第10話 暗黙の了解 公然の秘密  3

文字数 1,500文字

 小川は階段を勢いよく駆けおりた。
 嬉しくて嬉しくて、体が喜びでいっぱいになって、はち切れそう……忘れかけていた子どもの頃の感覚だ。
 足がもつれ芝生に引っかかりよろけながら、小川はカナタのもとへと急いだ。
 第五ゲート近くのベンチに所在なげに膝をかかえて座っていたカナタが、息を切らして走ってくる小川を振り返って見た。
 緑の瞳をわずかに大きくしている。
 小川は木製のベンチの背につかまり息を整えた。胸の動悸がなかなかおさまらない。苦しいのに、ついつい顔がほころぶ。
 そんな小川をカナタは不思議そうに見ている。
「どうして笑ってるの?」
 初めて耳にしたカナタの声は心地よいボーイソプラノだった。
 小川は、ほほえんだ。
「嬉しいから、きみに会えて」
「ぼくに?」
 うん、と小川はうなずいた。腰を伸ばして額の汗を拭うと、カナタのとなりに腰かけた。
 襟ぐりの開いたノースリーブのワンピースを着たカナタは、心持ち体を遠ざける。小川はその反応に苦笑する。
「昨日は髪の毛、引っ張ってごめん。傷になってないかな」
 カナタは頭に手をやって神妙な面持ちになった。
 近くで見ると、二の腕や耳から頬にかけて細かい擦り傷が確認できた。樹海に落ちたときのものらしい。
「たいしたことない?」
 小川の問いかけにカナタはうなずいた。腕をおろして膝をかかえると、カナタの薄い胸板のあたりの布が余って地肌が見える。
「きみの体に合ってないようだけど、誰の服?」
「ハルカの」
 自分の足の爪先を見つめたままでカナタが答えた。
「ホントにぼくに会いに?」
 探るようにカナタが尋ねてきた。
「うん」
「……ヘンなの」
 カナタは体を前後に小さく揺らした。体に合わせて長い髪が、華奢な肩のうえをさらさらと流れる。
「少しだけど、きみたちの活躍を知ってる。台風で転覆しかけたフェリーから乗客を救助したこととか」
 カナタが動きを止めて小川を見た。かすかにカナタの光彩が縮まるのが分かった。
「鉄砲水や噴火の火砕流からの救援活動」
 小川は記憶をたどり、指折り数えながら自分の知りうるカナタたちの救助活動をあげた。
「どうして? 外にはぼくらの記録はないでしょう?」
「子どもの頃に、きみたちに助けられた人の思い出から。記録は消せても記憶は消せない」
 カナタは何か思いを巡らせるように遠くを見た。
「でも今はどこからも助けに呼ばれない」
 カナタの声は語尾が小さくなった。
「どきどきハルカが呼ぶけどあそこへは行けない」
「呼ぶ?」
「たまに回路に電気が流れるみたい……ハルカは事故の日の記録を繰り返してるんだ」
 小川は一拍おいて、おぞけに体が震えた。ハルカは軍に制圧されたと聞いた。自分が攻撃され倒される。人で言うならば死ぬ場面を何度となく繰り返すのと同じだ。どれほどの苦しみだろう。覚めない悪夢だ。
「だから、今のぼくはハルカ。ハルカが大好きだった服を着てハルカになってる」
 カナタなりの弔いのようなものだろうか。小川はカナタの言葉に耳を傾けた。
「誰もいなくなった。兄さまも姉さまも、お父さまも」
 硬い表情のカナタの横顔に小川はソフィア博士の面影を見つけた。目のかたちや輪郭が似ているのだ。だからつい言ってしまった。
「でも、お母さまはいるだろう?」
 カナタの肩がぴくりとふるえた。
「ソフィア? ソフィアは違う」
「え?」
「お母さまは、サエコ」
なんのことか分からず、小川は混乱した。『サエコ』?
 戸惑う小川を尻目にカナタは立ち上がった。
「昨日持ってたスケッチブック、こんど見せて」
「あ、ああ」
 カナタが体を反転させるとスカートの裾がふわりと広がった。そしてそのまま施設の裏側へ走って行った。
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