第1話
文字数 2,095文字
それは、一年に一度の特別な日。小さい頃、お誕生日が来るのが、それはそれは待ち遠しくて、嬉しくて。
小学生のころは、仲の良いお友達どうし招待し合い、お誕生日パーティーを開きました。ハッピー・バースデーの歌に合わせて、ケーキのローソクを吹き消すと、大きな拍手と歓声で祝福され、たくさんのプレゼントに囲まれる、子供にとっては夢のようなひと時です。
個人的には、プレゼントを貰うのは勿論ですが、どちらかというと渡す方が好きでした。ラッピングを開けた時の相手の喜ぶ顔を想像しつつ、何にしようか悩みながら選ぶ作業は、とてもワクワクするものですから。
私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。
今年で結婚して15年目。この街に転入して14年。新興住宅地として大規模な開発が始まったこの街も、造成工事の着工から20年を迎える節目の年を迎えました。
我が家が引っ越して来た当初、まだ空き地が目立っていたこのあたりも、今ではびっしりと家が建ち並んでいます。
当時新築された家々もメンテナンスを受ける時期を迎え、外壁塗装などで新築当時の輝きを取り戻す家もあれば、家族構成や生活の変化により、リフォームやリノベーションでまったく別の表情に生まれ変わる家もあり。
今もなお拡大を続けるこの新興住宅地、新期分譲エリアには、次々と新築住宅が建ち上がり、経年エリアもメンテナンスやリフォームでその姿を刻々と変えて行く様は、さながら巨大な生命体のようにも感じられるのです。
我が家も築10年目でメンテナンスを受け、外壁を塗装しました。気分を変えて、新築当初とは違う色を選択したのですが、ご近所の皆さんからの評判も良く、自分でも結構気に入っています。
そして、今年は夫が50歳を迎える年でもあります。
50年といえば半世紀、時間の単位さえ変わる長い時間です。よくもまあこんなに生きて来たな、と感慨深くも感じますが、中身は案外ペラいもの。
子供の頃、成人式に参列する新成人がものすごく大人に感じ、実際なってみると中身は何も変わっていないといった、あれと同じ感覚を、今後も節目の年齢を迎えるたび感じるのでしょう。
毎年、お互いの誕生日には、ちょっとゴージャスなお食事をする程度でしたが、さすがに50年という節目の歳ですから、今年は少し趣向を変えた贈り物をしようと思いました。
本人に尋ねても、特に欲しい物もないようですし、せっかくですから何か良い記念になるようなものはないかと、あれこれ思考を巡らせているのですが、さてどうしたものでしょうか。
そんなことを考えていると、ずっと昔、まだ夫と出会う前の、ある誕生日の出来事を思い出しました。それは間違いなく、これまでの誕生日の中でも、ぶっちぎりでワースト1に君臨するものでした。
**********
当時お付き合いしていたその彼とは、学生時代に出会い、やがてお互い社会人になっても交際は続き、二人の間に、五年の歳月が流れていました。
後になって振り返ると、交際当初からおかしなことが多々ありました。
彼は、我が家にはしばしば遊びに来て、私の家族とも顔なじみでしたが、私は、ただの一度も彼のお家に伺ったこともなければ、あちらのご家族とお会いしたこともなく、唯一の接点といえば、電話の取り次ぎで言葉を交わすくらいでした。
まだ携帯電話もない時代でしたから、連絡を取るには自宅電話に掛けるしかなく、ご家族のどなたかが電話に出た際に、社交辞令でも『遊びにいらっしゃい』と言われたことは一度もなく、本当にただ取り次ぐだけというもの。
考えてみれば、住所や電話番号は知っていても、実際に自分の目で彼の自宅を見たことは、一度もなかったように思います。
また、それだけ長い期間付き合っていれば、少なからず結婚の話題が出てもよさそうなものですが、正式なプロポーズは勿論、『いつかは』的なお話でさえ、一度もしたことはありませんでした。
ただ、当時まだ20代前半と若かったことや、社会人になって、仕事も楽しくなり始めていた頃でもあり、特段結婚に対する焦りや執着がなかったのも事実です。
もうひとつ、お友達から『それはおかしいよ』と言われていたことがあります。それは、デート代として、お互いに決まった金額を出し合い、デートで使う費用はそこから支払うことを、彼が提案したのです。
そうし始めたのは、彼が社会人になってからでした。『なんか、夫婦みたいで良くない?』と。
長い交際の中で、唯一それが結婚絡み的な言葉を使った一節だったと思います。その時点で私はまだ学生でしたが、彼は就職し銀行員になっていました。
学生の頃は、ほとんどお金を使わないようなデートばかりでしたが、学生同士の割り勘ならまだしも、こちらはまだ学生なのに対し、自分は社会人になってからそういうのってどうなの? と、本当にたくさんの人から言われました。
当時は男性がデート代を支払うのが当たりまえという風潮の時代でもありましたから、今になって、なぜあの時疑問を感じなかったのだろうと、自分でも不思議に思います。
