第1話:安護義之と宗子と仲良しに!

文字数 1,770文字

 三重県鳥羽の海岸の近くの安護商店の男兄弟の三男として1966年5月に安護義之が、誕生。地元の小学校を出て中学に入ると近所に住む漁師と海女さんをしている蜂谷さんの家の3人娘の末娘として蜂谷宗子が誕生した。小さい時からお母さんに依頼された買い物をしに安護商店に来た。蜂谷宗子が手に持ってた母の書いた注文書を見て安護義之が蜂谷の家に品物を運んだ。

 そして、海女の仕事が終わると、宗子の母、蜂谷博美が、代金を払いに来た。そんな事で、安護義之が、1982年4月宇治山田商業高校に入っても蜂谷宗子が、お兄ちゃんと言って慕ってくれた。安護義之は、人見知りが激しく、あがり症で、人と話すが苦手であった。しかし記憶力とそろばん、計算には、優れていた。宇治山田商業高卒業後、実家の安護商店で働いた。

 そして商品の販売、在庫管理、出納計算を任されていた。地元の漁船の船主の池内亮介は、そんな、ひたむきに働く安護義之の姿を見て感心した。そこで、お前は、自分で稼いだ金を投資で増やして財産を増やしていけば良いと語った。池内良介は、松坂高校に合格して大学受験のための予備校に通い1985年、名古屋大学経済学部に合格。

 そして、1986年、20歳になり働き出して貯金の総額が、220万円となった。その頃、池内亮介が、安護義之に池内家が、以前から世話になってるN証券の山田さんを紹介しくれた。早速、2人は、証券口座を開き200万円を入金した。その後、安護義之を気に入っていた池内亮介は、投資の入門書や株式四季報など次々に安護義之に渡した。

 池内が、安護に株投資について質問して理解させた。良い株を安く買い、高くなったら、売れば、儲かると教えた。そして休みの日には証券会社の投資勉強会に池内と安護が、出かけていった。その後、1986年11月11日早朝、川崎汽船の株価が154円で買いと指示され1万株を154万円で買い、残金が46万円となった。

 この頃、蜂谷宗子は、宇治山田商業高校2年生になり学校が休みの日は、海女さんの見習いとして先輩海女さんの手伝いをしていた。蜂谷宗子は、安護商店に良く買い物に来ていた。そして、たまに蜂谷宗子は、安護義之に映画館に連れて行ってもらった。その時、見た映画は、男は辛いよ、バック・トゥ・ザ・フュチャー、グーニーズ、ロッキー4など1,2ケ月に1回のペースで、映画を見た。

 その後、食事して、安護は、蜂谷宗子を自宅まで送った。こうして1987年3月、蜂谷宗子は、高校を卒業して海女さん見習いとして仕事を始めた。その後も毎月の様に蜂谷宗子と安護義之は、映画を見て、夕食を取ってデートを続けた。この年は、トップガン、男は辛いよ、ハチ公物語、マルサの女、などを見て、その感想を語って楽しんだ。

 安護義之は、まじめで几帳面で、神経質であり、宗子のおおらかさ、いい加減さが、可愛いと感じた。やがて1987年の夏、海岸で、海水浴に行くと、安護が、水泳が上手ではなく、宗子に泳ぎ方を教えてもらうが、運動神経が、悪いせいか、すぐに力が入って沈んでしまい、おぼれたようになるのを見て、腹を抱えて笑った。

 水泳を終えると安護が、食事を夕食をおごるとラーメンと餃子とチャーハンをいとも簡単に平らげた。すごい食欲だねと聞くと激しい運動しているのだから仕方がないよと笑った。最近、宗子の胸が、でかくなったなと、安護が、からかうと実際に触って確認したらと言い返した。すると、安護の方が、真っ赤になると言う具合であった。

 安護義之は、まじめで、口では、いろんなことを言うが、宗子の手を握ったこともなかった。11月10日、円高ドル安不安で日経平均株価2万千円台に暴落した。しかし株投資は、この当時、盛んになり日本株の売買高も絶好調であり1987年11月17日、野村証券が、初の利益日本一となったほどであった12月31日、東京円相場で、1ドル121円台を記録し1988年を迎えた。

 1980年代初頭にソ連経済が行詰り,西側に大きく遅れをとったという危機意識が起った。そこで1988年1月1日、ソビエト連邦、ミハイル・ゴルバチョフ書記長主導の下、ペレストロイカ開始。この言葉は、 ロシア語でペレとストロイカの複合語で、意味は、再構築。つまり経済を立て直すと言う意味と考えられる。
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