第9話 暗黙の了解 公然の秘密 2
文字数 2,060文字
ソフィア博士の前で、どうしてこうも失態を重ねるのか。
昼食どき、小川は食堂のテーブルに突っ伏していた。二階にあるカフェテリア式の食堂からはドームの入口である第五ゲートが見える。
「早く食べなよ。さめちゃうよ」
目の前の丸子博士は、山盛りのカレーを食べる手を止めない。
「あ、いま薬飲んでるんだよね。あれ飲むと体がダルくなるんだった。食欲もないの?」
「いえ……」
顔をあげて丸子博士のトレイを見ると、カレーの他にミートソースのパスタ、豚のしょうが焼き、鶏の竜田揚げがいずれも皿いっぱいに盛られている。見ているだけで胸焼けしそうだ。小川は指定された野菜中心のバランスのよいランチに薬だ。最低でも薬は飲まなければならない。
頬杖をしてため息を吐くと、高い位置から声がした。
「また炭水化物と肉ばかり……野菜を食べなさい、野菜を。丸子博士」
いかめしい表情の椎葉室長がトレイを持って丸子を見おろしていた。言われた当人は舌打ちして無視を決め込む。
「いかがですか? ドームは」
同じテーブルにトレイを置き、椅子を引きながら椎葉が小川に尋ねた。
「相変わらず葉っぱばっかりだな、シイバ。そんなんでデカイ体がもつのか?」
揶揄するような丸子の軽口をこちらも無視する。
椎葉室長は菜食主義らしい。皿に肉や魚は見あたらない。
「あの……ぼくの何がいけなかったんでしょうか……」
情けないが、声にも力が入らない。
二人ぶんの視線が小川に向けられる。
「ソフィア博士を不快にさせてばかりです」
「そうそう、朝から不機嫌だったよ。我らが女王さま。何やらかしたの、彼」
椎葉はすぐには答えず、トマトベースのジュースを一口飲んだ。
「九条博士は自殺だったんですか」
昨日見た資料には没年月日が事故の当日と記されていた。
「もしかして九条博士の名前を出しちゃったの?」
椎葉室長が無言でうなずく。あちゃーと小さく叫んで丸子は額に手をあてた。
「きみ見かけ通りの年齢だよね? 若いのに九条博士のこと、よく知ってたもんだ。外じゃ博士のことは『削除済み』だろ」
言われてから、ここの住人は実年齢と容姿にギャップがあることを思い出す。小川は事故後に生まれたが、丸子らは当時をリアルタイムで知っているのだ。
「九条博士が責任を感じて自殺してから、ソフィア博士は苦労続きさ。事故の責任者として矢面に立たされて、さんざん叩かれた。偉業は一瞬にして地に墜ち、私生活だって白日のもとにさらされた」
ドームは事故後すぐに建設が始まり、三年の工期を経て完成した。それも昨夜知ったことだ。
「九条博士もさ、事故直後に死ぬなよ。いちおう謝罪の一つもしてからだって遅くないだろ?」
丸子博士は口を尖らせて竜田あげを箸でつつく。
「無責任すぎだ」
同じくロボット開発に従事する立場からも、丸子は怒りを感じているのかも知れない。
「暗黙の了解ですよ」
「え?」
「みなが知ってる、でもあえて言わない。それがここでの大切なルールです」
椎葉室長は両手を膝に置き、背筋を伸ばし漆黒の瞳で小川を見つめた。
「ソフィア博士の事情はドームではみなが周知のことです。ただ、あなたが九条博士をご存知かどうかを早目に確認すべきでした」
わたくしのミスです、と椎葉は小川に頭を下げた。
「いえ! そんな、室長。ぼくこそ迂闊でした。もっと慎重にすればよかったのに、舞いあがってしまって」
小川はあわてて、椎葉に頭をあげてくれるようお願いした。
「舞いあがるほど嬉しかったの? きみ、珍しいね」
感心したように丸子が言うと椎葉室長が静かに反論した。
「来て三日で部屋をぐちゃぐちゃにしたうえシャワーの蛇口壊して水浸しにした、誰かさんには負けますよ」
その言葉に丸子はニヤリと笑った。
「わからないことは丸子博士か、わたくしにお訊ねください。あとは、あまりおすすめできませんがドーム内のSNSもあります。新参者はしばらく注目の的ですよ」
「だな、朝比奈医師以来十年ぶりの新人だし。若くて男前なら尚さら」
はあ、と小川は中途半端な顔をした。
なんとなく窓の外を見ると長い髪の後ろ姿が芝生を横切っていく。ふわりとした白いスカート、なぜか素足。少しうつむきかげん、ゆっくりとした足どり。
「カナタは今日も女の子か」
丸子が食事の手を休めて小川の視線の先を追った。
「いつも女装なんですか?」
「この間、外で作業中に樹海に落ちてから不調なんだ。あちこち傷ついたから直したいんだけど、昨日みたいなことになる」
裸で逃げていた事情がわかり、小川は何度もうなずいた。
「ま、線量は心配ないって言われたからいいんだけどさ」
カナタの姿を見失うまいと、いつの間にか小川は立ち上がり中腰になっていた。
「……薬は飲んでください」
椎葉にはすべてを見透かされていたようだ。小川は恥ずかしさで頬が熱くなったが、錠剤を水で一気に流し込む。
「午後からは休んでいいからさ。明日はあくびしないようにしてよ」
