4.消えるのはお前だ

文字数 8,205文字

 いつもと変わりない朝だった。
 専業主婦の母さんはぼくたちと同じ時間に起きて一緒に食事をとる。父さんが朝食を食べるのはまちまちで、そのときの気分によって決めているらしかった。今日はまだ起きていない。あんだけ殴られたら、妹にも見せる顔がないだろう。
 学校なんてすっぽかすだろうと思っていたが、ケイジはきっちり目覚ましを仕掛け、ぼくがいつも起床する時間にベッドを出ていた。
 なにをたくらんでいるのだろう。ケイジが口で話しをする以外、心で何を考えているのか、まるでわからなかった。
 でも、身体のことはぼくにもわかった。きのうの晩、父さんを殴った右の拳がズキズキと痛んだ。この身体が人を殴ったのは初めてだ。殴り慣れない拳が強靱な精神だけで無理に使われたのだ。後遺症でもない方がおかしい。
 カチャリと、後方でリビングのドアが開く音がした。ぼくにも聞こえるのだ。この身体で感じることはすべてわかる。それだけが生きた心地のする瞬間だった。
 ケイジは知らん顔でミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーをすすっている。正面に座っている妹が、リビングに入ってきた父さんを見て驚いた顔をしていた。ケイジに殴られたあとがひどく残っているのだろう。だが、何か言われる前に視線を戻してトーストをかじった。そして何か思いついたように妹はぼくを上目遣いで見た。そうだ。殴ったとしたらぼくしかいない。
 母さんは立ち上がって、きのうからスイッチが入ったままの炊飯ジャーからご飯をよそっていた。父さんは自分の席に座り、なにも用意されてないので、
「俺が座る前に飯ぐらい用意できないのか!」
 と、怒鳴り散らした。
「すみません」
 母さんが慌ててご飯を持ってくる。当たり前のことすぎてぼくは見過ごしてしまうところだったが、勝手に顔の筋肉が引きつり、ケイジはぼそっとつぶやいた。
「なんだよ……えらそうに」
「なんだと?」
 きのうのことは夢であったかのように、いつもと変わらぬ調子で父さんはぼくを睨んだ。自分が一番えらいと信じて疑わない父親。口答えする子供こそが信じられない存在なのだ。
 母さんだけがおどおどと取り繕おうとしている。
「圭太、やめなさい」
 ケイジは乱暴にマグカップをテーブルにおいた。跳ね返った熱い液体も気にならないのか、取っ手を強く握りしめたままだった。
「さんざん人のことを振り回しやがって。決まった時間にメシぐらい食えねぇのか。食えねぇならえらそうな口叩いてんじゃねぇよ!」
「誰に向かって口をきいてるんだ!」
「誰に向かってだって? アンタが一番えらいって誰が決めた? アンタのそういう態度が家族を険悪にしてるって、いい加減気づけよ!」
 ケイジは握りしめたマグカップを、なんの躊躇もなく父さんにぶちまけた。
「あちぃ!」
「なんてことを!」
 父さんと母さんがばたばたとしているうちに、ケイジはダイニングを出ていった。
 とんでもない展開に驚くというよりは、悪名代官を懲らしめたようなすかっとした気分だった。ケイジも同じことを思っていたなんて。父さんは間違っていると言いたいのに、ぼくにはどうしてもそれが言えなかったのだ。
 ただ、それはケイジにとっても、ただ殴られるために生み出された人格から一歩踏み出す瞬間だった。
 ケイジは部屋に戻ると制服に着替えた。学校には行くようだ。このまま学校に行かれては、本能のおもむくままに行動しかねなかった。
