坂口安吾『桜の森の満開の下』

文字数 1,875文字

 昔、一人の山賊の男がいた。
 情容赦なく旅人の着物を奪って殺す男だったが、桜の森の花の下だけはなぜか怖ろしく、気が変になる。ある旅人の男を殺し、連れの女を自分の女房にしようとしたが、男は美しすぎる女の言いなりになってしまい……。

 坂口安吾の『桜の森の満開の下』は、GHQによる言論統制下の昭和二十二年に発表された。
 当時、雑誌『新潮』から掲載を断られ、カストリ雑誌『肉体』で掲載されたため、発表直後は評価されなかった。
 安吾の代表作として知名度を得たのは、彼の死後になってからである。

 日本人は桜の美しさに対して、何か特別なイメージを持っている。
 古代において桜の花は農業生産や生殖の象徴であったが、平安末期から散る花に死や無常のイメージが重ねられた。
 明治以降はナショナリズムと結びつけられ、「散る桜」は戦死を意味するようになった。

 山賊の男は桜の森の満開の下を恐れる。男は桜の花の下と女の美しさは似ていると感じる。
 山賊の男には七人の女房がいたが、女は六人の女房を男に殺させ、最も醜い「ビッコの女」だけを女中として残した。
 女の命令で自分の女房を殺した直後、男は美しすぎる女に「不安」を感じ始める。
 男が感じた「不安」は桜の花の下に似ていた。

 女が美を求めることと、他の女房たちを殺させ、むごたらしい遊びに興じることは表裏一体である。人間の欲望の本質は残酷でキリがない。
 男を魅了した美しい女は、軍国主義を美化した国家の寓意として読み解くことができる。
 女の欲望を満たすために強盗殺人を繰り返す男には、国家の命じるままに他の人の命を犠牲にして平然と生きてきた日本人の姿が重なる。
 男は満開の桜の下へ訪れると、その都度理性の危機に瀕する。
 軍国主義と結びついた美意識は、無意識のうちに浸透して抗いがたく、人々の感情を駆り立てるのだ。

 本作品と共通する安吾の作品に、『夜長姫と耳男』と『紫大納言』がある。
 美しい夜長姫は無邪気に人の死を求め、「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならない」と言う。美しい天女に魅了された大納言の末路は破滅である。

 山賊の男が女を背負って花ざかりの桜の下へ足を踏み入れたとき、男は美しい女が醜い鬼女であることに気づく。

 俄に不安になりました。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。※1

 桜の森の満開の下で、若く美しい女は年老いた老婆に変身する。老婆は女の未来の姿ではなかろうか。老いによって女の美は醜に転じる。
 満開の桜が散って花びらになるのも、人間の首が腐るのも伏線である。
「妙なる魔術」で美化されていた国家の真実が、醜悪なおぞましいものであったと敗戦後の安吾は気づいたのだ。
 戦後直後に発表した『堕落論』で、安吾は「戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない」と語っている。

 女が装いを整えることで一つの美が成り立つ様を、山賊の男は「個としては意味をもたない不完全かつ不可解な断片が集まることによって一つの物を完成する」と感じる。
 断片としての個人は、国家の中で何らかの役割を果たすことによって意味を持ち、一つの美を完成する。
 しかし、その完成された美とは「分解すれば無意味なる断片に帰する」ものにすぎなかったのだ。

 男が夢中で鬼女を殺そうとしたのは、美が醜に転じることの拒絶であり、敗戦の受け入れ難さに重なる。
 どんなに拒絶しても、女が鬼に変ずることを止められないように、日本人は敗戦を受け入れなければならなかった。
 
 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。※2

 物語は男も女も消失し、花びらだけを残して終幕する。読者は「孤独」の中に取り残される。
『文学のふるさと』で、安吾は「人間のふるさと」というものは、むごたらしく救いのない「絶対の孤独」であると語る。
 敗戦によって否応なく「分解」され、無意味な断片に戻った個人は、別の完成を求め続けなければならなかったのだろう。
 安吾は「散る桜」に戦死ではない、新しい意味づけをしたと言える。
 過去へ引き返すことはできない。桜の森の満開の下、断片として降りしきる花びらに完成はない。


※1 坂口安吾「桜の森の満開の下」、『桜の森の満開の下・白痴 他十二篇』岩波文庫、242頁
※2 同書、244頁
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