3.奪われたのはどちらか

文字数 4,938文字

 ぼくはいつもどおりに学校へ来ると、遅刻ギリギリでやってくる荻原を待った。昇降口前の廊下を行ったりきたり、踊り場の窓から校門前辺りを眺めたり、クラスメイトを見かけるとどこかへ行く用事があるふうに目的もなく歩いたり。まるで恋いこがれる誰かを待っているみたいで、ちょっと気恥ずかしかった。
「早くしろー!」
 校門に立っている生徒指導の先生が、威張り腐った調子で叫んでいた。
 校門の右の方から、垣根の上をぴょこぴょこと黒い頭が見え隠れしてやってきた。荻原だ。カバンを小脇に抱えて小走りしているのが隙間から見える。すれ違いざま、先生に尻を叩かれて悪ふざけのように「いてー」とわめいた。
「たまには余裕を持ってこい」
 と、生徒指導にいわれ、「はーい」と生返事の荻原。
 ぼくは踊り場から下りていって下駄箱の前を通り過ぎ、駆け込んでやってくる大勢の生徒に混じってまた逆戻りし、偶然会うようなタイミングで廊下を歩いた。
 するとまさにばったりと荻原と顔を合わせ、荻原は驚きながらも「おっす」と片手を敬礼するように上げた。ぼくは軽くうなずいて、なんども復唱した言葉を思いついたようにいう。
「あ、そうだ。きのうのことだけど――」
「ああ、悪かったな。本当にそこまで心をのぞくつもりはなかった」
「あ、ううん。ぼくのほうも逃げたりして――」
「もういいって。ほら、遅れっぞ」
 肩の辺りをバシッと叩かれ、傷口に激痛が走り、思わず悲鳴をあげそうになったが、いつもの癖で口をつぐむ。
 荻原はダッと廊下を駆け抜けて階段を上っていった。ぼくもあとを追って階段へいくと、荻原の姿はすでになかった。階段を上りきって二年五組の教室のほうへ向かおうとしたら、腕がぐいっと引っ張られた。
「こっち」
 振り返ると階段の上から荻原がニカッと微笑みかけた。荻原はそのまま三階へ上っていく。ついていくと、三階を通り越してまだ上っていく。終いには階段がなくなり、その先のドア突き当たった。立入禁止と書かれた張り紙など目に入らないかのように、荻原は慣れたかんじで内鍵を開けた。
 薄暗い階段に、光が射し込んだ。
 外に出ると、ぼくの好きな青が、うそみたいにいい色合いで空一面に広がっていた。
 そうか、うちの学校、屋上があったのか。
「今日はまた天気がいい」
 荻原は漫画の一コマみたいに背伸びをした。
「ここ、田舎のくせに暑いよな」
「このへんは盆地になってるし、都会から流れてくる熱風のたまり場になってるんだ。今の季節はまだましだよ」
「ああそうだな、一ヶ月前は中華料理屋の路地裏みたいな暑さだった」
 荻原は低いフェンスのそばに立ち、入り口でたたずむぼくを手招きした。
「こいよ。こっちの方が眺めがいい」
 ぼくがそっちへ行くと、荻原はひょいっとフェンスを越えた。
「ああ! 危ないよ」
「平気だって」
 と、いわれたが、高所恐怖症のぼくはフェンスの手前で立ち止まった。
 そこから見る生まれ育った町は思った以上にちっぽけだった。世の中での自分もまたこんなふうにちっぽけで、発信したSOSは誰に見られることもなく埋もれていくものなのかもしれない。
「ぼく、荻原のこと、誤解していたみたいだ」
「いや、オレが悪いんだよ。透視能力を自慢げに見せびらかしたから、こうなってしまったんだ」
「ねぇ、どうしてそんなこと――」
 いいかけると、荻原は遮るように「オレ、転校するんだよ」といった。まだ慣れ親しんでいない町を見下ろしながら、荻原は淡々と自分を語った。