 ケイジの目的はぼくを消すことだ。ぼくがこの体に戻りたいと思わなくさせるように。この体から消滅していまいたいと思いこむように。だが、この体を使いたいと思っているケイジにとっても、それは諸刃の剣でもあるはずだった。
 ケイジは時間割表を見ながらカバンに教科書とノートを詰め込んでいく。一気に片を付けるつもりはないらしい。
 支度をすませ、階段から下りてきて玄関で靴を履いていると、母さんがリビングから出てきた。コーヒー色に染まった雑巾を手に持ったままだ。
「圭太……ごめんね」
 ぎゅっと手に力が入り、雑巾にたっぷりとしみこんだ液体が染み出てきた。
「圭太が辛い思いをしていたのに。なにもできなかった」
「もう遅いんだよ……」
 ケイジはかろうじて聞こえる程度の声で静かにいった。だが、その声は怒りで震えている。
「遅くないわ」
「アンタは母親である前に、あの男の妻だったんだよ。オレがどんなに虐待を受けようとも、オレを連れて出ていくことなんか、できやしないんだ」
「出ていかなくてもやり直せる。だから、圭太も父さんのことを許してあげて」
「許してやれだと? 本当にそんなことが出来ると思ってんのか? ふざけんな!」
 ケイジは大声を張り上げた。ぼくが怒ることをまったく想像していなかったかのように、母さんは驚いて言葉をなくしていた。
「今までのことを全部チャラにできるかよ! アンタだってそうだよ。自分はなにもやってないみたいな涼しい顔しやがって。どいつもこいつも。結局、オヤジにしがらみついて生きていただけだったんだ! そうだろう? だからオヤジが何をしようと、何も言えなかったんじゃないか! こんな家、もう、うんざりなんだよ!」
 なんの反応も示さない母を残し、ケイジは家を飛び出した。その足は学校に向かっている。肩を怒らせ、何者にも怖じ気づかない強い足取りで、立ち向かっていた。自分自身でいったように、泣いて許しをもらうことなどしない、強い子供だった。

 心の隅で見る学校はいつもより遠く感じられた。小宇宙に隔離されてしまったような絶望がぼくを襲っていた。今まで、死ぬということを意識したことがなかったのだ。死んだあとどうなるのかなんて誰もわからないが、肉体だけが生き続けても意味がない。人の存在価値はきっと心にある。
 もう、ぼくはぼくでないのかもしれない。
 ケイジはまさにぼくの分身だった。ぼくを頼りにしなくても上履きがおいてある場所をちゃんと知っている。こんなふうにずっとぼくのことを見ていたのだろう。ぼくの行動も性格も熟知しているにちがいない。
「よぉ」
 振り返ると荻原だった。トクンと心臓が高鳴った。
 ケイジが、動揺している?
 そうか。ぼくがぼくじゃないことに気がつけるのは、心が読める荻原だけじゃないか。そうだ。きっと荻原ならぼくじゃないと気づく。ぼくの呼びかけにだって。
 おーい! 荻原! 気づいてくれ!
「あれ……」
 荻原はぼくの顔を不思議そうに見た。
 いいぞ! 荻原! ぼくだよ!
「今日って……数学のテスト、あったっけ?」
「え?」
「あ……ごめん。また頭に飛び込んできたんだ。数学の公式を思い浮かべてなかった?」
「……。それは……塾。塾でテストがあって。今から不安なんだ」
 嘘だ。ぼくは塾に通ってない。
「そっか。悪かったな」
 その嘘を見抜くことが出来ず、荻原はあっさりと行ってしまった。
 心の隅で叫ぶぼくにも、ぼくを演じるケイジにも気づかなかった。荻原でさえも。
 ぼくの存在を証明してくれるのは、もう誰もいなかった。

 教室へ行くと殺伐とした空気に包まれていた。なにが、というわけではないが、いつもと違う雰囲気だ。ケイジはぼくの席に辿り着いてカバンから教科書を取り出して机にしまっている。
 なんだろう、この感じは?
