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文字数 5,281文字
今年の秋は暖かく、秋物が売れてないと天気予報のお兄さんが言っていたが、日が落ちると寒さを感じずにはいられなくなった。
スカートからのぞくひざ頭が冷たい。パーカーのポケットに手を突っ込み、前あきを閉じるようにわたしは身をすくめた。中学校指定の白いスニーカーを見ながらうつむき加減で歩く。
居心地を悪くさせる下品なネオンの明かり。おとぎチックに見える建物も、その中では何組もの男女が、大きな声では言えないようなことをやってるんだってことは、わたしにもわかっていた。女性の下着売り場をうろついているおじさんが似つかわしくないように、中学生のわたしとって、ここは不釣り合いな場所だった。
どうしてこんなところに来てしまったんだろう。
急に不安がこみ上げてきたが、行かなくちゃいけないんだという使命感みたいなものが心の奥底にあった。行く当てのない家出少女みたいで足取りも重い。
不意にスマホの着信が鳴った。こんな音にしていたっけ?と疑問に感じたが、なんだか注目されたくなくて慌ててパーカーのポケットからスマホを取り出した。
「もしもし?」
「朱音 ちゃん?」
自分の名前を呼ばれて初めてゾッとした。聞いたことのないおとなの男の声だった。なのに、もう何年も追い回され続けているような、不安にかられる粘着質のある声。なれなれしくちゃん付けで呼んでくるのも気持ちが悪い。返事をする気にもなれない。
黙っていると男の吐息が聞こえた。
「来てくれたんだね」
どういうことだろうか。きょろきょろと周りを見渡す。人通りはさほど多くない。ねっとりと男の腕に絡みついている女。会社帰りの酔いつぶれたおとなたち。熱心に客引きをしている軽めの男。異分子のわたしを気にとめる人もあったが、でも次の瞬間には誰もが知らぬそぶりで通りすがっていった。
そして、一瞬、男の声以外の音が聞こえなくなって、信じられない言葉が耳の中で響いた。
「今度逃げたら、殺すよ?」
なんの感情もこもっていない声に怖くなってスマホを落としそうになった。
なにこれ。誰なの?
その時、いきなり腕をつかまれてわたしは悲鳴をあげた。
とっさに逃げなきゃと思い、振り切ろうともがいていると「長澤!」と、どこかで聞いたことがあるような声で呼ばれた。見上げるとそれは同じクラスの荻原翔だった。
「荻原くん!」
「帰ろう」
「どうして荻原くんが」
「あんなやつ、ほっとけって言っただろ」
荻原はかみつきそうな形相でわたしを見つめた。
「でも……」
なにか言いかけたわたしだったが、ここにとどまる明確な理由も出てこなくて、「行こう」という荻原にうながされて自然とついていった。
わたしたちはいつしか走り出し、この界隈を脱出しようとしていた。ところが、わたしたちの目の前に飛び出し、立ちはだかる者があった。男だ。紺色のスーツを着ているサラリーマン風情の男。若いが目の下にくまがあって、頬も落ちくぼんでいる。けれども街に溶け込んですぐに忘れてしまうくらい普通な顔をしている。
「遠くから鑑賞していたのに、邪魔してもらっちゃ困るな」
男はそういってわたしの手首をつかみ、強引に引き寄せた。
さっきの電話の男だと声でわかった。ちっとも怖そうな顔をしていないのに、つかんだ手のとてつもない力強さに腰が抜けそうだった。
わたしを殺すつもりでいるのだろうか。怖くて身じろぎできない。
「自分がなにをやってるのか、わかってるのか?」
荻原は男に詰め寄った。目の位置が男と一緒で、お互いににらみ合っている。
「王子様ぶって、バカだな。なにをやってるのかって? わかってるよ、そんなこと……」
男は唇の端を引きつらせ、荻原に一歩、二歩と近づいたかと思うと、その後はわたしをつかんだまま後ずさった。
目を見開いたままの荻原くんがわたしを見てる。
なにか言いたそうに。
唇が動いたとき、荻原は膝をついて、突っ伏すように倒れた。微動だにしない荻原のお腹あたりからなにか流れ出ている。ネオンの明かりにそれが映し出されたとき、わたしは卒倒しそうになった。
「荻原くん! イヤだ! 荻原くん!」
泣きじゃくるわたしは男に引きずられ、集まる人から逃れていった。男は群衆の中の一人につかまれたが、血塗られたナイフをわたしに突きつけると、両手を上げて怯えたように離れていった。「あの男だ!」「やったのはあいつだ!」と騒ぐ声が聞こえるが、誰も男を捕まえられない。
そんな喧騒の中で白いワンピースの女を見た。とっくに夏が終わっているというのに、ノースリーブで華奢な腕を露出させている彼女は異質だった。長い髪に隠れて顔はよく見えない。
でも、わたしは彼女を見かけたことがある。
けっして彼女はわたしに近づかない。蜃気楼のように揺らめいてこちらを見ている。
「――やってくるのは、もうすぐよ」
と、彼女は遠くからささやくようにいった。
あんなにも遠くにいるのに、わたしにしか聞こえないささやき。
わたしのほかには誰も気にかけない女。
あの女だ。夢に出てくるあの女。
夢に出てくるあの女。
――え? これは、夢なの?
