3-1
文字数 1,722文字
きみは、家へ帰っていく。
丘の上の公園から、お母さんの何歩か後ろをついて、きみは歩く。
夕焼けが、お母さんの影ときみの影を、長く引き伸ばして地面に描く。
影たちはきみときみのお母さんの横を、追いついては追い越し、追いついては追い越し。
きみはお母さんの手に掴まりたくて、ちょっと足を速める。
するとお母さんも、ちょっと足を速める。
きみがもうちょっと足を速めると、お母さんももうちょっと足を速める。
きみは早足になって、お母さんも早足になって、影たちはもっと早足になって、みんなで駆けっこになる。
「なんだよ。どっか行っちまえば良かったのに」
息を荒らげて家に帰ると、リビングでは男の人が寝転がってテレビを見ていた。
銀色にメッシュをいれた髪に、耳には輪っかがいくつもぶら下がっている。
畳に肘をついたまま、きみを見上げて舌打ちした。
「おい、旦那のところにやったんじゃなかったのかよ?」
「そっちが引き取る約束だ、ってさ」
「ああ?」
「別れるとき勢いで、つい言っちゃったんだよ。だってなんかムカつくじゃん。向こうに渡すのも。これでもあたしの子供だし。可愛いところあるしさ」
「あのババアが来たらどうするつもりだよ」
男の人は舌打ちすると身を起こした。
あぐらをかいてお母さんを見上げた。
「疑われてんだろ? やばいだろうがよ」
「お風呂入れて、着替えさせちゃおう。この頃、姿見かけないって、しつこいんだよあいつ。一度きちんと話させた方が、しつこく言われない」
「駄目だろ。なんか告げ口でもしたら、どうすんだよ」
「大丈夫だよ。なんも言わないって。――大丈夫だよね? ちゃんと受け答え、できるよね?」
お母さんは屈み込んできみの顔を覗き込み、ね? と確認する。
きみは頷く。
「駄目だよ。今からでも旦那のところ、置いてこいよ」
「どうせ引き取ってくれないよ。それでまた一人で外歩いてて、誰かに見つかってみなよ。よっぽど困るじゃん」
「なんとかしろよ」
「無理だって言ってんじゃん。あっちにも女いるし、絶対無理。ねえ、ちょっと、お風呂にいれてよ。着替え探すから」
「自分でやれよ」
チャイムが鳴った。
二人は演技中にカットがかかった役者みたいに、ぴたっと会話を止めて顔を見合わせた。
息をひそめていると、またチャイム。
すみませーん、木下ですけどー。声が聞こえてくる。
男の人が舌打ちした。「あのババア暇なのかよ」
お母さんは、さっときみの髪を手で整える。
キッチンのタオルを濡らして搾ると、きみの顔をごしごしとこすった。
きみは気をつけして立ったまま、仔猫みたいにごしごしされている。
ぱん、ぱんときみのシャツの皺を伸ばすと、お母さんはきみを見て頷きかける。
「ちゃんとやれるよね?」
「駄目だ!」
男の人が立ち上がり、ドアの前に立ち塞がる。
「いい加減にしろ。出すな」
「大丈夫だってば。悪いこと言わないよ」
「おいふざけんなよ。無理だ、ガキだろ」
「あんたよりは賢いわよ」
「おまえ、ひょっとして」
男の人の眼窩の奥で、目玉がぎょろぎょろ別の生き物みたいに動く。
「ガキと組んで、俺のこと、嵌めるつもりじゃねえだろうな?」
「なんでそうなるんだよ」
お母さんは苛立たしげに首を振った。
「一度きちんとやっておいた方がいいって言ってんだろ。全部おまえのせいだろうが」
「おい。いいか? わかってるか。何かあったら、おまえだって同罪なんだからな。おれだけじゃねえぞ。おまえ止めなかったんだからな。わかってんだろうな!」
「うっせえなあ怒鳴るんじゃねえよクソが! なんとかするから黙ってろクズ! ババアにびびってんじゃねえ!」
またチャイムが鳴った。
ガチャガチャガチャと、玄関ドアの取っ手がせわしなく揺れる。
調子っぱずれに明るい声で、すみませーん。木下ですけどー。
息子さんはお帰りですかー?