 吹雪さんが「ねぇ」と話しかけてきた。同じ班だけど、朝から声をかけられるなんて滅多にあることじゃなかった。心がぼくじゃないと気づいているわけじゃないだろうか、こわばった表情でぼくを見ている。
「ひどいことが起こったの」
「ひどいことって?」
 とケイジは普通に応対した。
「それが……セットが全部壊されてるの」
「壊されてるってどういうこと?」
「来て」
 ケイジはカバンを机の上に置いたまま中断して吹雪さんについていった。
 教室の後ろにまとめて置いてあったセットがボロボロに引きちぎられていた。もう少しで完成だった納屋の絵も、すでに完成していた1,2,3と書かれた表彰台も、きのう吹雪さんたちが作り始めていた電柱のセットも、みんなただの紙くずとなってゼロの地点に戻されていた。いや、振り出しに戻った以上の徒労感。
 いったい、誰がこんなことを……。
「斎木くん……」
 吹雪さんが今にも泣き出しそうな顔してぼくを見ている。吹雪さんは吹奏楽部の練習があったのに、あまりに進んでいない状況を見かねて、数人の女子を集めて作ってくれていたのだった。
「こんなことになって……」
「……しょうがないよな」
 ケイジはそっけなく答えた。壊されたセットを見下ろす目がとても冷ややかなような気がする。ケイジにとってはどうでもいいことに違いなかった。
「しょうがないっていっても――あ、斎木くん?」
 ケイジは吹雪さんを無視してぼくの席に戻っていった。後ろで周りの女子が吹雪さんを慰める声が聞こえる。
「気にすることないよ」
「落胆しすぎてるんだよ」
「そうよ、こんなのあんまりにもひどすぎるもの。そっとしておこう、ね?」

 担任の松岡がやってくると、ひとりが先生を引っ張って事態を説明した。誰もがその残骸を遠巻きに見ていて、散らばったままのようだった。松岡が教卓の前に立つと「ショックなことかもしれないが、みんなで片づけておくように」とまずはいった。
「今朝、一階のトイレの窓が割れているのが発見された」
 とたんに教室中がどよめいた。得体の知れない不安。その侵入者の仕業に違いないと誰もが思った。
「他のクラスでもなにか壊されていたんですか」
 と、誰かが聞いた。
「いや、まだその報告は聞いていない。このあと職員室に戻ったら状況がもっと把握できると思う」
「だけど、そんな話し聞いてねぇよ。他のクラスはみんな無事だって」
 と、金成は声を荒げたが、その責任の矛先が誰にあるのか宙に舞って、それが余計にイラつかせていたようだった。
 他のクラスでも当然文化祭に向けての準備が進んでいるはずだった。演劇をやるクラスもあるし、何かをクラス全員で協力して作り上げるという課題をこなしているクラスもある。もしも二年五組だけが被害にあったとするなら、学校へ侵入した者は二年五組だけが標的だったことになる。それも、教室には何らかの創作物があると知っている人物だ。決して多くはないだろう。もしかすると学校内の生徒かもしれないし、ひょっとするとクラスメイトかもしれないのだ。疑心暗鬼になっても不思議はない。
「そうだよ。こんなときには荻原だろ」
 と、金成は突然立ち上がって荻原の方に鋭い視線を投げかけた。
「ひとの心が読めるんだろう? もし、うちのクラスに犯人がいるんだったら透視してみろよ。お前ならわかるだろ?」
「なにを馬鹿なことをいってるんだ」
 ウワサを知らない松岡は怪訝な顔をした。だけど荻原は「もうやってみたよ」とぶっきらぼうに答えた。
「オレだっておかしいと思って、やってみたよ。だけど、このクラスに犯人はいない。当然だろ? もう時間がないっていうのに、自分たちの首を絞めるようなことをしてどうするんだよ。クラスメイトを疑う前に作り直せばいいじゃないか。どうせ今まで誰かひとりにまかせてきたんだろ?」
「お前がやったんだろ!」
「やめないか!」
 松岡が怒鳴って教室が静まりかえった。ケイジがフンと鼻を鳴らしたが周りには聞こえていないようだった。
『オレがやったっていおうかな』
 ケイジが心の中で話しかけてきた。
『誰も信用しないよ』
『そうかな。クラスの創作物が壊されたぐらいで警察沙汰にはならないだろうけど、窓ガラスが割られてたら学校も届け出ないわけにはいかないさ』
『どういう意味だ』
『きのうの夜はゆっくり寝られたか?』
『は? 関係ないだろ』
『そうかな。オレがこの体の支配者だってこと、忘れたわけじゃあるまい?』
 ぎくりとした。ぼくが知らないところでケイジが何をしたというのだ。
『風呂場でオレはお前の代わりになっていた』
 ぼくが気を失っている間、ケイジは父さんにぶたれていた。それをぼくは知らなかった。
 それが――なんだというのだ。
『お前が寝ている間、オレは学校に侵入したんだよ』
『……まさか!』
 嫌だ! ぼくが、ぼくの体がセットを壊したなんて。
『警察から呼び出されるのをビクビクしてるといい』
 クラスの中がどんよりとした嫌な空気になる以上に、ぼくは吐き気がするほど不快なものに追いつめられていた。
 警察が、ぼくのところに?
