第一次世界大戦の戦争詩人たち(ルパート・ブルック「兵士」)

文字数 4,364文字

 詩人ホメロスの作とされる古代ギリシアの叙事詩『イリアス』は、十年にわたるトロヤ戦争も終わりに近いころの約五十日間の出来事が描かれている。
 題名は「イリオスの歌」の意味で、イリオスはトロヤ(現在のトルコ北西部)の別称である。

 名高い戦士アキレウスが戦場に立つのを拒んだことから、戦局はギリシア軍にとって破局的になる。(※1)
 アキレウスの親友パトロクロスはアキレウスの武具を着て勇戦するが、敵方の総帥であるトロヤの王子ヘクトルに討たれてしまった。
 アキレウスは怒りと悲しみに燃え、親友の(あだ)を報ずるためにトロヤの人々を虐殺し、トロヤ人の遺体で川を詰まらせる。
 アキレウスはヘクトルを一騎打ちで倒すが、怒りはなおも収まらず、ヘクトルの遺体を戦車の荷台に縛り付け、街中に引きずり回し、トロヤの民は悲嘆にくれる。
 トロヤの老王プリアモスがひそかにギリシア軍の陣営を訪れ、アキレウスの膝にすがり、息子の遺体を返してくれるよう懇願した。
 アキレウスは涙し、ついに怒りをおさめて、二人は戦争で失ったものを嘆く。
 プリアモス王は息子の遺体を収容して城へ帰り、トロヤの街は悲しみに包まれ、葬儀を営むところで全編が終わる。

 『イリアス』は現存する最古の文学作品の一つであり、戦争文学の起源と言える。
 紀元前八世紀後半から七世紀初頭にかけて書かれた古典文学だが、戦争の悲惨さという現代的テーマがすでに織り込まれている。
 文学(芸術)は、異なる社会間の紛争の歴史の記録であり、戦争を体験した人々の集合的記憶を保存する媒体でもあった。

 キネトスコープが一八八九年に発明されて以来、戦争は動く映像によって伝えられるようになった。
 一九一四年八月に始まった第一次世界大戦は、歴史上初めて、大量の映像記録が残された戦争である。(※2)
 映像や報道写真のリアリティーに対して、戦争を伝える媒体として、文学は何を伝えられるのだろうか。
 第一次世界大戦に従軍したイギリスの若き詩人ルパート・ブルックが書いた"The Soldier"(兵士)という詩を紹介したい。


The Soldier by Rupert Brooke

 If I should die, think only this of me:
 That there's some corner of a foreign field
 That is for ever England. There shall be
 In that rich earth a richer dust concealed;
 A dust whom England bore, shaped, made aware,
 Gave, once, her flowers to love, her ways to roam,
 A body of England's, breathing English air,
 Washed by the rivers, blest by suns of home.
 
 And think, this heart, all evil shed away,
 A pulse in the eternal mind, no less
 Gives somewhere back the thoughts by England given;
 Her sights and sounds; dreams happy as her day;
 And laughter, learnt of friends; and gentleness,
 In hearts at peace, under an English heaven.

「兵士」(以下和訳:筆者)

 もし僕が死んだら、このことだけを憶えていてほしい。
 どこか異国の野の片隅に
 永遠のイギリスがあることを。
 その豊かな大地にもっと豊かな塵が埋まっていることを。
 その塵はイギリスが生み、形を与え、意識をもたせたものだった。
 かつてそれに、愛するようにと花を咲かせ、逍遥する小道を作ったのもイギリスだった。
 その塵はイギリスの空気を吸い、
 川の流れに洗われ、故郷の太陽に祝福されたイギリスの体だったのだ。

 そしてこう思ってほしい。全ての悪を捨て去ったこの心が
 不滅の心の鼓動となって
 イギリスが与えてくれた思い、
 その風光と響きを、その幸せな日の幸せな夢の数々を
 そして友から学んだ笑い声と、イギリスの空の下にある人々の
 平和な心に宿った優しさを、どこかにお返しするだろうと。


 この詩は、ルパート・ブルックの"1914"と題された連作の戦争詩の五番目の作品である。
 パブリックスクールの名門ラグビー校での教育を終え、ケンブリッジ大学で古典語を学んだブルックは、戦争が勃発すると大学時代の友人たちと共に志願して軍に入隊した。
 一九一五年三月に『タイムズ文芸付録』がブルックの詩"1914"から四番目「死」と五番目「兵士」を掲載し、戦争詩人として世間の注目を集めるようになる。
 しかしブルックは地中海遠征軍とともにエジプト駐留中、感染した蚊に刺されたことで敗血症となり、一九一五年四月に病院船でガリポリへ向かう途中、二十七歳という短い生涯を閉じた。
 彼の遺体はエーゲ海のスカイロス島のオリーブ畑に埋葬された。