パッと目を覚ますと、視界がゆがんで見えた。閉じたカーテンの向こうが明るいのがかろうじてわかる。
「ああ……夢か……」
現実に引き戻されたわたしはほっとしてため息をついた。ふと気づけば布団の中でぐっしょりと寝汗をかいていた。目は涙であふれている。
やだ。夢だっていうのに。本気で泣いちゃったじゃない。
枕元に置いてあるティッシュを取って涙をぬぐい、時計を見ると、もう家を出ていなくちゃいけない時間だった。
やばい。遅刻する。
月曜日はお母さんが仕事で早く出て行く日だった。お父さんは電車で二時間揺られていくので毎朝早い。自分で起きて、自分でご飯を食べ、出て行かなくちゃならない。
お母さんが仕事をするようになってからというもの、月曜日はめっきり慌ただしくなった。うっかりしてると、目覚ましが鳴っても二度寝をしてしまう。
でも、今日は目覚ましの音さえ気づかなかった。よく見れば、スイッチを入れ忘れている。こんな日に限ってそうなのだ。
朝食は抜いていくしかない。こんなときのために栄養補給ゼリーを買いだめしてある。空腹しのぎに休み時間に食べるのだ。
洗面所に行って顔を洗う。長い時間泣いたつもりはないのに、まぶたが腫れぼったかった。ただでさえ奥二重なのにいやになってしまう。
着替えて家を飛び出し、最初に会ったのは氷室 慎 だった。家が近いこともあって小学生の頃からのつきあいだが、シンのなまけ癖は日に日に体にしみこんでいってる。もはや休んだ日のノートも当てに出来ない。
遅刻体質のシンはあきらめきった様子でちんたら歩いていた。
「ちょっとは人生焦った方がいいんじゃない?」
後ろから声をかけると、猫背気味にのんびりと振り返った。
「うわ、どうしたの、その目」
大げさにいってシンは笑った。
「男のくせに細かいな」
わたしは前髪を引っ張って隠そうとしてみたが、まったくもって届かない。
「きのうの夜、泣いたんだろ? 失恋でもしたのか?」
冷やかされてムキになる。
「そんなんじゃない。夢の中で泣いてたの」
「失恋で?」
「違うってば。荻原くんが死ぬ夢を見たの」
「荻原? 誰だっけ」
「なにいってんの。荻原くんは同じクラスの……。同じクラスの? あれ? 誰だっけ」
てっきり夢の中に出てきた少年はクラスメイトだと思いこんでいたのだが、こうやってよくよく思い出してみると、見ず知らずの人間だった。
そもそも着ていた制服だってうちの学校とは違う。夢の中の少年は濃紺のブレザーに同色のネクタイというごくシンプルなものだったけど、うちの制服はブレザーでも胸に校章のワッペンがでかでかと付いてるし、ネクタイも縞柄の趣味の悪いものだ。
荻原なんて名前、どっから出てきたんだろう。同じ中学にも、通っている塾の生徒の中にも、もっといえば、小学生の頃も幼稚園の頃にも、荻原という名前の知り合いはいなかった。
ずいぶんとカッコよかったから、テレビのタレントだっけと、考えを巡らせてみても思い当たらない。
なんであんなにすんなりと荻原の名前を呼び、なんで知らない人間に対して涙を流していたんだろう。
シンは相変わらず隣で失笑している。
「なに寝とぼけてんだよ」
「おかしいな。でも、夢の中の出来事だしね、なんだってありっちゃ、ありだね」
「あんまりにもモテなすぎて、妄想の中で男つくっちゃったんじゃないの?」
「ちょっと、あんたと一緒にしないでよ」
思いっきりシンの腕を平手打ちしてわたしは駆けだした。走りながら後ろを振り返って、少しも慌てずに歩いているシンに向かって叫ぶ。
「走ればまだ間に合うよ」
「なにに?」
シンはとぼけていう。
「学校に決まってるでしょうが!」
いってみたところで、シンの速度は変わらなかった。
「オレの内申書はどうにもこうにも修復不可能だから」と、単純明快な答えでわたしを見送ったのだった。
シンのことは嫌いじゃない。やつにはやつの考え方がある。だけど、別に遅刻してもいいか、別に休んでも構わないかと、一つ一つなにかのハードルが下がっていくことは、自分の価値も下げているような気がしてならない。
だからわたしは走る。内申書だって気になるけど、本当はそういうことじゃないと思うのだ。
