オルハン・パムク『雪』

文字数 4,022文字

 政治亡命者として長らくドイツで暮らしていた主人公のKa(本名ケリム・アラクシュオウル)は、十二年ぶりに祖国トルコへ帰ってきた。
 かつて想いを寄せていたイペッキという女性に結婚を申し込むつもりで、Kaはトルコ北東部の国境に近い小さな町、カルスを訪れる。
 そのときカルスでは、市長選挙と十代の少女たちの連続自殺事件に揺れていて、世俗主義者とイスラム主義者の間で緊張が高まっていた。
 Kaがカルスに到着した日、教員養成学校の校長がイスラム過激派のテロリストによって暗殺される事件が起こり……。


 作者オルハン・パムクは、一九五二年にトルコのイスタンブルに生まれ、没落しつつある上流階級の裕福な家庭で育った。彼の父方の祖母はチェルケス人だった。
 二十二歳で初めて書いた小説『ジェヴデット氏と息子』が、トルコで最も権威のあるオルハン・ケマル小説賞を受賞。その後に発表した『静かな家』、『黒い書』、『わたしの名は紅』はトルコ国内だけでなく、ヨーロッパやアメリカで高い評価を受けた。
 二〇〇六年に、トルコ人として初となるノーベル文学賞を受賞している。

 二〇〇二年に発表された長編小説『雪』は、「911事件」後のイスラーム世界を予見した作品と言われ、フランスで権威のあるメディシス賞を受賞した。
 作品の原題はトルコ語で「雪」を意味する「Kar」だが、主人公は自分のイニシャルから「Ka」を自称し、物語の舞台は地方都市「Kars」(カルス)である。
 大雪(Kar)に閉ざされたKars(カルス)という土地を、部外者である主人公Kaがさまよう構成は、カフカの未完の名作『城』を思い起こさせる。

 主人公Kaはカルスで、意見の異なるさまざまな立場の人物と出会い、対話をする。
 政教分離主義者、社会主義者(元共産主義者)、イスラム穏健派、イスラム過激派、クルド人民族主義者、軍人や革命家などが声をあげ、世俗主義と信仰の問題を中心に二十世紀のトルコの歴史を振り返りながら、議論を交わすのだ。

 作者オルハン・パムクは文化的ムスリムを自認しているが、作中では世俗主義者もイスラム穏健派もイスラム過激派も、偏りなく発言の機会が与えられていて、きわめて多声的な作品であり、作者の絶妙なバランス感覚が感じられる。(※1)

 この物語の重要なテーマは、イスラム的スカーフ着用と自殺をめぐる問題である。
 作中で「髪を覆う少女たち」と呼ばれる女子生徒たちは、学校内でスカーフ着用が禁止されているにもかかわらず、スカーフを脱ぐことを拒否している。
 学校はスカーフを着用したまま授業を受けることを認めず、「髪を覆う少女たち」の登校を阻止し、退学処分にするところだった。
 そんな「髪を覆う少女たち」の一人であったテスリメが、主人公Kaがカルスを訪れる一か月前に自殺していた。

 町の人々は、彼女がスカーフ着用禁止に抗議して自殺したとか、思春期の失恋のため自殺したなどと噂していた。(※2)
 テスリメの自殺をめぐって、政教分離主義者とイスラム主義者が衝突し、「髪を覆う少女たち」を

という理由で校長が暗殺される事件に発展する。
 この校長暗殺事件が引き金となって、イスラム過激派を恐れる政教分離主義者の一部が、軍事的な報復行動を起こすのだ。軍の動きに乗じて、警察や情報局は町中のイスラム主義者やイスラム神学校の学生たち、クルド人民族主義者を襲って、次々と逮捕していく。
 カルスに潜伏していたイスラム過激派のリーダーと接触した主人公Kaも、情報局員に拉致されてしまい……。

 トルコは一九二六年の建国以来、法律や制度を西欧に(なら)い、近代的な民主主義国家建設を目指してきた。
 日本の明治維新と同じように、当時のトルコにおける「近代化」とは、「西欧化と世俗化」を意味していた。
 こうした世俗化(脱イスラム教)の過程で、女性たちは宗教シンボルであるスカーフをはずすよう奨励され、公共の場と教育の場ではスカーフ着用が禁じられた。
 
 一九八〇年代以降、スカーフを着用したまま授業を受けたい女子学生たちと、スカーフ着用を禁じる大学当局との間で衝突が起こり、いわゆる「スカーフ論争」が燃え上がった。
『雪』は一九九〇年代の初めを舞台としているが、物語の背景には、執筆当時まだ決着が着いていなかった「スカーフ論争」があるのだ。
 作中で「髪を覆う少女たち」のリーダーであるカディフェは、革命家のスナイに対してこのように語る。

