プロローグ

文字数 2,936文字

 この世には、私たちの住む地球のある世界だけではなく、無限の”異世界”が存在している。

 宇宙人の住む他の惑星とか、遥か彼方の銀河とかそういうものではなく、まったく異なる原理原則で成り立つ、別の世界、”異世界”のことだ。

 人でない生命が暮らす”異世界”、魔法の使える”異世界”、神や悪魔の住む”異世界”。その種類は、ちっぽけな私たちが想像できるよりも膨大で、途方もない数なのだろう。

 これは数多の”異世界”を旅している、ひとりのイリュージョニスト『九十九すい』とナポレオンフィッシュの姿をしている『とーる』が紡ぐ物語。

◆◇◆◇◆

 満天の星空の下、星の光だけが照らしている街外れの静かな公園のベンチにあたしは、皺ひとつない紺色のマントを羽織り座っていた。

 平和で楽しい”異世界”の旅を噛みしめるように、なんとなくキラキラと輝く星を見上げる。

 星空を見上げる動作に合わせて、長旅で傷んでしまっている、短めのポニーテールと、それを留めているエネルギー探知機を兼ねたヘアーカフスが揺れる。

 ほっ、とため息のように吐いた呼気が白くなるのを見て、気温はそこそこ低くなっていると再認識した。

 身にまとっている服の自動温度調整機能のおかげもあり、寒さはほとんど感じられない。

 顔部分に直接風は当たるが、魔術”環境適応”を掛けていることにより、実際あたしが感じるのは、快適な涼しさ程度だ。

 魔術”環境適応”は、多種多様な”異世界”を旅する時に必須の魔術だ。

 呼吸ができない・温度が高い・温度が低い・重力が強いなど、人が生きていけない場所でも自動的に、適切な状態へと調整してくれる。

 しかし、環境が過酷であるほど、魔力を消費してしまう。少しでも消費を抑えるには技術の活用が有効だ。あたしの服はある程度環境に適応するための機能がついているため、少ない魔力で長時間”環境適応”を使える。

 それに、技術は魔術が途切れたときの保険にもなるのだ。逆もまた然りだが。

 気温が低いことがわかり、感覚的により静寂さが増したかの様に覚えた。

 しかし、それにはもう一つの理由があることに気づいた。

 いつもあたしの側を浮いている騒がしい相棒、ナポレオンフィッシュの姿をしたとーるくんがいないからだ。

 今、彼に暖かい飲み物を買いに行かせている。

 耳に付けている探知機で周囲のエネルギーを分析し、一緒に旅をしている魚の位置を確かめる。

 彼のおつかいは順調に進んでいるようだ。

 この探知機は、角の丸まった直角三角形に近い形をしており、尖った部分が頭の後頭部に向いている。耳を覆い隠す大きさがあり、音の増幅や減衰などもできるのだ。

 改めてとーるくんが居ないことを意識すると、一層世界が静止して見えた。

(いつもうるさいのは勘弁だけどね)と、一方でこの静寂を味わうかのように心の中で呟いた。

 ここから見える星たちは、あたしたちが旅してきた”異世界”と、どちらが多いのだろうか、無意識のうちに思った。

 そして独白するように言葉にする。

「どれだけ”異世界”を旅をしても、どんなに知見を広めても、”九十九すい”という小さな世界が、あたしのすべてであり続ける……」

 あたしは生まれも育ちも地球だけど、地球に居た頃の出来事はほとんど思い出せない。最初に訪れた”異世界”で、”異世界”を旅する前の記憶、地球での思い出の多くを失っているからだ。

 しかし失った記憶の中でも、心に残り続ける鮮明な輝きを放っている完璧なイリュージョンがある。

 それがあたしを”異世界”の旅へと誘った。

 九十九すいというちっぽけな、あたしも、あの完璧なイリュージョンを超えられれば何かが変えられる。

 そんな夢物語のように漠然とした希望を手に、今も”異世界”を旅し続けている。

 けれども、数多の”異世界”を旅し、これだけの”技術”と”魔術”を手にしてなお、あたしのしていることは、”異世界”を旅し始めたあの頃から変わっていない。

「誰かを楽しませ、あたしがそれを楽しめる限り、この旅に終わりはないからね」

 誰に向けるでもなく、不意に口から発せられた言葉は、風に乗り消えるはずだった。

 それをタイミングよく戻ってきた、浮遊するナポレオンフィッシュの姿をしたとーるくんが耳にしたようだ。

 彼は、両ビレを器用に使ってカップコーヒーに似た暖かい飲み物を運びながら騒がしく尋ねてきた。

「誰かと話していたのですか?!」

 辺りがほんのわずかに暖かくなったように感じられた。この騒がしさがないとね。

「ふふっ、ただの独り言だよ」

 この”異世界”の住人が好んで飲むと聞いた、暖かい飲み物を「ありがとね」とお礼を言い、とーるくんから受け取る。

 彼は、誰にでもできるただのおつかいをしてきただけなのに、やけに自慢げで、満足そうににやけていた。いつものことなので触れないでおく。

 だけれども、こんなとーるくんじゃなければ一緒に旅はしてなかっただろう。

 一口飲むと、この”異世界”特有の味付けなのか、コーヒーっぽい苦味の中にスパイスらしい風味も感じられ、正直、あたしの好みではなかった。

 魔術であたし好みの味付けに変えてしまおうかとも一瞬迷ったが、飲めないほどではないので、”異世界”情緒を味わうことにした。

 ふよふよと浮かびながらコーヒーをすすっている上機嫌なとーるくんと共に、そのままベンチでひと時の間はのんびりとした。

 すると、とーるくんはコーヒーを飲み終わり、黙っていることができなくなったのか唐突に脈絡のない話題をけしかけてきた。

「すいはどうしてイリュージョニストになったのですか?!」

 とーるくんのことなので深い意味はないのだろうと、あたしも深く考えずに答えることにした。

「そうだね……正確には覚えていないけど、きっかけはアニメか漫画で見た魔法使いに憧れてたからだった気がするよ。

 たった一振りの魔法で、ありとあらゆるものを楽しくしてしまう魔法使いにね」

 彼は、とても興味深そうに「はい!」とか、「そうなのですか?!」と相槌を打つので、あたしも楽しくなり、続けて話した。

「あたしもそんなことがしたくて、たしか、魔法に見える手品に似たことをしてみたら、見てくれていた人たちが思いのほか楽しんでくれて、あたしも楽しくなってね。そこからイリュージョニストを目指し始めたはずだよ」

 この記憶も曖昧なもので真実は闇の中にある。そんな気がするという中途半端なものだ。

「魔法使いは諦めたのですか?」

 あたしが魔法使いなんてファンタジーに憧れている時くらいなら、こんな顔をしていたのかも知れない。なんて想像をさせるほど無邪気な顔で、とーるくんは疑問を素直に聞いてきた。

「諦めた訳じゃなくて、呪文を唱えるだけで、誰かに楽しいを与えるだけの魔法使いには、もう憧れていないからだよ。あたしは誰かをただ楽しませたいだけじゃなく、あたしも一緒に楽しみたいと思ったからね」

「すいも一緒に楽しむ……悪いことではないと思います!」

「そうだね。つまるところ、あたしはあたしが楽しむために、誰かを楽しませたいだけなんだよ。だから、あたしは観客がいなくちゃ成り立たないイリュージョニストになることを選んだんだろうね……」
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