「オヤジの仕事の関係でさ、頻繁に引っ越しをしなくちゃならないんだ。だから、小学生の頃から転校ばっかり。誰よりも出会った人数が多いはずなのに、オレのことなんて一握りだって覚えてないよ。あっという間にいなくなるからね。それが寂しくて。透視が出来る謎の転校生、なんていったら、インパクトあるだろ? だから、ちょっとやってみたくなったんだ。まったく、バカだよな。そんなことでしか人を惹きつけられないなんてさ」
「そんなこと……」
「オレはすぐに転校しちゃうことがわかってるからね。そのたびに友情関係をつくるのが面倒だと思うようになっていたんだ。偶然心の中が見えたりしても、面倒くさいやって、ほったらかしにしてた。どうせこいつはオレのことすぐに忘れるんだろうなってね」
 心のないようなことをいいながら、荻原はどこか温かみのある人間に思えてならなかった。悩んでいるクラスメイトを知らんぷりし続けていたのが、ずっと引っかかっているのだろう。語り口がさみしそうだった。
「だけど、少しは成長したってことなのかな。斎木の心を見てしまって、放っておけねぇって思った。だから、きのう声をかけちまったんだ。今朝、斎木の方から声をかけてくれたからうれしかったよ」
「お礼を言わなきゃいけないのはぼくのほうだ」
「――斎木。まだ、なにも終わっちゃいないよ」
 荻原は髪を風になびかせ、ぼくを振り返った。
 荻原の目には力がある。こんなにも真剣にぼくを見てくれた人がいただろうか。虐待に気づきはじめた小学校の先生も、それほど事態が悪化していってないことにして、無関心を決め込んだ。いや、「悪いことをしているのはぼくの方だから、これ以上お父さんを怒らせないで下さい」とぼくがいったことを忠実に守っていたともいえる。
 本当にぼくは学校では普通すぎるぐらい普通で、誰の協力も必要としていなかったから。
「まだ終わってない。自分で動き出さなきゃなにも変わんない。オレもひとつひとつハードルを越えていかなきゃならないんだよ。正面から向き合わないと。一緒にいられるのが短い時間だからといって、希薄なつきあい方するってのは心が貧しいんだよ。見返りを期待する親切なんて親切じゃないだろ? 何かを期待する友情も友情じゃない。だから、これもそういうことだ。放っておいてくれっていうのは寂しいことだよ。斎木も立ち向かえ。自分自身と。それが想像以上に苦しいことだってわかってるけど、オレは人ごとだなんて思ってないから」
 荻原はドキッとするくらい優しい瞳になると、それを隠すようにグラウンドを見つめ直した。
「人を手助けするのも、仲良くなりたいと思う気持ちも、たいした理由なんてなくてもいいんじゃない? なんとなくで。なんとなーくやったって、うまくいくときはうまくいくんだから」
 なんとなくいたような男にはならないよ、荻原は。
 ぼくにとっては一生忘れられない存在になるだろう。記憶の底の方に埋もれても、またふと「いい人だったな、荻原は」なんて思い出すんだ。
 荻原はフッと笑った。
 あれ? 今、ぼくの考えていることがわかったのかな?
 荻原はいきなり腕でぼくの首を締め上げた。
「わぁ。あ、危ないよ」
 ちょうどチャイムが鳴って、荻原はなにごともなかったかのように「あーあ。クソ面白くもねー授業がはじまる!」といってフェンスを乗り越え、こっちに戻ってきた。

 それから、荻原とは話すチャンスがなかった。放課後は舞台のセット作りをして、ぼくはまた自宅までの道のりを一時間ほどうろつきながら、今夜はどうしたらいいのか考えていた。
 なにか、行動を起こす……。
 台所にある包丁が脳裏に浮かんだ。
 夢の中での出来事がリアルになってくる。風呂場で包丁を握ったぼくが父さんを刺し殺している。真っ赤な血を浴びて、ぼくは風呂場の鏡を見ながらうすら笑っているんだ。
『やめてくれよ』
 ――荻原?
