第5話

文字数 2,934文字

「ロストヘヴン」のCDは中学生の頃、同級生の高橋からもらった。
 当時、中井は発音に難があるのが原因で友人がいなかった。休み時間に一人でノートに絵を描いていた時、高橋が声をかけてきた。
 高橋は無数のあざや擦り傷が袖からはみ出た腕、スカートからのぞく足に付いていた。絵をよく描いていて、休み時間に中井に見せていた。絵はデフォルメした輪郭に写実な陰影を足している。
 中井と高橋は絵を通して友人となった。絵を描く行為が、互いに現実逃避の手段だった。
 高橋は学校の近くにある大沼公園内にある、大沼植物園での写生を持ちかけてきた。
 中井は同意し、大沼植物園にある杉の写生をしていた。
 高橋は写生をしている途中、中井に声をかけてCDを渡した。
 中井は「ミッドウォール」の音楽に興味があり、聞いていると高橋に話していた。持っていないCDでも申し訳ないと受け取りを拒否したが、高橋は神妙な顔つきで差し出してきた。押し負けてCDを受け取り、写生を続けた。
 日が傾いた頃、互いに別れを告げた。高橋は気難しさと悲しみが混じった表情をしていた。
 高橋は翌日から学校に来なくなった。連絡網に載っていた電話番号で電話をかけたが出なかった。
 転校したと知ったのは、学校に来なくなってから数週間経った頃で、教師は親の事情としか話さなかった。
 中井は連絡もなく去った高橋を気にかけ、申し訳なさから「ロストヘヴン」のジュエルケースを開けなかった。時間の経過と共に高橋の存在を忘れ、「ロストヘヴン」や「ミッドウォール」も記憶の片隅に詰まって落ち着いた。



 中井はリュックサックを開け、手を入れて円形の銀色のポータブルCD再生機を取り出した。再生機にはイヤホンのコードが巻き付いていた。コードを解き、イジェクトのボタンを押した。クラムシェルのフタが開いた。ディスクホルダーを押してCDを取り出し、再生機に入れてフタを閉じた。イヤホンを耳に挿し、再生ボタンを押した。
  ポータブルCD再生機の液晶画面は「TRACK1」と表示した。直後にCDが回転する鈍い音を立て、1トラック目の曲がイヤホンから耳へ流れた。
 1トラック目の曲はギターの音がベースと混ざる程に低く、店舗も鈍い。ドラムの音が響く。音の配置もバランスも悪く、オケの音が大きい。入るヴォーカルも紛れているだけで音の一部に染まっている。
 中井は釈然とせず、渋い表情をした。音のうねりとリズムのバランスを無視した曲に乗り物酔いに似た感覚を覚え、再生ボタンを止めてイヤホンを耳から離した。頭の内側から来る、酔いの感覚が消えた。軽く首を振り、ジュエルケースに目を向け、裏面に回して眺めた。全部で10曲で、皆英語の題名が付いている。下に細かい文字で注意書きとバーコードが書き込んであった。
 イヤホンを耳に挿れ直し、早送りのボタンを押した。液晶画面が「TRACK2」と表示が切り替わり、再生時間に切り替わった。
 1曲目と異なった、澄んだギターの音が、雨音が地面を打つのに似たリズムで淡々と流れ出す。2秒ほどベースの音とドラムの音が重なる。曲は濁りのないヴォーカルと合わさって、クラシック音楽に近い調子で進む。
 中井はCDのジャケットを取り出して開いた。
 ジャケットの冊子の1ページ目は黒字に白文字のライナーノーツになっていて、メンバーのコメントと収録している曲のクレジットが書き込んである。2ページ目以降は曲の歌詞と、曲からイメージした簡単な線で構成したアイコンが載っていた。
 中井はジャケットを立てた。中央に挟んであったメモが床に落ちた。拾い上げ、メモの内容を確認した。
 メモは5mm平方の方眼紙で、住所と「White」の文字が、わずかにかすれた鉛筆の筆跡で書き込んである。
 中井はメモをズボンの前ポケットに入れ、ジャケットをジュエルケースに入れた。ポータブルCD再生機の停止を押し、イジェクトのボタンを押してフタを開けた。
 入っているCDが回転していた。
 中井はCDの回転が止まったのを確認し、CDを取り出してジュエルケースに入れて閉じた。次に耳からイヤホンを抜いてポータブルCD再生機に巻き、ジュエルケースと一緒に持ってリュックサックに近づいた。足元で何かを踏んでくじき、軽くバランスを崩したが、両手を本棚にかけて転倒を防いだ。体勢を整え、何につまずいたのかと足元を見た。
 丸筒が転がっていた。丸筒は黒く、肩に担ぐひもが付いている。
 中井は再生機とジュエルケースをリュックサックに入れた。丸筒を手に取って軽くフタをひねって開け、内部をのぞき見た。1枚の紙が丸筒の内側にへばりついている。丸筒の底を上にして2、3度たたいた。
 紙は取り出し口へずれたが、出てこない。
 中井は取り出し口に指を入れ、人差し指と中指で紙の端をつかんで取り出した。
 紙はA3サイズの画用紙だった。開くと鉛筆だけで描いた下書きだけの杉の絵が現れた。
 中井は悲しげな表情をして絵を丸めて丸筒に入れ、フタを被せるとひねって固定した。丸筒のフタは差し込んでからひねるとロックが掛かる仕掛けになっている。空いた手でひもをつかみ、リュックサックに近づくとジュエルケースと再生機をリュックサックに入れた。丸筒を下ろしてからリュックサックを背負い、丸筒のひもを背中にかけた。
 電灯のスイッチひもを引っ張り、電灯を消した。
 中井は部屋を出て、廊下を通って階段を降り、母のいる居間に向かった。
 居間と廊下は引き戸で仕切ってある。
 中井は引き戸を開けた。
 居間はフローリングの床にカーペットが敷いてあり、灰色のソファが中央に置いてある。母はソファに座って奥に設置してあるテレビを見ていた。テレビはボードに乗っていて、刑事ドラマの再放送を流していた。
 母は扉が開いた音に気づき、中井に目を向けた。
「おかさん、ありがと」中井は片言で母に声をかけた。「もう、か帰るね」
「昼は」
「え」中井はたじろいだ。
「シチューを作ったけど、食べていかないの」母は中井に尋ね、立ち上がった。
 中井は目を背け、うなった。母がいたソファに目を向けたが、姿はない。台所を遮っていた扉が開いていた。テーブルに近づき、椅子を引いて座った。荷物は椅子の下に置いた。
 母がホワイトシチューを入れた皿と、白飯の入った茶わんをスプーンと共に持ってきた。中井が座っているテーブルに置き、ソファに座り込んでテレビを見始めた。テレビは健康食品のコマーシャルに切り替わっていた。
「いただきます」中井は丁寧に声を発し、両手を合わせた。スプーンを手に取り、白飯をすくってからシチューに入れて食べた。溶け切っていない粉の感触ととろみがある。
 食が進み、食器に乗っていた食べ物がなくなった。
 中井は食器に乗っている食べ物がなくなったのを確認し、手を合わせた。「ごちそさまでした」皿を持って席を立った。
 母は中井の声を聞き、ソファから立ち上がって中井の元に来た。「いいわよ、私が洗うから」母は中井が食べ終わった皿を取った。
 中井は眉をひそめ、食器を手から離した。「ありが、と。も行くね」
「また何かあったら来なさい。仕事、見つかるといいわね」母は食器を持って台所に移動した。
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