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文字数 3,079文字
「ちょっと、持っていこうか」
きみはきょろきょろと周りを窺うと、商店通りを脇道に折れた。
二つも通りを抜けるとお店はなくなって、代わりに三角屋根が軒を連ねている。
すっかり陽は落ち、常夜灯のぼんやりとした灯りが照らしているばかりで、ちょっと眠くなる。ふわあ。
きみは首を巡らせながら歩くと、玄関先に出されたもみの木に目をつける。
きょろきょろとあたりを見回して、巻き付いたイルミネーションに手を伸ばす。
イルミネーションのコードは、もみの木の上の方で引っ掛かってしまっているみたい。
きみは背伸びしたりジャンプしたりして外そうとするけど、うまくいかない。
イルミネーションの電球たちはきみの奮闘を優雅に見下ろし、ぴかぴかぴかぴか。ふわあ。
笑い声が聞こえて、きみは手を止めた。
小さな子供の笑い声だ。わずかに開いた窓の向こうから聞こえる。
男の人の笑い声も混じった。ばしゃばしゃばしゃと、水の音。
きみはもみの木との格闘をやめると、そっと敷地の門をひらいた。
アプローチを抜けると、壁伝いに忍び寄り、開いた隙間から真っ白い湯気が出ていくその窓を、ぐいと背伸びして覗きこんだ。
今度は、何が見えるの?
「なんだと思う?」きみは謎掛け遊びが好きだ。
ふふん。今度は自信があるよ。
ずばり、小さな男の子と、お父さんだ。
水の音から察するに、お風呂で二人で遊んでいるんだ。
どうだ、名推理でしょう?
「はずれ」
え? ほんと?
じゃあ何が見えるの?
「海」
な、なんだって。海?
「うん」
まてまて。だまされないぞ。影をからかうのは良くない。だって、家の中に海はないはずだよ。
「なんだよ。知らないのか。小さい海なら、家の中に湧くこともあるんだぜ」
え? ほんとう?
「ああ。家海っていうんだ。そう珍しいものでもないよ」
そうなんだ。
そっか。それで、水の音がしたのか。
じゃあ、さっきの笑い声はなんだったんだろう。
「海なんだから、笑いザカナの声に決まってるだろう。人間そっくりの声で笑うヘンなサカナだ」
へええ。面白いサカナもいたもんだねえ。
そのサカナ、綺麗?
「全然」
窓の向こうでは二匹の笑いザカナが、ばしゃばしゃ水の音と一緒に、楽しそうに笑い声をあげている。いつか一人旅するときは、是非とも釣りに行ってみたいものだ。
きみはくるりと窓に背を向けると、また壁伝いに門へ戻った。
アプローチを二段下りたところで、はっと息を呑んだ。
誰かいる。
電柱の陰に、ぼさぼさ頭の男の人が、オレンジ色の光に照らされて、闇にぼうっと浮き上がってきみを見ていた。
右手に丸めた新聞紙を掴んでいて、その先端でオレンジ色の炎が燃えさかっている。
コンクリートの地面に、男の人の影や、門の影、もみの木の影が立って、炎の動きにあわせてゆらゆら楽しそうに踊っている。足下には、小さな赤いポリタンクケース。
きみがぽかんとしていると、男の人は気付いた様子で新聞紙を地面に落とした。
靴先で炎をもみ消した。炎が消えると影たちも静まって、薄暗い常夜灯に照らされた地味な影になってしまう。
歩いてくると、もみの木に手を伸ばし、イルミネーションのコードをくるくると器用に外した。
丸めてきみに差し出した。まだぽかんとしたきみの手に押し込んだ。
「誰? 何してたの?」
きみが訊いても、男の人は黙っている。
「火を」
きみは、地面に落ちて燻っている新聞紙の残骸を見下ろす。
「つけるつもりだったの?」
男の人はコートのポッケに手を突っこむと、ごそごそと中を探る。
取り出した手に握られているのは、小さなマッチ箱だ。
きみの頭の上にちょこんと乗せた。
それからポリタンクを持ち上げ、よいしょときみの足下に置いた。
手袋を嵌めた手をひらひらと二度振って背を向けると、そのまま行ってしまった。
すっかり見えなくなると、きみは強張らせていた肩を落とした。「……なんだったんだ」
誰だろうね。
知り合いじゃないの?
「いいや?」
きみは首をかしげる。
「全然知らないよ。ニュースで言ってた、放火魔じゃないかな。新聞、燃やしてたし」
なんか、いろいろくれたね。
「うん。良かった。ちょうど欲しかったんだマッチ。せっかくランプ買ったのに、火ぃつけるもの忘れてた。あとこれ、アルコールかな」
あ、燃やすの?
「ん? 何を?」
家。
明るくなるよ。
きみは、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、カップに沈んだ溶けない砂糖をスプーンでかき混ぜるみたいに、ゆっくりと二度視線をぐるぐる回した。
それから、よく意味がわからないというように、首を捻った。「ううん?」
燃やさないの?
