3-2
文字数 3,147文字
「いつもすみませーん。木下ですー。あらっ。久しぶりね~」
木下さんはきみを見やると、大仰に嬉しそうな声をあげて全身で笑った。
ドアを開けたときちょっと身体を引っ込めたのは、耳を澄ましていたからだろうか。
木下さんは太った中年のおばさんだ。
まあるい顔に、にこにことした笑いじわが、くっきりと目元に刻まれている。
以前来たとき、民生委員というお仕事をしていると言っていたけれど、それがどんなお仕事なのかは、ちょっとわからない。
木下さんが来るとお母さんが不機嫌になってしまうので、きみは木下さんがあまり好きじゃない。
きみはお母さんとおててを繋いで、玄関口へ立っている。
木下さんは膝を曲げて屈み込むと、きみの顔を覗き込んでにっこり笑った。
「良かった、何日か見なかったから心配してたのよ。おばさん、ぼくのこと大好きだから。元気だった? 何処行ってたのかな?」
「前のパパのところよね」
お母さんはきみの隣に立って、きみの髪を優しく撫でてくれる。
「へえ。そうなんだ」
と木下さんはにっこり頷いて、
「パパのところに行っていたの?」
ときみに問いかける。
「前のパパ寂しいって言うからね」
とお母さんは言って、木下さんはそうなんだと頷きながら、
「パパ寂しそうだった?」
ときみに問いかける。
木下さんとお母さんときみの会話は、いつも少し、へんだ。
木下さんがきみに訊いて、お母さんがきみの代わりに答えて、また木下さんがきみに訊くくり返し。
へんてこな伝言ゲームみたいなこの会話のやり方が、きみにはちょっとわからないみたい。
「パパのところ、行ってたの?」
にこにこした顔の中で、木下さんの眼球は、じっときみの目を見たまま動かない。
きみは困ってしまう。
嘘をつくような子のところには、きっとサンタが来てくれないだろう。
きみは一つ頷いて答えた。
「行ったよ」
うん。嘘じゃない。保証する。
パパのところには行ったもの。すぐに送り返されてしまっただけで。
「楽しかった?」
と木下さん。
「いっぱい遊んでもらったんだよね~?」
とお母さん。
「パパに遊んでもらったの? どんな遊び?」
木下さん。きみは頷く。
「どんな遊び?」
きみは首を傾げる。
「かげふみしたよ」
楽しそうじゃん、とお母さんが笑う。
ああそうなんだ、と木下さんが笑う。
きみもちょっと口の端をあげて笑う。
みんなどこかの世界の誰かが笑っているのを、一生懸命に真似っこしてる影たちみたいに。
「影踏み、楽しかった?」
「うん」
「お母さんとは、影踏みする?」
「しないよ」
「新しいパパ、家にいるよね?」
「うん」
「新しいパパとは、影踏みする?」
「ときどき」
「よく遊んだりする?」
「ときどき」
「この頃はもう、遊んでて怪我とかしない?」
「ときどき」
「前は、おめめの周り、怪我しちゃってたよね?」
「うん」
「あれは、どうしてだったっけ?」
「転んだからって、答えたと思う」
「ああ、そうだったよね。ごめんね、おばさん忘れっぽくて。――あら。何持ってるの?」
木下さんは気付いた様子で、きみのシャツをじっと見やった。
左の腰のところが、ちょっと出っ張っているんだ。
きみは首を傾げると、シャツの裾に手をかけた。
お母さんがきみの頭を撫でる指先が、一瞬、止まった。
きみはちょっとだけシャツをめくると、ズボンの裾に挟んだノートを取り出し、またシャツを下げた。
「手紙、書いてる」
きみは得意げに胸を張った。
「サンタに」
――なんだ、そんなもの信じてんだ。
隣でお母さんが呟いた。
「あら、そうなの。そうね。もうクリスマスだもんね」
にっこり笑う木下さんの視線は、じっとノートに向けられている。
「どんなこと書いてるの? おばさんにも、ちょっと見せてくれないかな?」
きみは木下さんにノートを差し出した。
木下さんは一ページ目からぱらぱらとめくりはじめた。
何ページ目かいったあたりで、ちょっと身体の向きを変えた。
またお母さんの手が止まった。
家の中、廊下の向こうで男の人が、目をぎょろぎょろさせてこちらを見ている。
木下さんはじっと食い入るようにノートを見ている。
ノートを見ている木下さんを、きみは見ている。
木下さんは息を吸い込むと、ノートを広げてきみに差し出した。
「これ、なんて書いたの?」
脇からお母さんがノートを覗き込む。
木下さんは構わず、ノートのページときみの顔を交互に見やった。
きみはちょっとがっかりしたように頭を垂れた。「読めない?」
「ところどころ読めるんだけど。あのね。前にも言ったけど、おばさんは子供のいる家を回ってね。みんなが家でどんなことをしてるのかな、誰かに伝えたいことないかなって、調べるのがお仕事なの。ねえ、これ、なんて書いたの?」
「ぼくの人生はふんだりけったりです」