お母さんは男の人を乱暴にどかせると、きみの手をとって玄関口へ連れていく。
脇を通るとき男の人が何か言ったけれど、お母さんと手をつないだきみは無敵だ。
丘の上の公園から、お母さんの何歩か後ろをついて、きみは歩く。
夕焼けが、お母さんの影ときみの影を、長く引き伸ばして地面に描く。
影たちはきみときみのお母さんの横を、追いついては追い越し、追いついては追い越し。
きみはお母さんの手に掴まりたくて、ちょっと足を速める。
するとお母さんも、ちょっと足を速める。
きみがもうちょっと足を速めると、お母さんももうちょっと足を速める。
きみは早足になって、お母さんも早足になって、影たちはもっと早足になって、みんなで駆けっこになる。
「なんだよ。どっか行っちまえば良かったのに」
息を荒らげて家に帰ると、リビングでは男の人が寝転がってテレビを見ていた。
銀色にメッシュをいれた髪に、耳には輪っかがいくつもぶら下がっている。
畳に肘をついたまま、きみを見上げて舌打ちした。
「おい、旦那のところにやったんじゃなかったのかよ?」
「そっちが引き取る約束だ、ってさ」
「ああ?」
「別れるとき勢いで、つい言っちゃったんだよ。だってなんかムカつくじゃん。向こうに渡すのも。これでもあたしの子供だし。可愛いところあるしさ」
「あのババアが来たらどうするつもりだよ」
男の人は舌打ちすると身を起こした。
あぐらをかいてお母さんを見上げた。
「疑われてんだろ? やばいだろうがよ」
「お風呂入れて、着替えさせちゃおう。この頃、姿見かけないって、しつこいんだよあいつ。一度きちんと話させた方が、しつこく言われない」
「駄目だろ。なんか告げ口でもしたら、どうすんだよ」
「大丈夫だよ。なんも言わないって。――大丈夫だよね? ちゃんと受け答え、できるよね?」
お母さんは屈み込んできみの顔を覗き込み、ね? と確認する。
きみは頷く。
「駄目だよ。今からでも旦那のところ、置いてこいよ」
「どうせ引き取ってくれないよ。それでまた一人で外歩いてて、誰かに見つかってみなよ。よっぽど困るじゃん」
「なんとかしろよ」
「無理だって言ってんじゃん。あっちにも女いるし、絶対無理。ねえ、ちょっと、お風呂にいれてよ。着替え探すから」
「自分でやれよ」
チャイムが鳴った。
二人は演技中にカットがかかった役者みたいに、ぴたっと会話を止めて顔を見合わせた。
息をひそめていると、またチャイム。
すみませーん、木下ですけどー。声が聞こえてくる。
男の人が舌打ちした。「あのババア暇なのかよ」
お母さんは、さっときみの髪を手で整える。
キッチンのタオルを濡らして搾ると、きみの顔をごしごしとこすった。
きみは気をつけして立ったまま、仔猫みたいにごしごしされている。
ぱん、ぱんときみのシャツの皺を伸ばすと、お母さんはきみを見て頷きかける。
「ちゃんとやれるよね?」
「駄目だ!」
男の人が立ち上がり、ドアの前に立ち塞がる。
「いい加減にしろ。出すな」
「大丈夫だってば。悪いこと言わないよ」
「おいふざけんなよ。無理だ、ガキだろ」
「あんたよりは賢いわよ」
「おまえ、ひょっとして」
男の人の眼窩の奥で、目玉がぎょろぎょろ別の生き物みたいに動く。
「ガキと組んで、俺のこと、嵌めるつもりじゃねえだろうな?」
「なんでそうなるんだよ」
お母さんは苛立たしげに首を振った。
「一度きちんとやっておいた方がいいって言ってんだろ。全部おまえのせいだろうが」
「おい。いいか? わかってるか。何かあったら、おまえだって同罪なんだからな。おれだけじゃねえぞ。おまえ止めなかったんだからな。わかってんだろうな!」
「うっせえなあ怒鳴るんじゃねえよクソが! なんとかするから黙ってろクズ! ババアにびびってんじゃねえ!」
またチャイムが鳴った。
ガチャガチャガチャと、玄関ドアの取っ手がせわしなく揺れる。
調子っぱずれに明るい声で、すみませーん。木下ですけどー。
息子さんはお帰りですかー?
お母さんは男の人を乱暴にどかせると、きみの手をとって玄関口へ連れていく。
脇を通るとき男の人が何か言ったけれど、お母さんと手をつないだきみは無敵だ。