しょうが焼きにかぶりついた丸子に会釈すると、小川は階段へ向かって思い切りダッシュした。
昼食どき、小川は食堂のテーブルに突っ伏していた。二階にあるカフェテリア式の食堂からはドームの入口である第五ゲートが見える。
「早く食べなよ。さめちゃうよ」
目の前の丸子博士は、山盛りのカレーを食べる手を止めない。
「あ、いま薬飲んでるんだよね。あれ飲むと体がダルくなるんだった。食欲もないの?」
「いえ……」
顔をあげて丸子博士のトレイを見ると、カレーの他にミートソースのパスタ、豚のしょうが焼き、鶏の竜田揚げがいずれも皿いっぱいに盛られている。見ているだけで胸焼けしそうだ。小川は指定された野菜中心のバランスのよいランチに薬だ。最低でも薬は飲まなければならない。
頬杖をしてため息を吐くと、高い位置から声がした。
「また炭水化物と肉ばかり……野菜を食べなさい、野菜を。丸子博士」
いかめしい表情の椎葉室長がトレイを持って丸子を見おろしていた。言われた当人は舌打ちして無視を決め込む。
「いかがですか? ドームは」
同じテーブルにトレイを置き、椅子を引きながら椎葉が小川に尋ねた。
「相変わらず葉っぱばっかりだな、シイバ。そんなんでデカイ体がもつのか?」
揶揄するような丸子の軽口をこちらも無視する。
椎葉室長は菜食主義らしい。皿に肉や魚は見あたらない。
「あの……ぼくの何がいけなかったんでしょうか……」
情けないが、声にも力が入らない。
二人ぶんの視線が小川に向けられる。
「ソフィア博士を不快にさせてばかりです」
「そうそう、朝から不機嫌だったよ。我らが女王さま。何やらかしたの、彼」
椎葉はすぐには答えず、トマトベースのジュースを一口飲んだ。
「九条博士は自殺だったんですか」
昨日見た資料には没年月日が事故の当日と記されていた。
「もしかして九条博士の名前を出しちゃったの?」
椎葉室長が無言でうなずく。あちゃーと小さく叫んで丸子は額に手をあてた。
「きみ見かけ通りの年齢だよね? 若いのに九条博士のこと、よく知ってたもんだ。外じゃ博士のことは『削除済み』だろ」
言われてから、ここの住人は実年齢と容姿にギャップがあることを思い出す。小川は事故後に生まれたが、丸子らは当時をリアルタイムで知っているのだ。
「九条博士が責任を感じて自殺してから、ソフィア博士は苦労続きさ。事故の責任者として矢面に立たされて、さんざん叩かれた。偉業は一瞬にして地に墜ち、私生活だって白日のもとにさらされた」
ドームは事故後すぐに建設が始まり、三年の工期を経て完成した。それも昨夜知ったことだ。
「九条博士もさ、事故直後に死ぬなよ。いちおう謝罪の一つもしてからだって遅くないだろ?」
丸子博士は口を尖らせて竜田あげを箸でつつく。
「無責任すぎだ」
同じくロボット開発に従事する立場からも、丸子は怒りを感じているのかも知れない。
「暗黙の了解ですよ」
「え?」
「みなが知ってる、でもあえて言わない。それがここでの大切なルールです」
椎葉室長は両手を膝に置き、背筋を伸ばし漆黒の瞳で小川を見つめた。
「ソフィア博士の事情はドームではみなが周知のことです。ただ、あなたが九条博士をご存知かどうかを早目に確認すべきでした」
わたくしのミスです、と椎葉は小川に頭を下げた。
「いえ! そんな、室長。ぼくこそ迂闊でした。もっと慎重にすればよかったのに、舞いあがってしまって」
小川はあわてて、椎葉に頭をあげてくれるようお願いした。
「舞いあがるほど嬉しかったの? きみ、珍しいね」
感心したように丸子が言うと椎葉室長が静かに反論した。
「来て三日で部屋をぐちゃぐちゃにしたうえシャワーの蛇口壊して水浸しにした、誰かさんには負けますよ」
その言葉に丸子はニヤリと笑った。
「わからないことは丸子博士か、わたくしにお訊ねください。あとは、あまりおすすめできませんがドーム内のSNSもあります。新参者はしばらく注目の的ですよ」
「だな、朝比奈医師以来十年ぶりの新人だし。若くて男前なら尚さら」
はあ、と小川は中途半端な顔をした。
なんとなく窓の外を見ると長い髪の後ろ姿が芝生を横切っていく。ふわりとした白いスカート、なぜか素足。少しうつむきかげん、ゆっくりとした足どり。
「カナタは今日も女の子か」
丸子が食事の手を休めて小川の視線の先を追った。
「いつも女装なんですか?」
「この間、外で作業中に樹海に落ちてから不調なんだ。あちこち傷ついたから直したいんだけど、昨日みたいなことになる」
裸で逃げていた事情がわかり、小川は何度もうなずいた。
「ま、線量は心配ないって言われたからいいんだけどさ」
カナタの姿を見失うまいと、いつの間にか小川は立ち上がり中腰になっていた。
「……薬は飲んでください」
椎葉にはすべてを見透かされていたようだ。小川は恥ずかしさで頬が熱くなったが、錠剤を水で一気に流し込む。
「午後からは休んでいいからさ。明日はあくびしないようにしてよ」
しょうが焼きにかぶりついた丸子に会釈すると、小川は階段へ向かって思い切りダッシュした。