きみは女の子がしていたように、器用に肩を竦めてみせる。
「って書いたの」
木下さんは目を瞬いた。
お母さんが、ぷっ、と吹き出した。
なにそれ、どこで覚えたのそんな言葉、と言いながら、くつくつと笑っている。
きみは照れたように頬をかく。
「
でも、やっぱり別のこと書く。ママやパパのこととか、友達のこと」
「なにか、他に書きたいこと、あるんじゃない?」
木下さんはきみの空いた手をぎゅっと包みこむ。
きみは首を振る。
「ないよ」
「誰かに伝えたいこと、ない?」
「ないよ」
「……サンタには、何を頼むの?」
「秘密。だって、すごいものだから」
きみは悪戯げににやりと笑った。
きみを見つめたまま、木下さんは時間を止めてしまったみたいに、しばらく固まっていた。
それから静かな吐息をついて、そうねと頷いた。
ノートを閉じてきみに差し出すと、サンタ来るといいわね、と疲れたような笑みを浮かべた。
お母さんはにこにこときみの頭を撫で続けている。
いつの間にか外はすっかり暗くなっていて、木下さんの大きな影は、闇に溶けてしまってもう見えない。
書き取りを終えると、きみは電気を消してベッドにもぐりこむ。
毛布を掴んで頭まですっぽりとかぶり、くるんと身体を丸めて小さくなる。
毛布の中は、きみの世界だ。
その小さな小さな世界のなかでは、きみと影は重なり合って、一つになっている。
きみは影で、影はきみ。
きみはこの小さな世界が、とても落ち着く。
きみは暗闇の奥を覗き込んでいる。
布団に耳を押し当てていると、階下からいろんな音が聞こえてくる。
叫び声。
怒鳴り声。
食器が割れる音。
人喰い鬼も笑いザカナもいない。ここはきみの小さな世界。
階段を上ってくる音が聞こえて、きみはまぶたを閉じる。
とん、たん、とん、たん。一歩ずつ。
部屋のドアが、きぃ、と音を立てた。
開いたドアから灯りが入り込むのと一緒に、男の人の影が、長くて細い針のようになって部屋に忍びこむ。
男の人の影は何も言わない。
肩で息をしている。
手には野球のバットを握りしめている。
階下からはお母さんの泣き声が聞こえている。
代わろうか?
「――大丈夫」
きみはちょっと困ったように笑う。
男の人が部屋に踏み込む。
喉の奥から獣みたいな低い唸り声をたてる。
部屋のドアがぱたんと静かに閉じられた。
それで影たちはみんな消えてしまって、真っ暗闇の部屋のなか、もうきみの姿は見えない。
木下さんはきみを見やると、大仰に嬉しそうな声をあげて全身で笑った。
ドアを開けたときちょっと身体を引っ込めたのは、耳を澄ましていたからだろうか。
木下さんは太った中年のおばさんだ。
まあるい顔に、にこにことした笑いじわが、くっきりと目元に刻まれている。
以前来たとき、民生委員というお仕事をしていると言っていたけれど、それがどんなお仕事なのかは、ちょっとわからない。
木下さんが来るとお母さんが不機嫌になってしまうので、きみは木下さんがあまり好きじゃない。
きみはお母さんとおててを繋いで、玄関口へ立っている。
木下さんは膝を曲げて屈み込むと、きみの顔を覗き込んでにっこり笑った。
「良かった、何日か見なかったから心配してたのよ。おばさん、ぼくのこと大好きだから。元気だった? 何処行ってたのかな?」
「前のパパのところよね」
お母さんはきみの隣に立って、きみの髪を優しく撫でてくれる。
「へえ。そうなんだ」
と木下さんはにっこり頷いて、
「パパのところに行っていたの?」
ときみに問いかける。
「前のパパ寂しいって言うからね」
とお母さんは言って、木下さんはそうなんだと頷きながら、
「パパ寂しそうだった?」
ときみに問いかける。
木下さんとお母さんときみの会話は、いつも少し、へんだ。
木下さんがきみに訊いて、お母さんがきみの代わりに答えて、また木下さんがきみに訊くくり返し。
へんてこな伝言ゲームみたいなこの会話のやり方が、きみにはちょっとわからないみたい。
「パパのところ、行ってたの?」
にこにこした顔の中で、木下さんの眼球は、じっときみの目を見たまま動かない。
きみは困ってしまう。
嘘をつくような子のところには、きっとサンタが来てくれないだろう。
きみは一つ頷いて答えた。
「行ったよ」
うん。嘘じゃない。保証する。
パパのところには行ったもの。すぐに送り返されてしまっただけで。
「楽しかった?」
と木下さん。
「いっぱい遊んでもらったんだよね~?」
とお母さん。
「パパに遊んでもらったの? どんな遊び?」
木下さん。きみは頷く。
「どんな遊び?」
きみは首を傾げる。
「かげふみしたよ」
楽しそうじゃん、とお母さんが笑う。
ああそうなんだ、と木下さんが笑う。
きみもちょっと口の端をあげて笑う。