小学生のころは、仲の良いお友達どうし招待し合い、お誕生日パーティーを開きました。ハッピー・バースデーの歌に合わせて、ケーキのローソクを吹き消すと、大きな拍手と歓声で祝福され、たくさんのプレゼントに囲まれる、子供にとっては夢のようなひと時です。
個人的には、プレゼントを貰うのは勿論ですが、どちらかというと渡す方が好きでした。ラッピングを開けた時の相手の喜ぶ顔を想像しつつ、何にしようか悩みながら選ぶ作業は、とてもワクワクするものですから。
私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。
今年で結婚して15年目。この街に転入して14年。新興住宅地として大規模な開発が始まったこの街も、造成工事の着工から20年を迎える節目の年を迎えました。
我が家が引っ越して来た当初、まだ空き地が目立っていたこのあたりも、今ではびっしりと家が建ち並んでいます。
当時新築された家々もメンテナンスを受ける時期を迎え、外壁塗装などで新築当時の輝きを取り戻す家もあれば、家族構成や生活の変化により、リフォームやリノベーションでまったく別の表情に生まれ変わる家もあり。
今もなお拡大を続けるこの新興住宅地、新期分譲エリアには、次々と新築住宅が建ち上がり、経年エリアもメンテナンスやリフォームでその姿を刻々と変えて行く様は、さながら巨大な生命体のようにも感じられるのです。
我が家も築10年目でメンテナンスを受け、外壁を塗装しました。気分を変えて、新築当初とは違う色を選択したのですが、ご近所の皆さんからの評判も良く、自分でも結構気に入っています。
そして、今年は夫が50歳を迎える年でもあります。
50年といえば半世紀、時間の単位さえ変わる長い時間です。よくもまあこんなに生きて来たな、と感慨深くも感じますが、中身は案外ペラいもの。
子供の頃、成人式に参列する新成人がものすごく大人に感じ、実際なってみると中身は何も変わっていないといった、あれと同じ感覚を、今後も節目の年齢を迎えるたび感じるのでしょう。
毎年、お互いの誕生日には、ちょっとゴージャスなお食事をする程度でしたが、さすがに50年という節目の歳ですから、今年は少し趣向を変えた贈り物をしようと思いました。
本人に尋ねても、特に欲しい物もないようですし、せっかくですから何か良い記念になるようなものはないかと、あれこれ思考を巡らせているのですが、さてどうしたものでしょうか。
そんなことを考えていると、ずっと昔、まだ夫と出会う前の、ある誕生日の出来事を思い出しました。それは間違いなく、これまでの誕生日の中でも、ぶっちぎりでワースト1に君臨するものでした。
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当時お付き合いしていたその彼とは、学生時代に出会い、やがてお互い社会人になっても交際は続き、二人の間に、五年の歳月が流れていました。
後になって振り返ると、交際当初からおかしなことが多々ありました。
彼は、我が家にはしばしば遊びに来て、私の家族とも顔なじみでしたが、私は、ただの一度も彼のお家に伺ったこともなければ、あちらのご家族とお会いしたこともなく、唯一の接点といえば、電話の取り次ぎで言葉を交わすくらいでした。
まだ携帯電話もない時代でしたから、連絡を取るには自宅電話に掛けるしかなく、ご家族のどなたかが電話に出た際に、社交辞令でも『遊びにいらっしゃい』と言われたことは一度もなく、本当にただ取り次ぐだけというもの。
考えてみれば、住所や電話番号は知っていても、実際に自分の目で彼の自宅を見たことは、一度もなかったように思います。
また、それだけ長い期間付き合っていれば、少なからず結婚の話題が出てもよさそうなものですが、正式なプロポーズは勿論、『いつかは』的なお話でさえ、一度もしたことはありませんでした。
ただ、当時まだ20代前半と若かったことや、社会人になって、仕事も楽しくなり始めていた頃でもあり、特段結婚に対する焦りや執着がなかったのも事実です。
もうひとつ、お友達から『それはおかしいよ』と言われていたことがあります。それは、デート代として、お互いに決まった金額を出し合い、デートで使う費用はそこから支払うことを、彼が提案したのです。
そうし始めたのは、彼が社会人になってからでした。『なんか、夫婦みたいで良くない?』と。
長い交際の中で、唯一それが結婚絡み的な言葉を使った一節だったと思います。その時点で私はまだ学生でしたが、彼は就職し銀行員になっていました。
学生の頃は、ほとんどお金を使わないようなデートばかりでしたが、学生同士の割り勘ならまだしも、こちらはまだ学生なのに対し、自分は社会人になってからそういうのってどうなの? と、本当にたくさんの人から言われました。
当時は男性がデート代を支払うのが当たりまえという風潮の時代でもありましたから、今になって、なぜあの時疑問を感じなかったのだろうと、自分でも不思議に思います。