第12話 馬籠から妻籠を歩いて考えた

文字数 3,030文字

■日程・行先不定の車中泊の旅 ⑫
3/29日
今日は今回のハイライトとも云える馬籠から妻籠への往復歩きである。
夜半から未明にかけての雨あしは強く、寝ぼけながら夜明けが気になった。最近の気象予報の精度は高く、朝になったらきれいに止んでいた。
ただモヤがかかっていたので、出発は9時頃にした。
案内書では妻籠まで9キロ、所要時間は3時間なので、山男の足だったら2時間くらいみたらいいだろうと歩き出した。

馬籠本陣付近の旅籠街の坂道は、きれいな石畳の通りだが、誰一人いなかった。
「これがコロナか~!」
日曜の昨日は雨模様の中チラホラだったが、月曜はこの有り様だ。お菓子屋の主人らしき人が店先を掃いていた。どこかしら物憂げだったのは気のせいか?
閉じられた民芸品店には、「休業」の紙が貼られていた。「不要不急」の民芸品には手を出してくれない、と早めに見切りをつけてしまったのか。

旅籠通りを離れて、いよいよ旧中仙道らしい風情になってきた。
道ばたで、「まだあげ染めし前髪の…」少女が芹を摘んでいた。
「芹摘みですか」と声をかけたら、「コロコロ、コロロ」と、弾けるような笑い声だけで応えた。これはまだ穢れていない声だ(笑)
「遊歩道」に平行して、車道が走っている。峠が岐阜と長野の県境だ。ところが車はほとんど走っていない。その道は馬籠と妻籠の生活道路ではないのだろうか!?現代の「交流」は少ないのだろうか?

雨上がりのぬかるみを心配していたけど杞憂だった。街道沿いは、むしろみずみずしさと清々しさに満ちていた。路傍の雑草のかれんな花、梅と桜がほとんど同時咲いていて、今年の桜の開花の早さを物語っいる。
足もとは、石畳あり舗装した歩道あり、未舗装の土くれも固くしまっていて歩きやすい。

もう一つの心配、花粉症も問題なかった。この辺りの森林は大部分が桧の仲間。越後の森ではみられない林相である。
桧の花粉は、確か杉より遅いと聞いている。私は幸運に恵まれていた(笑)

山道を歩くとき、よく思うことがある。事故などがあったときの安全管理責任はどう区分されているのか。自己責任との境の問題である。
調べようと思いながらもそのままにしてきたが、今回それを考えさせられるヵ所があった。
道幅が3mもあるところに、木道のような長さ5mほどの渡しが何ヵ所もあったのだ。「危険予防のため、ここを通ってください」との札書きまで。
確かに谷足側は深い谷になってはいる。しかし「木道」の谷側はまだ人が楽に通れるゆとりがあるのに、だ。

果たしてこんな「木道」が必要だろうか?だとしたら、全国の登山道の大部分に「木道」を付けなければならない。
ここの「管理者」は、殊のほか安全意識が高いのか。あつものに懲りてなますを吹いているのか。
それとも、役所の補助事業で予算が余ったので、残すと次の予算が減らされるので、必要性を考えず作ったのか。
私はただ「ムダなことは止めた方がいい」と思いながら進んだ。

ケチをつけた"お詫び"の印を書いて置こう。歩道の修繕に鉄道の古い枕木をよく使っていた。
現在の枕木はコンクリートだけど、以前は栗の木だった。栗は腐食や虫に強い。そこに防腐剤やコールタールを塗った枕木はより強くなるのだが、とてつもなく重い。
私は地元の山の登山道整備に、払い下げの枕木を山仲間と共に使ってきた。数十年たっても枕木の階段は腐らない。しかし、作業は大変だった。重さと堅さだ。担ぐに担げない。堅さでノコギリが泣かされる。作業が難渋した思い出がある

それだけに、歩道沿いの枕木効果と設置作業の大変さが理解できる。重機の入らない山道、業者とは云え「ご苦労さんでした」(笑)

