オルガ・トカルチュク『逃亡派』
文字数 2,149文字
二〇〇七年に発表された『逃亡派』は、現代の旅について哲学的に省察した作品である。二〇一八年のブッカー国際賞受賞作だ。
名もなき旅人である「わたし」の一人称語りによる随想風小説を中心に、三人称小説や書簡体小説がきれぎれに挿話され、全百十六もの断章によって構成されている。
巡礼の目的は、べつの巡礼者だ。※1
主人公である「わたし」は、この台詞を何度も繰り返し語る。数えてみると五回もあった。本作のキーワードと言えるだろう。
「わたし」にとって旅とは、「巡礼」にほかならない。読者は「わたし」の「巡礼」の旅に同行して、「思いがけない視点」からものを見ていくことになる。
作中で、十七世紀のオランダの解剖学者フィリップ・フェルヘイエンがアキレス腱を発見した話や、作曲家ショパンの姉ルドヴィカが弟の心臓をひそかにポーランドへ運んだ旅など、事実とフィクションを交えた歴史小説が挿話される。
「わたし」の「巡礼の目的」は「べつの巡礼者」に会うことだ。「べつの巡礼者」とは、蝋製の解剖臓器や人体の断面図、胎児やシャム双生児、内臓などの解剖標本を指す。
解剖は身体の差異化である。切断された解剖体は、この世界への探究心を象徴している。
本作が百十六もの断章で構成されるのは、作家が世界を解剖しているのだ。水平方向の切断面という「思いがけない視点」から見た世界を、読者に提示してくれる。
わたしは真実をみつけた。わたしはここにいる。(※2)
世界をどこまでも差異化する「巡礼」の旅を通じて、「わたし」は自我を発見する。
世界を前提なしに出来事の根源にまでさかのぼって捉えることによって、あらゆる二項対立を超え、専制、抑圧、権威などから解放されて、精神の自由を獲得していく。
精神の自由を求める放浪者 の象徴として、表題でもある「逃亡派の女」が登場する。
第七五章「逃亡派」および第七六章「逃亡派の女はなにを言っていたか」に描かれる逃亡派は、かつて本当に実在した。
本作の原題はポーランド語でBieguni 。これはロシア語のБегуны に当たる。
逃亡派と呼ばれるБегуны は、直訳すると「走る人々」という意味だ。彼らは「放浪者」を意味するстранники とも呼ばれた。
一六五〇年から一六六〇年、ロシア正教の総主教ニコンとツァーリのアレクセイ・ミハイロヴィチが行った宗教改革を拒否した正教徒たちは、Старообрядчество (古儀式派)と呼ばれた。
古儀式派のうち、Беспоповство (無司祭派)と呼ばれる分派の一部に、Бегуны (逃亡派)が含まれている。
無司祭派は、基本的に聖職者を持たない。教会組織が存在しないため、洗礼、聖体拝領、塗油式、告解、結婚などの秘蹟が行われず、信仰生活を送る上で独自の教義を生み出していった。その分派の一つが逃亡派だ。
逃亡派は、Евфимий (一七四三年頃 —一七九二年)によって始められた。彼は、ピョートル大帝を反キリストとみなす古儀式派の考えを踏襲し、反キリストたる国家と闘うことが必要であると主張した。
しかし、公然と闘うことは不可能であるため、«достоит таитися и бегати »(隠れることと逃げることが必要)と主張した。社会との結びつきを全て断ち切り、あらゆる市民的義務を拒否することを提唱したのである。
彼の考えでは、魂の救済は «вечное странство »(永遠の放浪、永遠の巡礼)にある。そのため、世界からの分離、社会からの孤立、あらゆる市民的職務、義務および責任の拒否をしなければならないのだ。
エフェーミイは、一七七二年にその考えを実行した。最初はコストロマ州のガリチの森に、次にヤロスラヴリ近郊のソペルキ村に移住した。この村はそれ以来、逃亡派の中心地となった。一九世紀、エフェーミイ信徒たちの共同体は、この地域で最大級の影響力を持つ会派となった。
ドストエフスキーの『罪と罰』やトルストイの『復活』、トゥルゲーネフの『猟人日記』、ゴーリキーの『どん底』などに逃亡派らしきキャラクターが登場している。
二〇世紀初頭、逃亡派は常に少数派であったにもかかわらず、移動式の生活様式によって、ペテルブルグからシベリアの深部までロシア全体に広がっていた。ヤロスラヴリ、コストロマ、オロネッツ、ウラジミルスカヤで最も多く見られた。
二〇世紀末にはきわめて数が少なくばらばらなっており、民法や社会法を認めず、シベリアやウラル山脈北部の辺境の地に身を潜めていた。