 ブルックの詩「兵士」は、「一九一四年」と題された一連の詩のフィナーレを飾る作品として、兵士の死を描いたものである。
 ブルックは一人称で読者にこう語りかける。
 たとえ祖国から遠く離れた場所で死んだとしても、自分の遺体が埋葬されている小さな土地は常に祖国イギリスなのだと。なぜなら、創世記で神が土の塵から人を形づくり、命の息を吹き入れたように、イギリスが生み育てた「塵(dust)」たる自分の肉体は土にかえり、異国の大地をより豊かにするからだ。たとえ肉体が滅びようとも、イギリスが育てた自分の魂は不滅であり、埋葬地がどこであろうと、そこは永遠に祖国イギリスの領土の一部となるのである。
 
 ブルックは戦死を不毛なものではなく、兵士が祖国から与えられた栄光として書いた。死の訪れとともにすべての罪は洗い清められ、戦死者の魂は永久不滅の輝きとなる。
 ブルックの訃報を知らされた海軍大臣であったウィンストン・チャーチルは『タイムズ誌』に追悼文を寄せ、「戦争詩人」として彼を讃えた。(※3)

 ブルックが美しい入り江に停泊中の船内で息を引き取ったちょうど同じころ、西部戦線のイーペルではドイツ軍が毒ガス兵器を使用し、この戦いでのイギリス軍の戦死者は約六万人に達した。(※4)
 塹壕(ざんごう)陣地の泥土のなかの凄惨(せいさん)な死を考えると、詩「兵士」で語られている死は、あまりにも戦死を美化していると言わざるを得ない。

 第一次世界大戦を主題とする戦争詩は、一九一六年のソンムの戦いを転機に、戦場のむごたらしさをありのままに伝えるような詩へと変わっていく。
 ブルックの詩「兵士」は、一九一七年のウィルフレッド・オーウェンの反戦詩 "Dulce et Decorum est "(甘美にして名誉なり)と対比されることが多い。

 事実を正確に書いていないブルックの詩は、戦争の「真実」を伝えていないのだろうか。
 戦争文学、特に戦争詩とは作者の視点から事実を再構成したものだ。
 戦死という一つの事実に対しても、作者一人ひとりの感じ方は異なるため、多様性が生じるだろう。

 一九一五年四月の復活祭の日曜日に、セント・ポール大聖堂の教壇で彼の詩「兵士」が読み上げられた。
 彼の詩集『1914 & Other Poems』は同じ年の五月に初版が発行され、その年に十一回も増刷されたほどの人気を集めた。
 一九一七年七月、陸軍元帥であったエドムンド・アレンビーは息子の戦死を知らされ、公の場でブルックの詩を朗読しながら涙を流したと言う。
 彼の詩を最も必要としていたのは、こうした戦死者の遺族たちだったのかもしれない。

 夫や息子を失った遺族たちにとって、その死を無意味だとは決して言われたくないものだ。
 これから戦地へ赴こうとする若者たちにとっても、自分の犠牲を意味あるものだと思えなければ、命をかけることなど到底できず、兵役拒否や脱走兵となるのではないか。
 ブルックの詩は読者に語りかける。「僕は祖国のために死んだ。僕は祖国を愛している。だから僕の死は無駄ではない」と。
 終戦間近の一九一八年六月、彼の詩集は二十四回目の刷り上がりを迎えた。激戦地では何年間も戦死者が収容できずに放置されていたが、人々は愛国的兵士の栄光ある死という虚構の世界を信じたかったのだ。
 ブルックの詩がこれほど読者から愛され、その後の戦争で募兵に利用された事実それ自体が、戦争のひとつの「真実」を教えてくれるだろう。

 ウェストミンスター寺院の詩人のコーナーで、石碑に刻まれた十六人の第一次世界大戦の詩人たちの中にブルックも含まれている。
 彼の墓は今もスカイロス島にあり、詩「兵士」の一節が刻まれている。



※1 ギリシア軍の総帥アガメムノン王が、光明神アポロンの神官の娘クリセイスを戦利品として奪い、その返還を拒んだことからアポロンの怒りを招き、ギリシア軍に疫病が蔓延(まんえん)する。その対策をめぐってアガメムノン王と戦士アキレウスとの間に争いが起こり、アキレウスは戦場に立つのを拒む。アキレウスの母テティスは最高神ゼウスに息子の名誉回復を嘆願し、ゼウスが戦局をギリシア軍の不利になるよう取り計らったため。

※2 開戦当初、各国の政府や軍は撮影を拒み、イギリス軍では「前線で撮影すればカメラマンを銃殺する」と定めていたほどだった。戦争の初期に兵士の遺体などを撮影した映像は、カメラマンたちの隠し撮りフィルムによるものだと言われる。戦局が膠着状態になると、撮影が許可されるようになるが、フィルムは検閲された。1916年、イギリス政府は検閲済みの戦争記録映画を初めて公開し、映画館が連日満員となるほどの大ヒットとなった。

※3 1915年4月23日にルパート・ブルック戦病死。ウィンストン・チャーチルは同年4月26日に『タイムズ誌』に追悼文を寄せた。
※4 1915年4月22日から5月25日まで西部戦線、第二次イーペル戦。ドイツ軍が歴史上初めて大量の毒ガス兵器を使用し、イギリス軍約6万の戦死者・損害。その後イギリス軍も毒ガス兵器を使用したが、風向きのせいで自軍に大損害を与えた。ブルックの実弟ウィリアムも同年6月に西部戦線で戦死、24歳という若さだった。
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