ツナ缶、海を渡る

文字数 978文字

 終わるはずがない。締め切りは明日朝九時、まだ半分しか書けていない。サボっていたわけではない。読むのも書くのも遅い、その上必修科目が苦手分野なのだ。私はそろりと立ち上がった。焦るばかりで、頭がごちゃごちゃして何も進まない。ちょっと歩いてこよう。

 留学生寮は四六時中ぼんやりと明るい。建物が古いのと、いつも誰か起きていて何かしているからだ。そんなところをてくてく歩き、私の部屋があるG棟からE棟へ差し掛かったとき、マリアとベリンダが共同スペースのテーブルでお喋りしているのが見えた。

 二人はパプアニューギニア(PNG)からの奨学金留学生だ。よれよれの私に気づいて、どうしたの、と声をかけてくれる。課題が終わらない。晩ご飯食べた?まだ……じゃあ一緒に食べよう、今日はご馳走だよ。二人の間では小さな炊飯器が蒸気を上げている。もう随分遅いのだが、遠慮する間もなく、マリアがボウルに炊き立てご飯をよそってくれた。

 PNGから持ってきた、と二人が取り出したのは、ツナ缶だった。PNGはマグロ漁業が盛んなの、日本も投資してくれてるし、たくさん輸入してくれるし。これ、とっておきの高級ツナ缶。一缶を丁寧に三等分してご飯の上に載せる。ごろりとしたオイル漬けのツナを、スプーンでほかほかご飯と混ぜてぱくりとかぶりつく。すっごく美味しい!ツナとオイルと塩味だけなのだが、ご飯がいくらでも進みそうだ。食べながら二人が、課題についてあれこれとアイデアをくれる。

 ここは物価が高いよ、PNGだったら海でも裏庭でも食べられるものはいっぱい採れる。ベリンダが、食べ終わったボウルのような月を見上げて呟く。色とりどりの魚を焼いて、バナナの葉で包んだタロを蒸して、ココナッツをみどって……小腹が満たされた私は部屋に戻ると、課題を再開した。マリアとベリンダに助けてもらったのだから、大丈夫。とにかく黙々と書き続け、うつらうつらした頭で夢を見た二十四時五十分。

 私は空っぽのツナ缶で、海を流れていくと、はぐれココナッツにぶつかったり、海鳥につつかれたり、汽笛が吠えるようだったり、鱗をキラキラさせた魚の大群が通ったりする。波に踊って、大きな太陽を見て、星月夜にたゆたう。私は何にもなれない、ただ錆びて朽ちていくだけ。でもどこまでも漂っていく、世界中の素敵なものを、この身にできるかぎり詰め込んで。
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