った会社を辞めて、暫く対人恐怖のようになっていたオレが、やっと再び働けるようになった職場が夜間シフトのコンビニだった。だから、高校時代の知り合いに鉢合わせて、羞恥と屈辱感で息が詰まりそうになる。

「シフト何時からだ? 今度メシ食いに行こう」
 何度目かカウンター越しにタバコの箱を手渡した時に、橋本が笑って言った。以前は笑ったところなど見たことが無かった。いじめ、とまではいかないが、橋本はクラスの奴らから見下されていた。痩せて運動が不得意、成績が良いわけでもなく、ボソボソと俯き加減に話す。昼休みには干からびた食パンや果物を、校舎裏で一人かじっている。なぜこんなことを知っているかというと、オレも大概浮いていたからだ。橋本と違っていたのは、どんな教科もそこそこの成績だったことと、親は毎日弁当を持たせてくれたことだ。ただ、一緒に食べるような友人はいなかった。オレは変わらない。ずっと人付き合いが下手である。
「早く帰って寝ろ。お前、昼も働いてるんだろう」
 嫌味ったらしく言ってやる。こいつは今の自分がどれだけオレを卑屈にさせるか理解してないのだろうか。それなりの大学を出てそれなりの企業に就職しても、今のオレにはもう何も残っていない。あの頃は逆だったが、オレは気付いてもいなかった。

 教室に居づらくて、人気の少ない東校舎の非常階段に腰掛けて弁当を食べていたら、へなりとした天パの頭が階下で揺れているのが見えた。橋本はよく分からない奴だが、先週の体育でストレッチのペアが見つからないオレと組んでくれた恩が有る。お前、ホント身体硬いなあ、と呆れて言うと、三谷は結構柔らかいよね、と長い前髪の下から答えられた。褒められたのか? と首を傾げたところで、他の奴らがこっちを盗み見て何か言っているのが視界の端に入って、オレは口をつぐんだ。あいつらと馴れ合うつもりはないが、橋本と同じように何かとケチをつけられるようになってはかなわない。
 だがここには他の奴らの視線は無い。オレの弁当はもう半分空になっていたが、卵焼きはまだ箸を付けていなかった。好物は最後に残しておきたいタイプなのだ。これやる、橋本が顔を上げて何か言う前に、オレは卵焼きを橋本のシケた食パンの上に乗せた。挟んで、一緒に食うと美味いよ、多分。
「本当だ。卵、偉大だな」
意外に大きく開く口で、橋本はペロリと平らげた。
「卵くらい自分でも焼けるだろ」
「今ガス止まってんだ」
 夏のうちは大丈夫だと思うけれど、次いつ親父が帰ってくるか分からないからなあ。橋本は何でもないことのようにぼやいたが、オレは驚いて二の句がつげなくなった。母さんが出ていったのもしょうがないよ。家に金入れてくれるの、不定期なんだ。食費も切り詰めなきゃならない。アルバイトしたくても、親の許可がいるじゃんね。

 今になって思えば、橋本が何だかよく分からない奴だったのは、表情に乏しいからだ。恐らくずっと誰にも関心を持たれず一人で生きてきて、悲しいとか寂しいとか悔しいとか怒りとか嬉しいとか、感じる機会もあまり無かったんだろう。雁字搦めのオレとは正反対だ。母はプライドが高くて、良い母良い妻に見られるために、家事も育児も上手くこなそうとした。毎日弁当を持たせてくれたし、オレの成績を気にする。金切り声で息子を叱咤するのも、夫には妙に従順なのも、高校生のオレには不可解で気味が悪かったが、オレは母によく似ているのだろうと思う。自意識と自己防衛が強くて、他人を信頼できない。他人を心から受け入れることができないのに、誰にも理解されないと独りよがりに悩むところがある。会社での評価を伸ばそうと、何もかも抱え込んで結局捌(さば)ききれず、重要な案件で失敗した。誰も助けてくれなかったと(くすぶ)っても、自分の評価ばかりに没頭して人間関係を疎かにしたツケだ。そして母にも失望された。

「美味い台湾料理屋があるんだ」
 とうとう約束を取り付けられて、一緒に呑みに来てしまった。オーダーを通し手際良く動き回る橋本の前で、オレは黙々とビールを流し込む。色とりどりの椀がテーブルを埋めると、橋本は思い出し笑いのようにその中から煮卵を摘んでオレの取り皿に転がした。
「卵好きだろ」
 ちょっと照れたように、今は整えられている癖っ毛を掻く。美味しかったな、あの卵サンドもどき。それまで、食べることなんてどうでもよかったんだけど、金かかるしさ、でも誰かと食べるのは、楽しいもんだな、って思ったんだ。三谷のお陰で、楽しいことが増えた。乾杯、と橋本はグラスをかち合わせて、笑った。オレは味の染みた煮卵を一口に詰め込んで咽せて、涙が出そうになった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み