第5話 フィールドキッチン

文字数 1,625文字

イヴァン・シーシキンは、戦争の前からロシア料理のシェフだった。両親が健康を害し、サンクトペテルブルクの街中の店を閉じたので、郊外の森の近くに独立して小さな料理店を営んでいた。ある夏の夜、子グマがレストランの門の前に迷い込んできた。子グマは猟師に中途半端に撃たれて血を流しており、近くに母グマの姿は見えなかった。おそらく猟師の獲物になったのだろう。

シーシキンは子グマに駆け寄り、抱いて厨房に入り、細身のナイフを火で消毒し、子グマの上に馬乗りになって、子グマの左肩の傷を開き、銃弾を三つ見つけて全部取り去った。

「おおクマちゃん、いい子だ。おとなしくしろよ」
イヴァンは優しく声をかけながら子グマをアルコール消毒し、暴れるクマを押さえつけて薬を塗り、なんとか包帯をすることができた。

子グマはシーシキンの作ったボルシチを食べて日に日に元気になり、ある日シーシキンが目覚めると、厨房に子グマの姿はなかった。

一週間ほどいつものように村の衆に食事を提供していたが、ある日の夕方、料理店の前に立派な鮭が置いてあった。それをレストランで調理して客に出したところ、とても美味しいと喜ばれた。ふと地面を見ると、小さな動物の足跡があった。
***************************************

1,300キロメートルもの国境を接する北欧の小国スオミと長い冬の戦争になったとき、シーシキンは陸軍の料理人になった。貯蔵していた材料だけでなく、行軍先の村や街で、冬なのに雪の下からベリーや、木の上から実を見つけて、兵士たちが元気に戦えるようにした。

スオミは大国ロシアに対してしぶとく戦ったが、ロシアの物量で遙かに勝る兵器に負けそうになっていた。大量の爆薬がスオミのシラカバ、マツ、トウヒの森に投下され、美しいスオミの森の木々は大量に焼かれたり、音を立てて倒れたりした。そのうえロシアの爆撃機も森の中を走り回るスオミ兵を激しく銃撃した。

スオミはロシアと冬戦争の停戦交渉に入り、ロシアは多額の賠償金と領土の割譲を迫っていた。

そんな中、光る金の髪を灰色のスカーフで完全に隠し、ロシアの司令官を一人倒して森に身を隠した、スオミの狙撃手、スヴェン・イルマリネンが雪中を音もなく歩いていた。糧食はとうに尽きていた。作戦は果たしたが、自国の陣地まで生きて戻れるか分からなかった。

そんなとき、部隊を先に出発させ、ロシアの陣地に立つフィールドキッチンで、夜戻る兵士たちの食事を仕込んでいたシーシキンをイルマリネンの鋭い目が捕らえた。煙突からけむりが立ち、歴戦のスナイパーもフィールドキッチンから香るかぐわしい白身魚と野菜のスープ、ウハーにはあらがえなかった。あろうことか、スカーフを外し、ポケットに入れ、シーシキンのフィールド・キッチンに吸い寄せられた。

シーシキンは目を丸くして、敵のにぶく金色に光る頭が、降り出した雪の中をやって来るのをとらえた。


フィールドキッチン

「Saanko kupin Uhaa?(ウハーをいただけませんか)」

と言いながら飯ごうを開けて差し出した。スオミに188,000個ほどもある湖のような、水色の目がふたつ、シーシキンを見つめていた。

相手の言葉を知っていたシーシキンはなぜか、言われるままに大きなお玉に巨大な白身魚と野菜の塊を入れて、たっぷりウハーを振る舞った。スコープのないライフルを背中に抱えた細身の狙撃手は一杯食べ、シーシキンはなぜかその飯ごうに二杯目を入れてやった。結局、金の髪のスナイパーは三杯食べ、そこへ戻ってきたロシアの兵士たちの気配を感じ、シーシキンに深くお辞儀すると音もなく身を隠した。

「条約が締結された。停戦だ。ロシアの勝ちで!」

兵士たちはラジオを聞きながらシーシキンに口々に狂喜して叫んだ。

その声は、ロシア語を解する身を隠したイルマリネンの耳にも届いた。負けてしまったのは悲しいが、腹の中で温かいウハーが停戦の喜びに踊っていた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み