 窓ガラスに指紋が残っているとかそういうことだろうか。小柄なぼくの手だったら、おとなじゃなく子供が犯人だとすぐにわかるだろうか。
 どうなるんだ。ぼくには記憶がない。
 そう、記憶がないのと一緒だ。犯行当時、ぼくは寝ていた。記憶があるのは――真夜中に起きて牛乳を飲んだこと。全力疾走したあとのようにびっしょり汗をかいていて――そうか、あのときか。疲れ切ったケイジは熟睡していたのだ。
 そんなこと、誰が信用するというのだ。
 ぼくをおとしめるケイジの計画は、もう始まっているのだ。

 授業中、ケイジはおとなしかった。金成とも適当に会話をし、先生に名指しされればきちんと受け答えをした。
 ケイジが唯一恐れているといったら、荻原だろう。ここで斎木圭太らしからぬ行動をとり、自分の存在がばれてしまうのは特ではない。荻原はまたすぐに父親の仕事の都合で転校していくのだ。ほんの少し待てばいいだけ。紛らせるために難解な公式を復唱して妨害しているのだ。
 ケイジは休み時間にトイレへと向かった。誰もがそうであるように、無防備だった。隣に荻原が立ったとき、あからさまにギョッとていた。すぐになんでもなうふうを装うが、ズボンのチャックをあげるのに、シャツが絡んでしまい、もたもたとしている。
「また公式か。オレの顔見るたびに数学のテストを思い出すんだな」
 しばらくチャックと格闘していたが、腹をくくったのか、ケイジは堂々と荻原を見据えた。
「なんのこと?」
「――おまえ、誰なんだ?」
「え? からかわないでくれ、斎木だよ」
「いや、オレの知ってる斎木じゃないね。朝からなんかこう、しっくりしないものを感じていたんだよね。髪型を変えたのか、いや違う。学ランをワンサイズ上のに買い換えたのか、いやいやそうじゃない――」
 荻原は冗談を言いながらぼくの体ににじり寄って見下ろした。
「なぜ、公式ばかり頭に思い浮かべているのか。オレに悟られないようにするためじゃなかったのか? 自分が斎木圭太じゃないって」
「どこをどう見てもぼくはぼくだよ。変なこといわないでくれ」
「心が──心が斎木とはまったく違うんだよ。このオレでもパニクったぜ。なにが起きたんだってな。だって、斎木がセットを壊すわけないもんな?」
 荻原は気づいたのだ。ぼくの中に、もうひとりの人格がいるということを。
 鼓動が早まった。ぼくも、ケイジもめちゃめちゃ興奮していた。
「おまえ、すごく危なっかしい。本当の身体を持っていないから、なんでもできてしまうんだ。斎木が作り上げた秩序ある世界を、全部ぶっ壊したいと思っている。邪魔なおれが転校していったあと、取り返しがつかないほどに心をボロボロにしてやろうって考えている。復讐のつもりか? 殴られるために自分を生み出したことへの」
「なにが悪い? どうしてオレには同情してくれない? 斎木圭太を抹消するのを手伝ってくれてもいいだろ? 偽善者さんよ」
 ふたりは無言で睨み合った。
 ダメだ。ケイジのいうとおりだ。ぼくが悪いんだ。ぼくがケイジを生み出して、嫌なことを全部押しつけていた。ケイジには復讐する権利がある。
「ほら、圭太も認めてるよ。自分が弱かったことを。オレがこの体を持っていた方がうまくいく。圭太はまた逃げるよ。恐ろしいことに巻き込まれたり、嫌なことがあったりしたら。あいつは立ち向かっていけない。だからオレがなんとかしてやってるんじゃないか」
「お前は存在しない」
 荻原はいった。
「お前は二番目の人格だ。消えなくちゃいけない。斎木はもうお前なしで大丈夫だ」
「じょ、冗談いうな! オレは二番目の人格じゃない。この身体はオレのものだ。オレのもの。オヤジに殴りかかったのもオレだ。オレがこの身体を手に入れた。消えるのはオレじゃない! オレはオレだ。誰でもない。オレなんだ」
「だったらどうして震えてる? オレが怖いんだろう?」
「ちがう!」
「自分が消されるのが、怖いんだろう? そうだよな。本当は、殴られるのだって怖いんだろ!」
 荻原は野獣のように叫び、固く握りしめた拳を振り上げ、「斎木、許せ」とつぶやいた。半身をひねって反動をつけると容赦なく殴りかかった。受け身の体勢ではなかったぼくの身体はものの見事に吹き飛び、タイルの上に崩れ落ちた。荻原はぼくの胴をまたがり、胸ぐらをつかんだ。ケイジはそれをジッと見ているだけだった。
 ぼくは見たくない、こんなの。いやだ! やめてくれ! こんなの、いやだ!