本作では、そんな逃亡派の信徒たちがモスクワ地下鉄にひそかに乗車して、昼夜問わず大都市を移動し続けているとする。モスクワのアパートで病児の世話と滅多に帰らない夫に倦んでいたアンヌシュカは、地下鉄の入口で偶然に逃亡派の女と出会い…。
作者オルガ・トカルチュクは、一九六二年にポーランドで生まれた。彼女の祖母の一人はウクライナ人だった。ワルシャワ大学で心理学を学び、心理療法士として働いた。現在は、緑の党のメンバーでもある。
二〇一九年に二〇一八年度ノーベル文学賞を受賞した。
※1 オルガ・トカルチュク『逃亡派』白水社(20,122,267,321,397頁)
※2 同書4頁
名もなき旅人である「わたし」の一人称語りによる随想風小説を中心に、三人称小説や書簡体小説がきれぎれに挿話され、全百十六もの断章によって構成されている。
巡礼の目的は、べつの巡礼者だ。※1
主人公である「わたし」は、この台詞を何度も繰り返し語る。数えてみると五回もあった。本作のキーワードと言えるだろう。
「わたし」にとって旅とは、「巡礼」にほかならない。読者は「わたし」の「巡礼」の旅に同行して、「思いがけない視点」からものを見ていくことになる。
作中で、十七世紀のオランダの解剖学者フィリップ・フェルヘイエンがアキレス腱を発見した話や、作曲家ショパンの姉ルドヴィカが弟の心臓をひそかにポーランドへ運んだ旅など、事実とフィクションを交えた歴史小説が挿話される。
「わたし」の「巡礼の目的」は「べつの巡礼者」に会うことだ。「べつの巡礼者」とは、蝋製の解剖臓器や人体の断面図、胎児やシャム双生児、内臓などの解剖標本を指す。
解剖は身体の差異化である。切断された解剖体は、この世界への探究心を象徴している。
本作が百十六もの断章で構成されるのは、作家が世界を解剖しているのだ。水平方向の切断面という「思いがけない視点」から見た世界を、読者に提示してくれる。
わたしは真実をみつけた。わたしはここにいる。(※2)
世界をどこまでも差異化する「巡礼」の旅を通じて、「わたし」は自我を発見する。
世界を前提なしに出来事の根源にまでさかのぼって捉えることによって、あらゆる二項対立を超え、専制、抑圧、権威などから解放されて、精神の自由を獲得していく。
精神の自由を求める
第七五章「逃亡派」および第七六章「逃亡派の女はなにを言っていたか」に描かれる逃亡派は、かつて本当に実在した。
本作の原題はポーランド語で
逃亡派と呼ばれる
一六五〇年から一六六〇年、ロシア正教の総主教ニコンとツァーリのアレクセイ・ミハイロヴィチが行った宗教改革を拒否した正教徒たちは、
古儀式派のうち、
無司祭派は、基本的に聖職者を持たない。教会組織が存在しないため、洗礼、聖体拝領、塗油式、告解、結婚などの秘蹟が行われず、信仰生活を送る上で独自の教義を生み出していった。その分派の一つが逃亡派だ。
逃亡派は、
しかし、公然と闘うことは不可能であるため、«
彼の考えでは、魂の救済は «
エフェーミイは、一七七二年にその考えを実行した。最初はコストロマ州のガリチの森に、次にヤロスラヴリ近郊のソペルキ村に移住した。この村はそれ以来、逃亡派の中心地となった。一九世紀、エフェーミイ信徒たちの共同体は、この地域で最大級の影響力を持つ会派となった。
ドストエフスキーの『罪と罰』やトルストイの『復活』、トゥルゲーネフの『猟人日記』、ゴーリキーの『どん底』などに逃亡派らしきキャラクターが登場している。
二〇世紀初頭、逃亡派は常に少数派であったにもかかわらず、移動式の生活様式によって、ペテルブルグからシベリアの深部までロシア全体に広がっていた。ヤロスラヴリ、コストロマ、オロネッツ、ウラジミルスカヤで最も多く見られた。
二〇世紀末にはきわめて数が少なくばらばらなっており、民法や社会法を認めず、シベリアやウラル山脈北部の辺境の地に身を潜めていた。
本作では、そんな逃亡派の信徒たちがモスクワ地下鉄にひそかに乗車して、昼夜問わず大都市を移動し続けているとする。モスクワのアパートで病児の世話と滅多に帰らない夫に倦んでいたアンヌシュカは、地下鉄の入口で偶然に逃亡派の女と出会い…。
作者オルガ・トカルチュクは、一九六二年にポーランドで生まれた。彼女の祖母の一人はウクライナ人だった。ワルシャワ大学で心理学を学び、心理療法士として働いた。現在は、緑の党のメンバーでもある。
二〇一九年に二〇一八年度ノーベル文学賞を受賞した。
※1 オルガ・トカルチュク『逃亡派』白水社(20,122,267,321,397頁)
※2 同書4頁