第8話

文字数 1,674文字

 中井はグラスを手元に寄せ、ストローを入れてかき混ぜて口を付けた。ココアに似た甘みと粉の舌触りがした。
「絵を描きに来ると、何かと中井って、言葉がぎこちない子は来てないかと聞いてきたよ」老婆は壁に飾ってある杉の絵に目を向けた。「絵ができてからも毎日画材具を持って来ては、いるかと聞いてきてね。来ていないと答えると気落ちしていた」
 中井はマスターの話を聞き、メモを握りしめ、ズボンのポケットに入れた。「今何をし、しているか、わ、分かりますか」
 マスターは気難しい表情をして、わずかにうつむいた。「絵を描き終わってからも来てて、絵を教えてたんだけど、突然来なくなった。警察に聞くにしても、名前以外話してくれなかったんで分からないままだ」
 老婆は杉の絵に手を伸ばし、額縁をつかんで軽く上げた。額縁を固定しているフックが外れた。緩やかに絵を下ろし、中井の隣のテーブルに置いた。「彼女は来たら中井って人、すなわち、あんたに絵を渡してくれって言ってたよ」
 中井は戸惑いの表情をして老婆を見た。老婆は額縁の裏板を止めているフックを外している。「す、すみませんが、大きすぎて持って帰れません」
「なら絵だけ持って変えればいい。丸筒はあるんなら問題ない。額縁なら次に来た時だね」老婆は額縁のフックを外し終えた。
 中井は外れた額縁と絵を見て眉をひそめた。
 老婆は絵を固定している、額縁の裏板を外して脇に置いた。絵にカードが挟まっている。カードは名刺程の大きさの真っ白な紙で、文字が鉛筆で書き込んであった。
「し、失礼しま、す」中井はカードを取り、文字を読んだ。住所が書き込んである。
 老婆は中井が持っているカードの文字を読んだ。「何だ、連絡先を残してたのか。何で教えてくれなかったのかね」
 中井はテーブルに持っているカードを置き、スマートフォンを取り出した。次いで地図を表示するアプリケーションを起動し、指で液晶画面をなぞってカードに書いてある住所を入力した。住所の位置と経路が液晶画面に映った。
 住所の場所に行くには、まず現在地から駅に向かい、列車で南下して5つの駅で降り、バスに乗って5つ目のバス停で降りる。降りてからは土手沿いを徒歩で進む、と表示している。
 老婆は中井のスマートフォンをのぞき込んだ。「住んでた場所かもしれないね」
「やぱり、絵は元通り、置いて、も、もらえますか」中井は杉の絵を飾っていた位置に目を向けた。絵と絵の間に大きな隙間があり、ビス止めの白いフックが付いている。「持って、帰ると、寂しいで、ですから」
 老婆は絵を額縁に入れ、裏板でフタをして爪をかけて固定すると、額縁を持ち上げて壁のフックに引っ掛けた。
 中井は席に座り、ストローに口を付けてタンブラーに入った残ったモカを飲んだ。氷は溶けていて、味は薄くなっていた。
「ありがと、ございま、した」中井は立ち上がり、リュックサックと丸筒を取って肩にかけた。テーブルに乗っている伝票を取った。
 老婆は中井の肩をたたいた。「忘れ物だよ」カードを差し出した。
 中井は一瞬、ためらうがカードを受け取りリュックサックのサイドポケットに入れた。「あり、がとうご、ござ、います」老婆に礼をしてカウンターに向かった。
 マスターがレジの前に立った。
 中井はリュックサックから財布を出し、千円札を取り出した。伝票と共に、テーブルに乗っている青いカルトンに入れた。
 マスターはカルトンに入っている伝票を伝票差しに突き刺し、レジに金額を入力してボタンを押した。ベルをたたく音がして、引き出しが開いた。
 レジは音を立ててレシートを出力した。
 マスターは引き出しに千円札を入れてを取り出した。出力したレシートを切って、釣り銭と共にカルトンに入れた。
 中井は釣り銭とレシートを受け取り、財布に入れた。「あ、りがとう、ござい、ました」丁寧に、緩やかな口調でマスターに声をかけた。
「ありがとうございました」マスターと女性は同時に頭を下げた。
 中井は喫茶店のドアを開けた。
 ドアベルが音を立てる。
 中井が喫茶店から出ると、ドアが閉まった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み