手提げのバッグをリュックのように背負うと、わたしは恥ずかしいくらいに本気になって走った。
上履きに履き替えたとき、チャイムが鳴り始めた。わたしは教室目指して走り抜ける。途中、担任の中野を追い越した。中野の後ろをひとりの男子生徒が中野の歩調と合わせるように歩いていて、なかなかやるなと思ったが、自分にはそんな遊んでいる余裕はなかった。
教室に飛び込んで席に着く。息も絶え絶えながら、どうにか間に合って、隣の男子に不審がられない程度に呼吸を整える。まぶたの腫れを思い出して、冷たい手先で押さえたりしていた。
教室の前のドアが開いて担任が入ってきた。見ると、その後ろからさっきの男子生徒までくっついて入ってくる。うちのクラスのヤツか?と凝視すると、思わず声を上げそうになって口を押さえた。
この人、死んだ人だ!
ねぇ、そんなことってあるの?と、だれかれ構わずいいたくなったが、そんなことはいえるはずもなかった。
その男子生徒は夢で見た荻原翔という名で登場した少年だった。いや、本当に荻原翔という名前かどうかはわからない。ただ、夢の中でわたしはそうだと思いこんでいた。
そうだ、彼はわたしのことを長澤と呼んでいた。夢ではわたしも彼も、お互いのことを知っていたってことになる。
担任のあとをついてきて黒板の前に立った彼は夢と同じ制服を着ている。後ろから見ただけではうちの制服とまったく同じなので気づかなかったが、彼は夢の中に登場したあの荻原だった。
バカバカしい話なのだが、もしかしたら自分にしか見えていないのではないかと思って周りの様子をうかがえば、いつもよりもざわついていた。「誰、誰?」なんて浮ついた声が聞こえる。当然ながら、クラスメイトたちは彼のことを知らないようだった。
「はい。静かにしろ。転校生の荻原翔くんだ」
やっぱり。夢の中の彼と同じ名前だ。整った顔立ちに、芯の通った力強い瞳。すらっと背が高くて華奢だけど、か細いとも違う体躯。あの緊迫した中での彼とはちょっと違った雰囲気だが、間違いなく彼だった。
ざわめく新しいクラスメイトの中で、居心地悪そうに黒板の前で立ち尽くしている。けれども、1つ上の三年生の教室に間違えて入ったとしても物怖じしないような存在感だった。
「えーと、ご両親の仕事の都合で転校には慣れているという話だけど、仲良くしてやってくれな」
そういうと担任が拍手をするので、それにならってみんなが拍手をする。荻原翔は戸惑い気味に頭を下げると「よろしくお願いします」といった。
拍手をしつつ食い入るように見ていると、荻原翔と目があった。やましいことを隠してるみたいに目が泳いでしまう。むこうはわたしのことを知るはずがないのに。
機会を見てもう一度様子をうかがう。どう見たって間違いない。夢の中の荻原翔と同一人物だ。現実では初めて彼と対面するはずなのに、ずいぶんと前から恋でもしてたんじゃないかと勘違いするような、おかしな気持ちになった。
「一番後ろに席を用意したから。ええと、そこは六班でよかったかな?」
担任が聞くとひとりが「はい」と答えた。いつの間にやら机が用意されていたらしい。
「それじゃ、なにかあればまず班員に相談して。よろしく頼むよ」
荻原翔はうなずいてそちらの方へ歩き出した。途中、また目があったような気がして落ち着かなかった。落ち着かないのは彼の存在そのものだけではない。わたしはとんでもない夢を見てしまったのだと、今さらながらに気づいてしまったからだった。
荻原翔は実在した。ならば、彼は本当に刺されて死んでしまうのだろうか。
スカートからのぞくひざ頭が冷たい。パーカーのポケットに手を突っ込み、前あきを閉じるようにわたしは身をすくめた。中学校指定の白いスニーカーを見ながらうつむき加減で歩く。
居心地を悪くさせる下品なネオンの明かり。おとぎチックに見える建物も、その中では何組もの男女が、大きな声では言えないようなことをやってるんだってことは、わたしにもわかっていた。女性の下着売り場をうろついているおじさんが似つかわしくないように、中学生のわたしとって、ここは不釣り合いな場所だった。
どうしてこんなところに来てしまったんだろう。
