第4話:新潟水害、スマトラ地震、アスベスト問題

文字数 1,636文字

 その後、1932年「昭和7年」5月15日の日曜、日本で起きた反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害。大正時代、衆議院の第一党の党首が、内閣総理大臣になるという「憲政の常道」が確立した事で議会制民主主義が根付き始めた。

 しかし、1929年「昭和4年」の世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加。農村は、疲弊するなど社会不安が増し、政党政治および守られている大財閥が敵視されるようになっていた。第一段として、海軍青年将校、率いる第一組は、総理大臣官邸、第二組は、内大臣官邸、第三組は立憲政友会本部を襲撃。

 続いて、昭和維新に、共鳴する大学生2人「第四組」が、三菱銀行に爆弾を投げる。第二段として、第四組を除く、他の3組は、合流して警視庁を襲撃。5月15日、当日は、日曜日で、犬養首相は折から来日していたチャールズ・チャップリンとの宴会の予定変更を受け、終日官邸にいた。

 第一組9人は、三上卓海軍中尉、黒岩勇海軍予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の5人を表門組。山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の4人を裏門組として2台の車に分乗。そして首相官邸に向かい17時27分、官邸に侵入。

 表門組の三上は官邸の日本館の洋式客間で、警備の田中五郎巡査を銃撃「その後、死亡」表門組と裏門組は日本館内で合流。三上は、日本館の食堂で犬養首相を発見すると、直ちに拳銃を首相に向け引き金を引いた。ところが、たまたま、弾丸が装填されていなかったため発射されなかった。

 三上は首相の誘導で15畳敷の和室の客間に移動する途中に皆に首相発見を知らせた。客間に入ると首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとした。しかし一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸宏が突然「問答無用、射て、射て」と大声で叫んだ。

 ちょうど、その瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩勇が山岸の声に応じて犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃し犬養首相に深手を負わせた。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った。

 その後、深夜になって死亡。第一組・第二組・第三組の計18人は、18時10分までに、それぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み自首。一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたった。その後、その年の11月5日まで、首謀者、大川周明、橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首、本間憲一郎、最後に、頭山秀三が検挙された。

その後、1933年、商社もアジアとの繊維貿易に力を入れ、機械や鉱物資源、セメントなどを取り扱かったりして日本の重工業化の発展を支えた。国際連盟総会で、満州における中国の統治権を認め、日本軍の引き上げを求める報告書が採択されたことから、日本は連盟脱退を通告し1935年に脱退。

 1936年「昭和11年」2月26日「水曜日」から29日「土曜日」にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1483名の下士官・兵を率いて起こしたクーデターを起こした。 「実際には、未遂に終わった」この結果、岡田内閣が総辞職。後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。

 近衛内閣が1938年に発表した東亜新秩序声明に以前から日本を敵視していたアメリカは態度を硬化させ、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940年1月に条約は失効。そのため、アメリカは屑鉄・航空機用燃料の輸出に止めた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料「主に高オクタン価ガソリンとエンジンオイル」や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。
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