「あなたが怖いのは、わたしが賢いことではありません。わたしが個性を持つことが怖いのです。」とカディフェ。「この町の男たちは、女が賢いことではなくて、彼女たちが独立して、自分でことを決める、それが怖いのです。」
「まさにその反対だ。」とスナイ。「あんたたち、女がヨーロッパ人のように、独立心を持って、自分で決めることが出来るようにとわしはこの革命をしたのだ。だからこそ、今スカーフを取って、髪を出してもらいたい。」
「髪は出します」とカディフェ。「このことをするのは、あなたが強制したためでも、ヨーロッパ人の真似をするためでもないことを証明するために、その後で首を吊ります。」(※3)

 西欧ではイスラム的スカーフは「女性抑圧のシンボル」とみなされてきたが、トルコ女性のスカーフ着用者は近年むしろ増加傾向にある。
 

した若い女性たちが、主体的にスカーフを着用する現象を復古主義やイスラム原理主義の勢力拡大とみなすのは、短絡的だと言える。
 彼女らのスカーフ・ファッションは、復古的・前近代的な装いというよりも、過度な西欧化への抵抗であり、自分たちのアイデンティティ保持のためにイスラム的価値観を再評価する運動だと考えられている。
 トルコにおける西欧化とは異なる近代化の象徴が、イスラム的スカーフ着用なのだ。
 
『コーラン』では自殺が禁じられているため、カディフェはテスリメの死をどう受け入れるべきか、思い悩んでいた。
 物語の中でカディフェは、自殺はたしかに「罪」だが、「心の中に神への愛がある」のならば、神はわたしたちの苦悩をご覧になり、罪を許してくださる、という気持ちに落ち着く。
 カディフェは次のように語った。

「カルスの何人もの少女たちが髪を覆うことを望んだのに許されなかったために、自殺した者もいます。偉大なアラーは公正でおられます。彼女たちの苦悩をご覧になられます。心の中に神への愛があるのならば、このカルスの町にわたしの場がないために、わたしも彼女たちのように自らを殺します。」 (※4)


「心の中に神への愛がある」かどうかは、「スカーフ論争」においても重要な視点ではないだろうか。
 ムスリムの信仰実践とは、神と個人の契約に基づくものである。したがって、スカーフを着用すれば敬虔なムスリマ、髪を出せば不信心なムスリマというわけではないだろう。
 たとえカディフェが髪を出して登校したとしても、彼女の本当の心のうちは神だけが知っている。

 二〇〇二年の公正発展党政権発足以降、大統領夫人や閣僚夫人たちが公的な場でスカーフを着用する姿が見られるようになった。
 そして二〇一〇年に高等教育評議会が「スカーフ着用を理由に登校を阻止してはならない」という通達を出し、事実上、大学でのスカーフ着用が解禁された。
 現在のトルコでは、脱スカーフ=都市部の先進的な高学歴・高収入層、スカーフ着用=地方の後進的な低学歴・低収入層という図式がもはや通用しなくなっている。


 昨年の二〇二二年九月にイランにおいて、スカーフ着用を義務づける法律に反したという理由で警察に逮捕された若い女性が死亡する事件が起こった。
 この事件は警察による暴行死が疑われ、若い女性たちや女子学生たちが自らスカーフを脱いで、スカーフ

法律に抗議するデモに発展した。デモの参加者は数万人が拘束され、死刑判決も相次いだと報道されている。

 カディフェやテスリメなど、『雪』に登場する「髪を覆う少女たち」は、「スカーフを被る自由」を求めて闘っていた。彼女たちは、スカーフを

されていたからこそ、「被る自由」を熱望したと言える。
 トルコは、イランと国境を接している。
「スカーフ論争」が一筋縄ではいかない難しい問題であるのは、「被る自由」を全面的に認めることで政教分離の原則が崩れて、大切な「被らない自由」が失われる可能性が危惧されているからだ。
 
「スカーフを被る自由」と「被らない自由」のどちらも等しく尊重され、全てのムスリマたちが自分の意志で選ぶことができるようになることを願っている。




※1 文化的ムスリム(Cultural Muslims)とは、社会的・文化的環境(育った家庭環境)からイスラム教を信仰している人々のこと。自らの「ムスリム」(女性は「ムスリマ」)としてのアイデンティティが、宗教的信仰よりも特定の国や民族の文化と結びつけられる。「一日に五回の礼拝を守る」などの宗教的実践(宗教的な修行)は行わないが、イスラム文化の価値観や規範、政治的意見、宗教的見解を大切にしており、特定の歴史や記憶を共有している。

※2 テスリメの自殺は、スカーフ着用をめぐる自殺なのか、恋愛による自殺なのか理由が明らかにされていない。作中で校長は「父親の圧力のせい」と断言し、恋愛を理由とみなしている。この台詞の背景には、十代の少女たちが恋愛を理由に自殺に追い込まれる事件が絶えないという事実がある。インターネットや学校で知り合った男子学生とつき合った女子学生が、親族(父や祖父など)から厳しく非難され、自殺を命じられる。近年の強制自殺の増加は、いわゆる名誉殺人に対する処罰を強化するようトルコに圧力をかけた欧州連合(EU)の意図しない不幸な結果であると言われている。

※3 オルハン・パムク『雪』和久井路子訳、藤原書店、531頁
※4 同書、532頁
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