急に不安がこみ上げてきたが、行かなくちゃいけないんだという使命感みたいなものが心の奥底にあった。行く当てのない家出少女みたいで足取りも重い。
不意にスマホの着信が鳴った。こんな音にしていたっけ?と疑問に感じたが、なんだか注目されたくなくて慌ててパーカーのポケットからスマホを取り出した。
「もしもし?」
「
自分の名前を呼ばれて初めてゾッとした。聞いたことのないおとなの男の声だった。なのに、もう何年も追い回され続けているような、不安にかられる粘着質のある声。なれなれしくちゃん付けで呼んでくるのも気持ちが悪い。返事をする気にもなれない。
黙っていると男の吐息が聞こえた。
「来てくれたんだね」
どういうことだろうか。きょろきょろと周りを見渡す。人通りはさほど多くない。ねっとりと男の腕に絡みついている女。会社帰りの酔いつぶれたおとなたち。熱心に客引きをしている軽めの男。異分子のわたしを気にとめる人もあったが、でも次の瞬間には誰もが知らぬそぶりで通りすがっていった。
そして、一瞬、男の声以外の音が聞こえなくなって、信じられない言葉が耳の中で響いた。
「今度逃げたら、殺すよ?」
なんの感情もこもっていない声に怖くなってスマホを落としそうになった。
なにこれ。誰なの?
その時、いきなり腕をつかまれてわたしは悲鳴をあげた。
とっさに逃げなきゃと思い、振り切ろうともがいていると「長澤!」と、どこかで聞いたことがあるような声で呼ばれた。見上げるとそれは同じクラスの荻原翔だった。
「荻原くん!」
「帰ろう」
「どうして荻原くんが」
「あんなやつ、ほっとけって言っただろ」
荻原はかみつきそうな形相でわたしを見つめた。
「でも……」
なにか言いかけたわたしだったが、ここにとどまる明確な理由も出てこなくて、「行こう」という荻原にうながされて自然とついていった。
わたしたちはいつしか走り出し、この界隈を脱出しようとしていた。ところが、わたしたちの目の前に飛び出し、立ちはだかる者があった。男だ。紺色のスーツを着ているサラリーマン風情の男。若いが目の下にくまがあって、頬も落ちくぼんでいる。けれども街に溶け込んですぐに忘れてしまうくらい普通な顔をしている。
「遠くから鑑賞していたのに、邪魔してもらっちゃ困るな」
男はそういってわたしの手首をつかみ、強引に引き寄せた。
さっきの電話の男だと声でわかった。ちっとも怖そうな顔をしていないのに、つかんだ手のとてつもない力強さに腰が抜けそうだった。
わたしを殺すつもりでいるのだろうか。怖くて身じろぎできない。
「自分がなにをやってるのか、わかってるのか?」
荻原は男に詰め寄った。目の位置が男と一緒で、お互いににらみ合っている。
「王子様ぶって、バカだな。なにをやってるのかって? わかってるよ、そんなこと……」
男は唇の端を引きつらせ、荻原に一歩、二歩と近づいたかと思うと、その後はわたしをつかんだまま後ずさった。
目を見開いたままの荻原くんがわたしを見てる。
なにか言いたそうに。
唇が動いたとき、荻原は膝をついて、突っ伏すように倒れた。微動だにしない荻原のお腹あたりからなにか流れ出ている。ネオンの明かりにそれが映し出されたとき、わたしは卒倒しそうになった。
「荻原くん! イヤだ! 荻原くん!」
泣きじゃくるわたしは男に引きずられ、集まる人から逃れていった。男は群衆の中の一人につかまれたが、血塗られたナイフをわたしに突きつけると、両手を上げて怯えたように離れていった。「あの男だ!」「やったのはあいつだ!」と騒ぐ声が聞こえるが、誰も男を捕まえられない。
そんな喧騒の中で白いワンピースの女を見た。とっくに夏が終わっているというのに、ノースリーブで華奢な腕を露出させている彼女は異質だった。長い髪に隠れて顔はよく見えない。
でも、わたしは彼女を見かけたことがある。
けっして彼女はわたしに近づかない。蜃気楼のように揺らめいてこちらを見ている。
「――やってくるのは、もうすぐよ」
と、彼女は遠くからささやくようにいった。
あんなにも遠くにいるのに、わたしにしか聞こえないささやき。
わたしのほかには誰も気にかけない女。
あの女だ。夢に出てくるあの女。
夢に出てくるあの女。
――え? これは、夢なの?