「なにを?」
だから、家だってば。
「なんで?」
明るくなるよ。
さっきの影たち、生き生きしてて、とても楽しそうだったじゃない。ああいうの、いいよ。
すぐできるよ。
マッチとアルコールがあれば、燃やせるよ。
「そうだけど」
燃やす?
「家?」
うん。
「燃やしたいのか?」
いいんじゃないかな。
きみはどうなの?
「え?」
はっきりしてよ。
「どうして燃やしたい?」
だって、明るくなるよ。
「そうか」
うん。
ばしゃばしゃばしゃと水の音と一緒に、笑いザカナの声が聞こえている。
それはきっと、とても巨大な、ぎょろりとした目玉となめらかな鱗を持ったサカナで、小さな牙の生え揃った口をぽかりと開けて、ママ、パパ、と笑うのだろう。
カーディガンの両端に括りつけられた荷札が揺れるのを、きみはじっと見ている。
「そろそろ、帰るぞ」
うん。
丘の上には公園と、休憩のためのお手洗いが建っている。
お手洗いは丸太でできたログハウスみたいな建物で、電気はきちんと通っているし、定期的に掃除もされているのか綺麗だ。
きみはお手洗いの電気をつけると、流し場の脇にポリタンクをよいせと置いた。
奥から二番目の個室に入ると、口を閉めた便座の上に座り込み、鍵をかけた。
クリームパンを半分と牛乳を半分おなかに収めたあとは、しばらくランタンを満足そうに眺めていたけれど、やがてノートを開いて膝のうえに置き、せっせと書き込みはじめた。
何書いてるの?
「文字の練習だ。サンタへの手紙、ちゃんと書けるようにしとかないと」
きみはしばらく書き取りをしてから、眠ることにした。
奥の掃除用具入れに仕舞っておいた毛の禿げた毛布は、裏のキャンプ場のゴミ捨て場から拾ってきたものだ。
きみは便座の上で膝を抱えて丸くなると、毛布にくるまった。
おやすみ。
「おやすみ」
きみは言って、動かなくなる。
きみは眠るとき電気を消さない。暗闇が怖いのだという。溶けて消えてしまうわけでもないのに、どうして暗闇が怖いのだろう。
きみは眠っている。
きみはいつもくるんと小さく自分の身体を丸めて、一切動くことなく、静かに静かに眠る。
あんまり静かに眠るものだから、きみが生きてるだろうか、ちょっと心配になってしまう。
ねえ。
生きてる?
呼びかけてみるけれど、きみはやはりとても静かだ。
きみの寝顔を確かめたいけれど、電灯が真上にあるものだから、眠るきみの表情は見えない。
きみはきょろきょろと周りを窺うと、商店通りを脇道に折れた。
二つも通りを抜けるとお店はなくなって、代わりに三角屋根が軒を連ねている。
すっかり陽は落ち、常夜灯のぼんやりとした灯りが照らしているばかりで、ちょっと眠くなる。ふわあ。
きみは首を巡らせながら歩くと、玄関先に出されたもみの木に目をつける。
きょろきょろとあたりを見回して、巻き付いたイルミネーションに手を伸ばす。
イルミネーションのコードは、もみの木の上の方で引っ掛かってしまっているみたい。
きみは背伸びしたりジャンプしたりして外そうとするけど、うまくいかない。
イルミネーションの電球たちはきみの奮闘を優雅に見下ろし、ぴかぴかぴかぴか。ふわあ。
笑い声が聞こえて、きみは手を止めた。
小さな子供の笑い声だ。わずかに開いた窓の向こうから聞こえる。
男の人の笑い声も混じった。ばしゃばしゃばしゃと、水の音。
きみはもみの木との格闘をやめると、そっと敷地の門をひらいた。
アプローチを抜けると、壁伝いに忍び寄り、開いた隙間から真っ白い湯気が出ていくその窓を、ぐいと背伸びして覗きこんだ。
今度は、何が見えるの?
「なんだと思う?」きみは謎掛け遊びが好きだ。
ふふん。今度は自信があるよ。
ずばり、小さな男の子と、お父さんだ。
水の音から察するに、お風呂で二人で遊んでいるんだ。
どうだ、名推理でしょう?
「はずれ」
え? ほんと?
じゃあ何が見えるの?
「海」
な、なんだって。海?
「うん」
まてまて。だまされないぞ。影をからかうのは良くない。だって、家の中に海はないはずだよ。
「なんだよ。知らないのか。小さい海なら、家の中に湧くこともあるんだぜ」
え? ほんとう?
「ああ。家海っていうんだ。そう珍しいものでもないよ」
そうなんだ。
そっか。それで、水の音がしたのか。
じゃあ、さっきの笑い声はなんだったんだろう。
「海なんだから、笑いザカナの声に決まってるだろう。人間そっくりの声で笑うヘンなサカナだ」
へええ。面白いサカナもいたもんだねえ。
そのサカナ、綺麗?