『キミが犯罪者になる必要なんかこれっぽっちもないんだ。オレに、まかせてくれないか』
 荻原がそばにいれば、何かが期待できそうだった。
 夕食後、ぼくは父さんの視線を感じながら、浴室に入っていった。
「荻原、いるよね?」
 と、何度も問いかけながら、服を脱ぐ。
『心配するな。きっとうまくいく』
 ぼくがタオルに石けんを擦りつけていると、父さんはいつものように無言でやってきた。それが当然といわんばかりにベルトをはずし、ピシャリと音を立てた。ぼくの手から石けんが滑り落ちて体がいうことをきかなくなった。耳のすぐそばをベルトが唸りをあげて通り過ぎ、恐怖で肩をすくめるなり激痛が走った。
 その時だ。脳しんとうを起こしたみたいに世界がぐにゃりとゆがむと、ぼくは父さんに殴りかかっていた。
 いや、ぼくじゃない。荻原だ。荻原がぼくに成り代わって、反撃をしたのだ。
 貧弱だと思っていたぼくの拳は凶器にもなった。操る人間が強ければ、体の大小など関係ないかのように、荻原の繰り出すパンチが、ひるんだ父さんを打ちのめした。「ちくしょう、ちくしょう」と叫びながら、倒れた父さんに何度も垂直に拳を振り下ろしている。
『荻原、もういいよ!』
 荻原は我に返ったように動きを止めると、浴室はエコーがかかったぼくの呼吸でいっぱいになった。みなぎるような興奮がぼくにも伝わってくる。
『やったよ。荻原』
 ぼくは歓声を上げたが、声にはならず、荻原がやるテレパシーのように心の中で響いた。するとぼくの意志とは関係なく、ぼくの瞳はお風呂にある鏡をじっと見据えた。夢の中で見たぼくのように、うっすら笑っている。
「オレは、荻原じゃないよ」
 と、ぼくの口がしゃべった。
『え? 荻原でしょ。テレパシーでぼくの心に話しかけているんじゃない。もう、もとに戻してよ』
「テレパシーってのはうそだ。オレはキミの分身さ。キミの中にいるもうひとりの人格。それがオレ。荻原が心に話しかけてきたことなんて、一度もなかったんだぜ。アイツは人の心が読めるだけ。オレの存在には気づいてないみたいだけど。キミも単純だからすっかり騙されてくれてうれしかったよ」
『なにをいってるのかわからないよ。もうひとりのぼくってなに?』
「キミは虐待されているとき、気を失っていると思いこんでいるみたいだけど、でも本当はそうじゃない。キミが心の隅に逃げ込んで、代わりにオレを押し出していたんだ。オレは殴られるために生まれてきた。泣きもわめきもしない、じっと耐える子供。でも、もうそんなのはうんざりだ。父親に殴られっぱなしの斎木圭太はいなくなった。この体はオレが勝ち得たんだ。誰のものでもない。このオレのものだ。本当はケイジって名前だけどしようがない。オレはたった今から斎木圭太になるんだ」
『なにいってる! ぼくが斎木圭太だ。この体はぼくのもんだぞ』
「オレのものだよ。キミだってわかっているはずだ。どっちかが死ぬしかないんだ。この体にふたつも心はいらない。オレも気づくのが遅すぎたよ。斎木圭太からこの身体を奪えばいいんだってことにね」
 ――どっちかが死ぬしかない。
 ぼくか父さんかではなく、死ぬのはぼくかもうひとりの自分だったというのか。
「悔しかったら奪ってみな。へなちょこのキミには無理だろうけどね。でもいつかお前を殺してやる。この体を使ってなにもかもめちゃめちゃにしてやる。罪の意識にさいなまれて、お前の心が耐えきれないほどめちゃめちゃに……心だけを、殺してやる」
『どういう意味だ? おい!』
 ぼくの体は鏡の中から姿を消した。もうひとりのぼくが歩き始めたのだ。ぼくの意志ではこの体がコントロールできなくなってしまったのだ。
 こんなにも簡単に体が奪われるなんて。
 今までもなにもできなかったように、隅っこに閉じこめられたまま、ただじっとしているしかなかった。

 ケイジがベッドの中にもぐりこんだあと、いつの間にか僕も寝てしまっていたようだった。目が覚めると喉がからからだった。びっしょりと寝汗までかいている。とても悪い夢を見ていたみたいに。
 試しに起きあがってみると、ぼくは自分の体を動かせた。台所へ行って牛乳を飲む。夢じゃない。ぼくの体は戻ったように思えた。けれども、それはケイジの意識が眠っているときだけだった。朝、ケイジが目覚めるとぼくは幻でも見ていたように心の隅に追いやられた。
 ケイジが主人格となって、ぼくの体をのっとってしまったのは間違えなかった。
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