パッと目を覚ますと、視界がゆがんで見えた。閉じたカーテンの向こうが明るいのがかろうじてわかる。
「ああ……夢か……」
現実に引き戻されたわたしはほっとしてため息をついた。ふと気づけば布団の中でぐっしょりと寝汗をかいていた。目は涙であふれている。
やだ。夢だっていうのに。本気で泣いちゃったじゃない。
枕元に置いてあるティッシュを取って涙をぬぐい、時計を見ると、もう家を出ていなくちゃいけない時間だった。
やばい。遅刻する。
月曜日はお母さんが仕事で早く出て行く日だった。お父さんは電車で二時間揺られていくので毎朝早い。自分で起きて、自分でご飯を食べ、出て行かなくちゃならない。
お母さんが仕事をするようになってからというもの、月曜日はめっきり慌ただしくなった。うっかりしてると、目覚ましが鳴っても二度寝をしてしまう。
でも、今日は目覚ましの音さえ気づかなかった。よく見れば、スイッチを入れ忘れている。こんな日に限ってそうなのだ。
朝食は抜いていくしかない。こんなときのために栄養補給ゼリーを買いだめしてある。空腹しのぎに休み時間に食べるのだ。
洗面所に行って顔を洗う。長い時間泣いたつもりはないのに、まぶたが腫れぼったかった。ただでさえ奥二重なのにいやになってしまう。
着替えて家を飛び出し、最初に会ったのは
遅刻体質のシンはあきらめきった様子でちんたら歩いていた。
「ちょっとは人生焦った方がいいんじゃない?」
後ろから声をかけると、猫背気味にのんびりと振り返った。
「うわ、どうしたの、その目」
大げさにいってシンは笑った。
「男のくせに細かいな」
わたしは前髪を引っ張って隠そうとしてみたが、まったくもって届かない。
「きのうの夜、泣いたんだろ? 失恋でもしたのか?」
冷やかされてムキになる。
「そんなんじゃない。夢の中で泣いてたの」
「失恋で?」
「違うってば。荻原くんが死ぬ夢を見たの」
「荻原? 誰だっけ」
「なにいってんの。荻原くんは同じクラスの……。同じクラスの? あれ? 誰だっけ」
てっきり夢の中に出てきた少年はクラスメイトだと思いこんでいたのだが、こうやってよくよく思い出してみると、見ず知らずの人間だった。
そもそも着ていた制服だってうちの学校とは違う。夢の中の少年は濃紺のブレザーに同色のネクタイというごくシンプルなものだったけど、うちの制服はブレザーでも胸に校章のワッペンがでかでかと付いてるし、ネクタイも縞柄の趣味の悪いものだ。
荻原なんて名前、どっから出てきたんだろう。同じ中学にも、通っている塾の生徒の中にも、もっといえば、小学生の頃も幼稚園の頃にも、荻原という名前の知り合いはいなかった。
ずいぶんとカッコよかったから、テレビのタレントだっけと、考えを巡らせてみても思い当たらない。
なんであんなにすんなりと荻原の名前を呼び、なんで知らない人間に対して涙を流していたんだろう。
シンは相変わらず隣で失笑している。
「なに寝とぼけてんだよ」
「おかしいな。でも、夢の中の出来事だしね、なんだってありっちゃ、ありだね」
「あんまりにもモテなすぎて、妄想の中で男つくっちゃったんじゃないの?」
「ちょっと、あんたと一緒にしないでよ」
思いっきりシンの腕を平手打ちしてわたしは駆けだした。走りながら後ろを振り返って、少しも慌てずに歩いているシンに向かって叫ぶ。
「走ればまだ間に合うよ」
「なにに?」
シンはとぼけていう。
「学校に決まってるでしょうが!」
いってみたところで、シンの速度は変わらなかった。
「オレの内申書はどうにもこうにも修復不可能だから」と、単純明快な答えでわたしを見送ったのだった。
シンのことは嫌いじゃない。やつにはやつの考え方がある。だけど、別に遅刻してもいいか、別に休んでも構わないかと、一つ一つなにかのハードルが下がっていくことは、自分の価値も下げているような気がしてならない。
