第7話 あの時の

文字数 1,831文字

 春の夕陽が溶け込んだ教室の片隅で、ひときわ寂しげな影が揺れていた。伊藤侑香さんだ。彼女は、ほんのりとした微笑みを浮かべながら、俺を見つめてきた。
「伊藤さん? だよね?」
 彼女は小さく頷き、その笑みを深めた。その表情は、どこか安堵(あんど)の色を帯びていた。
「よかった。覚えてくれたのね。 私、地味だから、名前覚えてくれていないと思ってちょっと心配だったの。」
 伊藤さんは、伊藤侑香さんという。クラスにもう一人、伊藤美羽さんという伊藤姓がいる。その美羽さんは、隣の市では中学時代から美人とかなり有名だったらしく、とても綺麗な女の子だ。こうしたことから、一部の男子は陰で「じゃない方の伊藤さん」と呼んでいる。ただ、俺はそういう言い方には抵抗があった。それは、俺自身が中学時代にサッカー部で「じゃない方の中村」と言われていて、凄く嫌な思いをしていたからだ。だから、少なくとも俺は、伊藤侑香さんとフルネームで覚えることと決めていた。
「どうしたの? 何か忘れ物?」
「あ~、俺はスマホを机に忘れたみたいで、 ちょっと待って…… よかった、あった。 それで、伊藤さんはどうしたの?」
「私は、図書委員で図書館のお手伝いをしていてね。帰ろうと思ったら、来週英語の小テストがあることを思い出して…… それで、カバンに英語の教科書が入っていないことに気付いて取りに来たの。」
 彼女の言葉に導かれ、俺も自分の机を確認する。英語の教科書がそこにあった。
「伊藤さん、ありがとう。 俺も英語の教科書入れっぱなしだった。 助かった~。」
「中村君は…… 覚えていない?」
― 「えっ覚えていない?」何のことだろう。覚えていないということは、俺は昔どこかで伊藤さんと会っているということで…… -
「ごめん、ごめんなさい。おれ、伊藤さんのこと覚えていないかも。」
「そうだよね。じゃあ、中村君、受験の時に受験票を落としそうになったのは覚えている?」
「あっ。」
その瞬間、記憶が蘇る。高校受験の日、同じ中学のメンバーで待ち合わせて、高校に着き受験票を見ながら試験会場を確認していると、小川が「中村、こっち、こっち。」と急に俺の手を引っ張ったから、手に持っていた受験票が宙に舞い、受験票を落としかけた私を助けた女の子。彼女は眼鏡をかけていた。
「えっと。あの時の女の子? あれ、確か眼鏡をかけていたような。 そう、ずっと探していたのだけど。見つからないから、もしかしたら違う学校に行ったのかもと思っていて……」
「私は受験票で名前を覚えていたから、同じクラスになった時に凄くびっくりした。ずっと、言おうかなと思っていたけど、言えなくて。それに、私、高校入学と同時にコンタクトに変えたから、きっと、気付いてくれないだろうなと思っていたの」
「本当、あの時はありがとう。そして、今日も。なんだか、俺、伊藤さんには助けてもらってばっかりだね。」
「中村君って、いつもそんな感じなの。」
ちょっといたずらっ子の様に笑った伊藤さんがそこにいた。
そして、帰ろうか?と言おうとすると、英語の教科書を入れようとした、伊藤さんのカバンが落ちて中身が出てしまった。
「大丈夫? 手伝うよ」
 カバンの中身を拾っていると、SAUのクリアファイルを手にした。SAUは俺の好きな音楽バンドで、日常の何気ない光景をテーマにした歌が多く、Same As Usualが正式名称だ。俺は、手に取って思わず立ち尽くしてしまった。
「もしかして、中村君もSAU好きなの?」
「うん、中学の時に夜遅くまで起きて勉強していると、静かで眠くなるからさ、とはいえ、You Tubeだと見いっちゃうから、テレビをつけて勉強していた。そうしたら、ドラマでSAUの曲が流れていて、ドラマ自体は忘れちゃったのだけど、曲はすごく好きになって…… それで、いつも火曜の夜は遅くまで勉強していたのだ。」
 偶然としてはなんか出来すぎというか。思わぬ形で話をした伊藤さんが、実は自分を助けてくれた女の子で、更に音楽の趣味も一緒だなんて…… 別に、全くの下心がなく自然と俺は、伊藤さんに尋ねた。
「伊藤さん、家、どこらへんなの?」と尋ねた。
「私は西船橋。中村君は?」
「俺は、東西線の浦安。もし、良かったら、途中まで一緒に帰らない? その、SAUのこととか話したいし……」
 これはただの小さな一歩だが、俺にとっては偉大な飛躍になるだろう。俺はいつの間にか海賊船から月に向かう宇宙船に乗り換えようとしていた。
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