 なんで荻原まで。
 なんで殴ろうとするんだよ!
「おい! 斎木! 聞いてるか! 出てこい。出てくるんだ! ヤツがひるんでいるうちに出てこい!」
 荻原は何発か続けて殴った。
「なにやってんだ。自分で出てこないでどうする。オレが気を失わせてやるのもいいが、それじゃどうにもならない。自分で出てくるんだよ!」
 助けて……痛い、痛い!
 荻原はまた顎を殴った。するとケイジはたがが外れたように笑った。荻原を突き飛ばしてよろよろと立ち上がる。口の中が切れてさびた鉄のような味がした。
「それで人助けをしているつもりか? 笑いぐさだよ。気を失うだって? オレが今までどれだけ虐待にあってきたと思ってる? 暴力に怯えているのは圭太のほうさ。聞こえないのか? 泣いている圭太の声が」
 荻原はハッとしたように身体をこわばらせた。荻原にはぼくの声が届かないらしい。
「オレはむしろオヤジに殴られているとき、睨みつけていたよ。そうすればもっとベルトでひっぱたかれるんだ。圭太が目を覚ましたあと、眠れないぐらいの痛みが残るようにね。どれだけ殴られようが、熱湯をかけられようが、刺されようが、オレはまったく痛みなんて感じない。身体も――心も、まったく、痛くない」
 そして、ケイジは自分自身に言い聞かせるようにいった。
「大丈夫、この体はオレのものだ。圭太ももう少しで消える。もう、誰にも奪えないよ、この体は」
 荻原は為すすべもなくぼくを見ていた。いや、もう斎木圭太じゃなく、ケイジというべきか――。
「おい、どうした」
 そのとき、金成がトイレに入ってきた。あとから何人かやってきて騒ぎとなり、授業に向かう先生まで入ってきた。とたんにケイジはうずくまり、「荻原に突然殴られた」と先生にいった。まだ違う学校の制服のままの荻原を見た先生は、
「転校生か。どうせ前の学校でも騒ぎを起こして追い出されたんだろ。職員室へ来い。その生徒は誰か保健室まで連れて行ってやってくれ」
 と、荻原の腕をつかんだ。
 違う、荻原はぼくを助けようとしたんだ。
 どうしてこうなるんだ。すべてケイジの思うつぼじゃないか。
「荻原にはとっとと消えてもらう。おまえに仕返しがしたくて、もう、待てないんだ」
 誰にもわからないようにケイジがつぶやいた。
 もう、こんなのはたくさんだ。ぼくのせいで関係ない人が傷ついていくのは見たくない。ぼくには心がある。痛いんだよ。心が……。
 ケイジ。お前には心の痛みがわからない。それだけが誤算だったよ。
 ぼくなんか、いなくなればいいんだ。それですべてが終わる。
「ぼくなんか!」

 ぼくはわめきながらトイレの奥にある小窓に向かって走り出した。身を乗り出して這い出ようとした。居合わせた人たちがぼくを引っ張っている。蹴っ飛ばして窓枠に膝をのせた。がむしゃらにもがいて上半身を窓の外に出す。
 ぼくの身体が、宙に、浮いた――。
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