ガッサーン・カナファーニー『太陽の男たち』『ハイファに戻って』

文字数 2,768文字

 大型給水車が砂漠の中を進む。炎熱に溶けそうな給水タンクの中には、三人のパレスチナ難民の男がひそんでいた。彼らは、イラクのバスラからクウェイトへ密入国を企てるが…。

 作者ガッサーン・カナファーニーは、一九三六年にイギリス委任統治領下のパレスチナのアッカーで生まれた。スンニ派イスラム教徒の家庭で、父は弁護士であり、カナファーニーはフランス系のミッションスクールに通った。
 一九四八年、イスラエル建国のほぼ一カ月前、カナファーニーが十二歳の時にデイル・ヤーシン村虐殺事件が起きる。ユダヤ人武装組織である「エツェル」(イルグン)と「レヒ」が実行したこの事件は、「ダレット計画」と呼ばれるパレスチナ人大量追放計画のために仕組まれた殺戮と性暴力だった。パレスチナ人たちはパニックに襲われ、カナファーニーも家族とともに難民となって、シリアのザバダーニへ逃れた。

 一九六三年に発表された『太陽の男たち』は、ブルジョワ層でも知識層でもない、何の肩書も持たない、難民キャンプで生活するしかない人々を描き出す。

過去十年の間、彼のしたことはただ待つことだけであった…おまえはなけなしの樹々、おまえの家、青年時代、故郷の村すべてを失ったことを認めるのに、空腹な十年もの歳月を必要としたのだ…(※1)

そんな彼らが自分の道を切り拓くには、密入国請負人になけなしの金を払って、命を預けるしかなかったのだろう。

 ダマスカスへ移ったカナファーニーは、昼間に働き、夜学へ通って高等学校を卒業した。一九五二年から、難民キャンプ学校の教師となり、彼は難民の子供たちに教えた。『太陽の男たち』からは、三百万人のパレスチナ難民の一人であった、カナファーニー自身の声なき叫びが聞こえてくる。
 本作は、一九七二年にエジプトのタウフィーク・サーレフ監督によって、シリアで映画化された。この映画は、カルタゴ映画祭で金賞を受賞したほか、モスクワ映画祭でレーニン平和賞を受賞するなど、アラブ世界のみならず国境を越えて高く評価された。(※2)


 一九六九年に発表された『ハイファに戻って』は、現代のパレスチナ文学で最も著名な作品の一つと言われる。
 一九四八年の災禍の中で、サイードとソフィアは幼い息子ハルドゥンを家に残したまま、ハイファから逃げることを余儀なくされる。一九六七年、夫婦は二十年ぶりにハイファへ戻るが、かつての自宅にはユダヤ人夫妻が暮らしていた。一九四八年にポーランドから逃げてきたユダヤ人のアフラートとミリアムは、幼いハルドゥンを引き取り、ドウフと名づけて我が子として育てていた。サイードとソフィアは、成長した我が子と対面するが、ハルドゥンはミリアムを「母」と呼び、「ユダヤ人」として兵役に就いていた。
 ハルドゥンは、生みの親に向けて言う。

幼い時から、私はユダヤ人だった。私はユダヤ教会へ行き、ユダヤ人の学校へ通い、コッシェルを食べ、そしてヘブライ語を学んだ。二人が私に、お前は私達の生んだ子供ではないと言った時、別に何も変わらなかった。その後、二人が私のもとの両親はアラブ人だと言っても、何も変わらなかった。(※3)

息子の言葉に胸を貫かれたサイードは、「私達は彼を失ったのだ。しかし疑いなく、こうなっては彼は自らをも喪失してしまっている」とつぶやく。
 アラブの血を引きながら、イスラエルのために武器をとるハルドゥンは、ユダヤ人なのか、パレスチナ人なのか。サイードは「パレスチナとは何か」を自分に問う。血や肉や身分証明書やパスポートではないのだ。
 サイードは二十年ぶりにハイファに戻って、自分たちが「思い出の埃の下に埋まったもの」を捜していたのだと気づく。サイードとソフィにとって、「祖国とは過去」であった。一方、二人の次男ハーリドはパレスチナ難民として生まれ、思い出のハイファを知らない。しかし、フェダーイーンに入隊して、パレスチナのために武器をとろうとしている。若いハーリドにとって「祖国とは未来」なのだ。


 一九五六年、カナファーニーは「アラブ民族運動」に入り、ダマスカス大学を追放される。ベイルートに潜伏しながら執筆した『太陽の男たち』は、多くの外国語に翻訳された。「抵抗文学」という言葉を生み出したのは、カナファーニーであった。一九六六年、彼はレバノン文学賞を受賞した。
 一九六九年、カナファーニーは「パレスチナ解放人民戦線」に参加し、公式スポークスマンとして、占領下のパレスチナにおける抵抗を呼びかけた。
 一九七二年七月、カナファーニーは何者かによって車に仕掛けられた爆弾によって、姪のラミースとともに爆死した。彼の死因にはさまざまな説があるが、アラブ世界ではモサドの工作員による暗殺と考えられており、「殉教」と言われている。カナファーニーは三六歳、ラミースはまだ十七歳だった。

 カナファーニーの死後、一九七五年にアジア・アフリカ作家会議からロータス賞がおくられた。
 彼がこれほど短命でなければ、ナギーブ・マフフーズやオルハン・パムクと肩を並べて、ノーベル文学賞を受賞していたのではないかと、思わずにはいられない。

 今年五月、イスラエル軍によるガザ地区(パレスチナ自治区)への空爆が行われた。暴力と憎しみの高まりによって、東エルサレムやヨルダン川西岸地区など、イスラエル内のパレスチナ人が住む地域では、イスラエル治安当局や右派の過激なユダヤ人集団がパレスチナ人を襲撃した。
 イスラエル国籍のパレスチナ人は、実はイスラエル総人口の二十パーセントを超える。イスラエル建国後もパレスチナ地域にとどまった人々は、「アラブ・パレスチナ人」や「四八年パレスチナ人」と呼ばれている。彼らにとって、「占領」は日々の生活そのものにある。

 パレスチナとは何か、祖国とは何か。カナファーニーが模索し、描こうとした問題は、没後半世紀近い今なお、生々しく血を流して、私たちに問いかけ続ける。



※1 ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』河出文庫、18頁
※2 タウフィーク・サーレフ(Tewfik Saleh)監督による映画『太陽の男たち』(1972年)は、次のURLから現在も見ることができる。英語字幕付き。男たちが隠れひそんだ給水車が砂漠を走る場面は1時間12分頃から。 https://youtu.be/u78OgE7LIKY
※3 ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』河出文庫、247頁。『ハイファに戻って』は、1981年にイラクのカセム・ハワリ(Kassem Hawal)監督によってベイルートで映画化された。2004年には、パレスチナ出身のバジル・アル・ハティブ(Basil Al-Khatib)監督によってシリアでテレビドラマ化されている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み