峠を降りて少し歩いたところに茶屋がある。帰り道に寄って主人から聞いたのだが、今は営業している訳ではない。さりとて全てボランティアではなく、南木曽町が関係する団体から支援を受けているそうだ。
無料で湯茶のもてなしをしてくれたが、その人曰く「40年前はごった返すほど人で溢れたのだが…」と、寂しそうに昔を偲んでいた。

高木の桧の、よく手入れされた林間と足もとの道に程よくちりばめられた落ち葉を踏みしめて歩く様は、司馬遼太郎の世界だ。
「街道をゆく」彼は、この道をどう表現しているのだろうか?(こんど読もう(笑))
勿論歩いているはずだろう!?往復とは云わないが… ※注

妻籠には11時過ぎに着いた。道草はところどころでしてきた が、休憩はしなかった。
妻籠も馬籠と同じような人出だった。もっとも同じ人が行ったり来たりしている訳だろうから(笑)
ソフトクリームを片手に、反対に地図を持った若人がそこそこ。腰をかしげた「先輩方」はチラホラ歩き。
心なしか物足りないような足どりで、立ち止まったり覗いたり。

12時半、妻籠を後にした。
歩き出して間もなく、そういえば昼飯が未だだった。景色のよさそうな道ばたに腰を下ろして、朝自分で握った飯をパクついた。昨夜余分に炊いた飯だ。

私は今、「16時間断食」を実践している。デヴィッドAシンクレアの「老いなき世界」に啓発されてだ。夜8時頃夕飯を食べたら、翌日の昼まで食べない。
「毎日」と云うと驚く人がいるが、寝ている時間が入るので、全く苦にはならない。
むしろ、重い腹より軽い腹の方が気持ちがいい。シンクレア氏によれば、細胞に老化はない。細胞の再生を阻害する働きが老化を進める。細胞が健全に再生するためには、断食や運動など「適度のストレス」必要要件だと云う。
ノーベル賞の大隅先生の「オートファージ」効果も似た作用だそうだ。

私は若い頃、「自然農業」に触れ、それを主宰した韓国の趙漢珪氏が提唱した一日二食の考え方を聞いた。
彼は「一回満腹、一回腹ペコ」と表現していたが、直感的にそれはいいはずだと思い、以来家にいるときは朝飯をほとんど抜いてきた。
役所の健康課などは健康のため「朝飯はしっかり食べよう」と云っているが、それはウソっぱちで、どこかの回し者の言いなりになっているだけと思ってきた。単なる「役所仕事」だ。
これまでの実践は「直感的」な理解だったので、けっこういい加減だったが、今回のシンクレア先生はハーバード大学で老化研究の世界的権威。理論的にも明確なのできっちりと実行しようと決めて以来2ヶ月になるが、全く問題はない。
最後にシンクレア先生の殺し文句
「老いは自然現象ではなく、病気である。病気は治せる」
そう想ったら、帰りの足どりは更に軽くなる(笑)

茶屋の主によると、妻籠は馬籠より200m低いそうだ。そのせいか峠に向かう道は緩やかに長い。
今回の道中、出会った旅人は馬籠からの往路がゼロ、妻籠からの復路は同じ方向が一組、逆方向からが三組。たったそれだけ。
茶屋の主が嘆くのも無理はないと思えた。彼が引退したら、無料接待の茶屋はなくなるのだろう。

馬籠には3時に戻った。昼食と茶屋に立ち寄って一服した時間を入れると、往復とも似たような歩程だった。とりあえずいい思い出ができた。
木曽路。馬籠・妻籠とその周辺。日本の宿場町の原風景を最後に残す地域であった。

※注 なんと、司馬遼太郎はこの道を歩いていなかった!「街道をゆく」のコンセプトは果たしてどこに? 不思議である。
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そして、この第12話は「二番煎じ」である。やはり音感やリズム感が悪い。かろうじてつないだ感じである。「二番煎じ」の訳は後日の章に出てきます。
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