みんなどこかの世界の誰かが笑っているのを、一生懸命に真似っこしてる影たちみたいに。
「影踏み、楽しかった?」
「うん」
「お母さんとは、影踏みする?」
「しないよ」
「新しいパパ、家にいるよね?」
「うん」
「新しいパパとは、影踏みする?」
「ときどき」
「よく遊んだりする?」
「ときどき」
「この頃はもう、遊んでて怪我とかしない?」
「ときどき」
「前は、おめめの周り、怪我しちゃってたよね?」
「うん」
「あれは、どうしてだったっけ?」
「転んだからって、答えたと思う」
「ああ、そうだったよね。ごめんね、おばさん忘れっぽくて。――あら。何持ってるの?」
木下さんは気付いた様子で、きみのシャツをじっと見やった。
左の腰のところが、ちょっと出っ張っているんだ。
きみは首を傾げると、シャツの裾に手をかけた。
お母さんがきみの頭を撫でる指先が、一瞬、止まった。
きみはちょっとだけシャツをめくると、ズボンの裾に挟んだノートを取り出し、またシャツを下げた。
「手紙、書いてる」
きみは得意げに胸を張った。
「サンタに」
――なんだ、そんなもの信じてんだ。
隣でお母さんが呟いた。
「あら、そうなの。そうね。もうクリスマスだもんね」
にっこり笑う木下さんの視線は、じっとノートに向けられている。
「どんなこと書いてるの? おばさんにも、ちょっと見せてくれないかな?」
きみは木下さんにノートを差し出した。
木下さんは一ページ目からぱらぱらとめくりはじめた。
何ページ目かいったあたりで、ちょっと身体の向きを変えた。
またお母さんの手が止まった。
家の中、廊下の向こうで男の人が、目をぎょろぎょろさせてこちらを見ている。
木下さんはじっと食い入るようにノートを見ている。
ノートを見ている木下さんを、きみは見ている。
木下さんは息を吸い込むと、ノートを広げてきみに差し出した。
「これ、なんて書いたの?」
脇からお母さんがノートを覗き込む。
木下さんは構わず、ノートのページときみの顔を交互に見やった。
きみはちょっとがっかりしたように頭を垂れた。「読めない?」
「ところどころ読めるんだけど。あのね。前にも言ったけど、おばさんは子供のいる家を回ってね。みんなが家でどんなことをしてるのかな、誰かに伝えたいことないかなって、調べるのがお仕事なの。ねえ、これ、なんて書いたの?」
「ぼくの人生はふんだりけったりです」
きみは女の子がしていたように、器用に肩を竦めてみせる。
「って書いたの」
木下さんは目を瞬いた。
お母さんが、ぷっ、と吹き出した。
なにそれ、どこで覚えたのそんな言葉、と言いながら、くつくつと笑っている。
きみは照れたように頬をかく。
「
でも、やっぱり別のこと書く。ママやパパのこととか、友達のこと」
「なにか、他に書きたいこと、あるんじゃない?」
木下さんはきみの空いた手をぎゅっと包みこむ。
きみは首を振る。
「ないよ」
「誰かに伝えたいこと、ない?」
「ないよ」
「……サンタには、何を頼むの?」
「秘密。だって、すごいものだから」
きみは悪戯げににやりと笑った。
きみを見つめたまま、木下さんは時間を止めてしまったみたいに、しばらく固まっていた。
それから静かな吐息をついて、そうねと頷いた。
ノートを閉じてきみに差し出すと、サンタ来るといいわね、と疲れたような笑みを浮かべた。
お母さんはにこにこときみの頭を撫で続けている。
いつの間にか外はすっかり暗くなっていて、木下さんの大きな影は、闇に溶けてしまってもう見えない。
書き取りを終えると、きみは電気を消してベッドにもぐりこむ。
毛布を掴んで頭まですっぽりとかぶり、くるんと身体を丸めて小さくなる。
毛布の中は、きみの世界だ。
その小さな小さな世界のなかでは、きみと影は重なり合って、一つになっている。
きみは影で、影はきみ。
きみはこの小さな世界が、とても落ち着く。
きみは暗闇の奥を覗き込んでいる。
布団に耳を押し当てていると、階下からいろんな音が聞こえてくる。
叫び声。
怒鳴り声。
食器が割れる音。
人喰い鬼も笑いザカナもいない。ここはきみの小さな世界。
階段を上ってくる音が聞こえて、きみはまぶたを閉じる。
とん、たん、とん、たん。一歩ずつ。
部屋のドアが、きぃ、と音を立てた。
開いたドアから灯りが入り込むのと一緒に、男の人の影が、長くて細い針のようになって部屋に忍びこむ。
男の人の影は何も言わない。
肩で息をしている。
手には野球のバットを握りしめている。
階下からはお母さんの泣き声が聞こえている。
代わろうか?
「――大丈夫」
きみはちょっと困ったように笑う。
男の人が部屋に踏み込む。
喉の奥から獣みたいな低い唸り声をたてる。
部屋のドアがぱたんと静かに閉じられた。
それで影たちはみんな消えてしまって、真っ暗闇の部屋のなか、もうきみの姿は見えない。