ドストエフスキー『鰐』

文字数 2,303文字

 一八六五年に雑誌「世紀」に発表された『鰐』は、カフカの『変身』を先取りしたかのような不条理小説である。
 役人のイワンは見世物小屋の巨大な鰐に飲み込まれてしまう。鰐に食われて死んだと思われたイワンが、なぜか鰐の腹の中で生きていた。そればかりか、自分の妻や同僚セミョーンに落ち着いた声で話しかけてくる。
 鰐の中のイワンは、見物客がつめかけたことに満足し、自分が目立つ存在となり、姿を隠した主役であるとうぬぼれる。彼は「怠惰な俗衆に教えを垂れてやるつもり」であり、「運命に対する偉大さと謙譲との手本」を示し、新しい独自の経済理論を発見して、「新たなフーリエ」になってみせると豪語する。

 僕は今、完全な社会思想の一体系を考案してみせるよ。君は信用しないだろうが、そんなのは実に簡単なことだ! どこか少し奥まった片隅に引きこもるなり、あるいは鰐の腹の中にもぐりこむなりして、目をつぶりさえすれば、たちどころに全人類のための一大天国を考え出せるからね。※1

 イワンの救出のために奔走する同僚セミョーンは、「なぜ、この軽薄才子は威張りくさっているんだ」と内心歯ぎしりする。

 発表当時、鰐に飲まれたイワンは、チェルヌイシェフスキーを中心とする進歩派インテリゲンチヤたちのパロディーとして解釈された。鰐は監獄と流刑地シベリアの寓意である。鰐の腹の中のイワンは、シベリアへ追放されたチェルヌイシェフスキーたちを風刺している。
 青年時代のドストエフスキーは、フーリエの空想的社会主義に共感していた。外務省の役人ペトラシェフスキーが主宰する集まりに参加していたため逮捕され、死刑判決が下される。しかし、銃殺刑直前に特赦され、シベリアでの四年間の徒刑と四年間の兵役が科せられた。
 ドストエフスキーはシベリアでの八年間の生活を終えて、一八五九年十二月にペテルブルグへ帰還した。そして『死の家の記録』や『虐げられた人々』を発表する。
 シベリアから戻ったドストエフスキーは、空想的社会主義を捨て、民族主義的な保守派に転向していた。そんな時期に、チェルヌイシェフスキーが獄中で執筆した『何をなすべきか』が大流行する。ドストエフスキーの『地下室の手記』は、空想的社会主義者や進歩主義者に対する辛辣な批判である。『地下室の手記』と共通する作品が『鰐』なのだ。

 本作は、イワンが鰐に飲みこまれる悲劇から始まり、鰐の中で生き続けるという奇跡的な救い、そしてイワンの説教が語られる。神聖な苦痛と奇跡による預言者への変容、説教という物語構成は、『旧約聖書』や『黄金伝説』の聖人伝を思い起こさせる。
 鰐に飲みこまれたイワンは、巨大な魚に飲み込まれた預言者ヨナのパロディーとして読み解くことが出来るだろう。三日三晩、大魚の中にいたヨナは悔い改め、神の言葉に従ってニネヴェへ行き、人々が悪の道から立ち返らなければ滅びると告げ知らせた。
 イワンは「鰐の腹の中から真実と光明が流れでる」ように感じ、まるで自分が預言者に変容したかのようにセミョーンに説教する。しかし、鰐の口から出てくる空想的な進歩思想は、神の言葉では決してないのだ。

 飲みこまれたイワンと飲みこんだ鰐は、実は鏡像の関係でもある。イワンが鰐に飲みこまれた時、鰐の飼い主であるドイツ人は次のように言った。

Он(オン) пропадиль(プラパディリ), он(オン) сейчас(セイチャス) будет(ブディット) лопаль(ロパリ), потому(パタム・) что(シュタ) он(オン) проглатиль(プラグラティリ) ганц(ガンツ) чиновник(チノーヴニク)!≫
(やつがだめになる、やつが今すぐ破裂する、役人丸呑みしたから!)

作中でドイツ人たちは、ドイツ語混じりのロシア語を話している。この台詞では、本来ならば現在形や過去形や原型にすべき動詞が、なぜか -льで終わる形であったり、名詞も格変化せずにそのままつなげている。文法をめちゃくちゃにした台詞は、外国人らしさを演出するだけでなく、飲みこまれたイワンと飲みこんだ鰐の関係を逆転させる効果を生み出している。
 主語он(彼)は、「鰐」を指している。鰐が「役人」を飲みこんだのであれば、目的語чиновник(チノーヴニク)(役人)は、чиновника(チノーヴニカ)(役人を)と対格を用いるべきだ。しかし、「鰐」と「役人」の両方とも主格で話すと、どちらが飲みこんだ主体なのか一瞬分からなくなってしまう。
「鰐が」飲みこんだのか、「役人が」飲みこんだのか…。このドイツ人は、役人が飲みこんだから、鰐が死ぬ!と叫びたかったのかもしれない。

 作中の新聞は、貪食な食通が鰐を生きたまま食べたと伝えたり、肥満の酔っぱらいが自ら鰐の口の中に入りこみ、鰐は哀れにも飲みこむことを余儀なくされた、などと事件を報道した。新聞記者は、進歩的なヨーロッパと逆行するロシアを対比し、批判する。ペテルブルグでは、すでにヨーロッパ風のガス灯が照らし、ヨーロッパ風の歩道が敷かれ、ヨーロッパ風の立派なアパートが建てられていた。
 ドイツ人が飼っている鰐に飲みこまれたイワンは、社会思想から建物まで、あらゆるものがヨーロッパ風に飲みこまれつつあった当時のロシアと重なる。思想的転向後のドストエフスキーにとっては、進歩派インテリゲンチヤは自ら鰐の腹の中へ飛びこんでいく愚者に見えたのだろう。
 実際に、ドイツ人のマルクスとエンゲルスが生み出した共産主義は、ロシア全土を飲みこんでしまった。しかし、飲みこまれたイワンと飲みこんだ鰐が逆転したように、ソビエト連邦はどんどんヨーロッパの国々を飲みこんでいったのだ。
 


※1 ドストエフスキー「鰐」原卓也訳、『鰐 ドストエフスキー ユーモア小説集 沼野充義編』講談社、282頁
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