ルイーズ・グリュック『野アヤメ』

文字数 3,811文字

 二〇二〇年のノーベル文学賞を受賞したルイーズ・グリュックは、現代アメリカを代表する詩人の一人だ。
 一九四三年にニューヨークで生まれ、幼少期をロングアイランドで過ごし、サラ・ローレンス大学、コロンビア大学で学んだ。一九六八年に最初の詩集『第一子』(FIRSTBORN)を発表し、一九九二年に発表した『野アヤメ』(THE WILD IRIS)は、一九九三年度のピュリッツァ賞を受賞した。二〇〇三年十月から一年間、「アメリカの桂冠詩人」と呼ばれる国会図書館詩部門の顧問に任ぜられた。
 ルイーズ・グリュックの1962年から2012年までの全詩業を収めた"Poems 1962-2012"は、大変お買い得な一冊である。そのうち代表作『野アヤメ』から、巻頭に置かれている表題作の"The Wild Iris"(野アヤメ)を紹介したい。

THE WILD IRIS(※1)

At the end of my suffering
there was a door.

Hear me out: that which you call death
I remember.
Overhead, noises, branches of the pine shifting.
Then nothing. The weak sun
flickered over the dry surface.

It is terrible to survive
as consciousness
buried in the dark earth.

Then it was over: that which you fear, being
a soul and unable
to speak, ending abruptly, the stiff earth
bending a little. And what I took to be
birds darting in low shrubs.

You who do not remember
passage from the other world
I tell you I could speak again: whatever
returns from oblivion returns
to find a voice:

from the center of my life came
a great fountain, deep blue
shadows on azure seawater.

野アヤメ(以下和訳:筆者)

私の苦しみの果てには
扉があった。

聞いてください。あなたが死と呼ぶものを
私は覚えている。
頭上では音がして松の枝が揺れ動いていた。
そして何もなかった。弱々しい太陽が
乾いた表面にちらついていた。

暗い大地の中に埋もれた意識として
生きながらえるのは恐ろしい。

そしてそれは終わった。あなたが恐れている、
話すことができない魂であることは、
突然終わり、硬直した大地は少したわんだ。
そして、私は鳥が低い木々の中を飛び回るのを見た。

あの世からの道を覚えていないあなたへ、
私はもう一度話せるようになったと伝えます。
何であれ、
忘却の彼方から戻るものは声を見つけるのだ:

私の命の中心から
大きな泉が湧き出し、
紺碧の海水の上に深い青色の影が現れた。

 この詩は、土の中に埋められ、春になって芽吹く球根の視点で表現されている。 冬枯れを死に喩えて、一度死んで声を持たない魂だけの存在になった「私」が、春になって再び蘇って地上に戻り、声を見つける。大きな湧き出る泉、紺碧の海水の上に青い影は、新しい命のみずみずしさを感じさせるとともに、野アヤメの花びらの青色を想起させて、とても美しい。
 詩集『野アヤメ』は、花、詩人の心情、庭仕事や収穫など人の営み、季節にまつわる詩によって構成されている。

  THE WILD IRIS(野アヤメ)
   Matins(朝課)
   Matins(朝課)
  TRILLIUM(エンレイソウ)
  LAMIUM(オドリコソウ)
  SNOWDROPS(マツユキソウ)
  CLEAR MORNING(澄んだ朝)
  SPRING SNOW(春の雪)
  END OF WINTER(冬の終り)
   Matins(朝課)
   Matins(朝課)

以下、季節は初春から夏へ移り、秋で終わる。時間は早朝から日没まで。季節と時間の移ろいとともに、花を通して語りかけてくる詩人の声が聞こえてくる。一つ一つの詩は短く簡潔だが、詩集全体が連作詩であり、一つの世界を構成していると言える。
 また特徴的なのは、花の詩の間にたびたび挿入されている"Matins"(朝課、明けの祈り)と"Vespers"(晩課、夕べの祈り)だろう。"Matins"の一部を抜粋して紹介したい。

Noah says
depressives hate the spring, imbalance
between the inner and the outer world. (※2)
ノアは言う、
うつ病の人たちは春が、内と外の世界のアンバランスが嫌いなのだと。

Noah says
this is an error of depressives, identifying
with a tree, whereas the happy heart
wanders the garden like a falling leaf, a figure for
the part, not the whole. (※2)
ノアは言う、うつ病の人たちが木と自分を同一視するのは間違いだ、と。
幸せな心は、全体としてではなく部分として、
落ち葉のように庭をさまよっているのだ、と。

この詩では、詩人はノアと呼ばれる家族や友人あるいは医療従事者の助言を受けている。
 巻頭の詩「野アヤメ」は、詩人が暗い大地の中に埋もれていた(現実世界ではうつ病に苦しんでいた)ことを表現している。その暗い地中から地上の世界へ復帰するという詩人の希望が歌われている。
 しかしノアは、そのように自然と自分を同一視するのを間違っている、と言う。ノアの言葉は、花や自然に自分を重ね合わせる美しい自己陶酔状態を冷静に否定している。あえてこのような手厳しい言葉を入れるところに、ロマンティックな詩になりすぎない、詩人の絶妙なバランス感覚を感じる。
 ルイーズ・グリュックは、高校生の時に拒食症になり、七年に渡る精神的な治療を受けた経験を持つ。彼女は、個人的な体験と身の回りの自然を通して、控えめで静謐な、内省的な詩の世界を作り出したのだ。彼女の詩は瞑想であり、まさに「祈り」であったと言える。

 冬枯れからの春の芽吹きを表現した「マツユキソウ」も、「野アヤメ」と同様にきわめて美しい詩である。短いので、全文紹介したい。

SNOWDROPS(※3)

Do you know what I was, how I lived? You know
what despair is; then
winter should have meaning for you.

I did not expect to survive,
earth suppressing me. I didn’t expect
to waken again, to feel
in damp earth my body
able to respond again, remembering
after so long how to open again
in the cold light
of earliest spring—

afraid, yes, but among you again
crying yes risk joy
in the raw wind of the new world.

マツユキソウ

私が何であったか、どうやって生きていたか知っていますか?
絶望とは何か、知っているはずです。
それならば、冬の意味がわかるはず。

大地に抑えつけられて生き延びられるとは思わなかった。
私がもう一度目を覚まし、
湿った大地の中で私の体が再び応えてくれるのを感じるなんて期待していなかった。
春先の冷たい光の中で
身体を開く方法を久しぶりに思い出した。

怖い、そうだ、でもあなたの中から再び叫び声が上がる、
そう恐れと喜びの声が、
新しい世界のむき出しの風の中に。

死を思わせる絶望の中から再び光の中によみがえる表現は、うつ病を重ね合わせて読むと、心揺さぶられるものがある。生きることは、恐れと喜びの両方があるのだ。
 世界が新型コロナウィルスに揺れた二〇二〇年、ルイーズ・グリュックの詩がノーベル文学賞に選ばれたことは、とてもふさわしいと思う。病気やさまざまな問題によって、先の見えない長いトンネルの中にいる時、彼女の詩は再び生きる勇気や励ましを与えてくれるだろう。


※1 Glück, Louise. Poems 1962-2012 (Los Angeles Times Book Award: Poetry) (p.245). Farrar, Straus and Giroux. Kindle 版.
※2 同書p.246
※3 同書p.250
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