「全然」
窓の向こうでは二匹の笑いザカナが、ばしゃばしゃ水の音と一緒に、楽しそうに笑い声をあげている。いつか一人旅するときは、是非とも釣りに行ってみたいものだ。
きみはくるりと窓に背を向けると、また壁伝いに門へ戻った。
アプローチを二段下りたところで、はっと息を呑んだ。
誰かいる。
電柱の陰に、ぼさぼさ頭の男の人が、オレンジ色の光に照らされて、闇にぼうっと浮き上がってきみを見ていた。
右手に丸めた新聞紙を掴んでいて、その先端でオレンジ色の炎が燃えさかっている。
コンクリートの地面に、男の人の影や、門の影、もみの木の影が立って、炎の動きにあわせてゆらゆら楽しそうに踊っている。足下には、小さな赤いポリタンクケース。
きみがぽかんとしていると、男の人は気付いた様子で新聞紙を地面に落とした。
靴先で炎をもみ消した。炎が消えると影たちも静まって、薄暗い常夜灯に照らされた地味な影になってしまう。
歩いてくると、もみの木に手を伸ばし、イルミネーションのコードをくるくると器用に外した。
丸めてきみに差し出した。まだぽかんとしたきみの手に押し込んだ。
「誰? 何してたの?」
きみが訊いても、男の人は黙っている。
「火を」
きみは、地面に落ちて燻っている新聞紙の残骸を見下ろす。
「つけるつもりだったの?」
男の人はコートのポッケに手を突っこむと、ごそごそと中を探る。
取り出した手に握られているのは、小さなマッチ箱だ。
きみの頭の上にちょこんと乗せた。
それからポリタンクを持ち上げ、よいしょときみの足下に置いた。
手袋を嵌めた手をひらひらと二度振って背を向けると、そのまま行ってしまった。
すっかり見えなくなると、きみは強張らせていた肩を落とした。「……なんだったんだ」
誰だろうね。
知り合いじゃないの?
「いいや?」
きみは首をかしげる。
「全然知らないよ。ニュースで言ってた、放火魔じゃないかな。新聞、燃やしてたし」
なんか、いろいろくれたね。
「うん。良かった。ちょうど欲しかったんだマッチ。せっかくランプ買ったのに、火ぃつけるもの忘れてた。あとこれ、アルコールかな」
あ、燃やすの?
「ん? 何を?」
家。
明るくなるよ。
きみは、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、カップに沈んだ溶けない砂糖をスプーンでかき混ぜるみたいに、ゆっくりと二度視線をぐるぐる回した。
それから、よく意味がわからないというように、首を捻った。「ううん?」
燃やさないの?
「なにを?」
だから、家だってば。
「なんで?」
明るくなるよ。
さっきの影たち、生き生きしてて、とても楽しそうだったじゃない。ああいうの、いいよ。
すぐできるよ。
マッチとアルコールがあれば、燃やせるよ。
「そうだけど」
燃やす?
「家?」
うん。
「燃やしたいのか?」
いいんじゃないかな。
きみはどうなの?
「え?」
はっきりしてよ。
「どうして燃やしたい?」
だって、明るくなるよ。
「そうか」
うん。
ばしゃばしゃばしゃと水の音と一緒に、笑いザカナの声が聞こえている。
それはきっと、とても巨大な、ぎょろりとした目玉となめらかな鱗を持ったサカナで、小さな牙の生え揃った口をぽかりと開けて、ママ、パパ、と笑うのだろう。
カーディガンの両端に括りつけられた荷札が揺れるのを、きみはじっと見ている。
「そろそろ、帰るぞ」
うん。
丘の上には公園と、休憩のためのお手洗いが建っている。
お手洗いは丸太でできたログハウスみたいな建物で、電気はきちんと通っているし、定期的に掃除もされているのか綺麗だ。
きみはお手洗いの電気をつけると、流し場の脇にポリタンクをよいせと置いた。
奥から二番目の個室に入ると、口を閉めた便座の上に座り込み、鍵をかけた。
クリームパンを半分と牛乳を半分おなかに収めたあとは、しばらくランタンを満足そうに眺めていたけれど、やがてノートを開いて膝のうえに置き、せっせと書き込みはじめた。
何書いてるの?
「文字の練習だ。サンタへの手紙、ちゃんと書けるようにしとかないと」
きみはしばらく書き取りをしてから、眠ることにした。
奥の掃除用具入れに仕舞っておいた毛の禿げた毛布は、裏のキャンプ場のゴミ捨て場から拾ってきたものだ。
きみは便座の上で膝を抱えて丸くなると、毛布にくるまった。
おやすみ。
「おやすみ」
きみは言って、動かなくなる。
きみは眠るとき電気を消さない。暗闇が怖いのだという。溶けて消えてしまうわけでもないのに、どうして暗闇が怖いのだろう。
きみは眠っている。
きみはいつもくるんと小さく自分の身体を丸めて、一切動くことなく、静かに静かに眠る。
あんまり静かに眠るものだから、きみが生きてるだろうか、ちょっと心配になってしまう。
ねえ。
生きてる?
呼びかけてみるけれど、きみはやはりとても静かだ。
きみの寝顔を確かめたいけれど、電灯が真上にあるものだから、眠るきみの表情は見えない。