だからわたしは走る。内申書だって気になるけど、本当はそういうことじゃないと思うのだ。
手提げのバッグをリュックのように背負うと、わたしは恥ずかしいくらいに本気になって走った。
上履きに履き替えたとき、チャイムが鳴り始めた。わたしは教室目指して走り抜ける。途中、担任の中野を追い越した。中野の後ろをひとりの男子生徒が中野の歩調と合わせるように歩いていて、なかなかやるなと思ったが、自分にはそんな遊んでいる余裕はなかった。
教室に飛び込んで席に着く。息も絶え絶えながら、どうにか間に合って、隣の男子に不審がられない程度に呼吸を整える。まぶたの腫れを思い出して、冷たい手先で押さえたりしていた。
教室の前のドアが開いて担任が入ってきた。見ると、その後ろからさっきの男子生徒までくっついて入ってくる。うちのクラスのヤツか?と凝視すると、思わず声を上げそうになって口を押さえた。
この人、死んだ人だ!
ねぇ、そんなことってあるの?と、だれかれ構わずいいたくなったが、そんなことはいえるはずもなかった。
その男子生徒は夢で見た荻原翔という名で登場した少年だった。いや、本当に荻原翔という名前かどうかはわからない。ただ、夢の中でわたしはそうだと思いこんでいた。
そうだ、彼はわたしのことを長澤と呼んでいた。夢ではわたしも彼も、お互いのことを知っていたってことになる。
担任のあとをついてきて黒板の前に立った彼は夢と同じ制服を着ている。後ろから見ただけではうちの制服とまったく同じなので気づかなかったが、彼は夢の中に登場したあの荻原だった。
バカバカしい話なのだが、もしかしたら自分にしか見えていないのではないかと思って周りの様子をうかがえば、いつもよりもざわついていた。「誰、誰?」なんて浮ついた声が聞こえる。当然ながら、クラスメイトたちは彼のことを知らないようだった。
「はい。静かにしろ。転校生の荻原翔くんだ」
やっぱり。夢の中の彼と同じ名前だ。整った顔立ちに、芯の通った力強い瞳。すらっと背が高くて華奢だけど、か細いとも違う体躯。あの緊迫した中での彼とはちょっと違った雰囲気だが、間違いなく彼だった。
ざわめく新しいクラスメイトの中で、居心地悪そうに黒板の前で立ち尽くしている。けれども、1つ上の三年生の教室に間違えて入ったとしても物怖じしないような存在感だった。
「えーと、ご両親の仕事の都合で転校には慣れているという話だけど、仲良くしてやってくれな」
そういうと担任が拍手をするので、それにならってみんなが拍手をする。荻原翔は戸惑い気味に頭を下げると「よろしくお願いします」といった。
拍手をしつつ食い入るように見ていると、荻原翔と目があった。やましいことを隠してるみたいに目が泳いでしまう。むこうはわたしのことを知るはずがないのに。
機会を見てもう一度様子をうかがう。どう見たって間違いない。夢の中の荻原翔と同一人物だ。現実では初めて彼と対面するはずなのに、ずいぶんと前から恋でもしてたんじゃないかと勘違いするような、おかしな気持ちになった。
「一番後ろに席を用意したから。ええと、そこは六班でよかったかな?」
担任が聞くとひとりが「はい」と答えた。いつの間にやら机が用意されていたらしい。
「それじゃ、なにかあればまず班員に相談して。よろしく頼むよ」
荻原翔はうなずいてそちらの方へ歩き出した。途中、また目があったような気がして落ち着かなかった。落ち着かないのは彼の存在そのものだけではない。わたしはとんでもない夢を見てしまったのだと、今さらながらに気づいてしまったからだった。
荻原翔は実在した。ならば、彼は本当に刺されて死んでしまうのだろうか。