第7談 インド的マジックリアリズム

文字数 3,497文字

※ネタバレ注意※
インド的マジックリアリズム
インドの紙幣を見たことがありますが、20近い言語で書かれています。

言語、宗教、人種の混沌がマジックリアリズムという手法にぴったり合っていて、とても不思議な世界で面白かったですね。 

マジック・リアリズムは文学や芸術のスタイルのひとつ。魔術的リアリズムとも呼ぶ。

魔法や超自然的な現象が現実世界や日常生活の一部として描かれるが、異世界ファンタジーとは異なるジャンルである。

代表的な例として、ガブリエル・ガルシア・マルケス、イサベル・アジェンデ、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスなどのラテンアメリカ文学が挙げられる。

インドという国は、近代のものと昔からの歴史あるものがぐちゃぐちゃになっている……

本来は混ざり合わないものが、めちゃくちゃに混ざり合っているという印象を受けました。


だからインド社会を描けば自然とマジックリアリズムになるのだと考えると、腑に落ちますね。

第3次印パ戦争の真っ最中、記憶を失い「犬男」となった主人公サリームが率いる「犬小隊」がジャングルに迷いこみ、耳が聞こえなくなるエピソードが、インド的マジックリアリズムで面白かったですね。
またしてもアユーバとシャヒードとファルークは、かつて彼らが、もう何世紀とも思えるほど前に「不穏分子」の名のもとに最愛の人の命を奪った家族たちの号泣に苦しめられた。犠牲者たちの怨嗟の声から逃れるために、彼らは夢中でジャングルの奥へと走っていった。夜、亡霊のような猿たちが木立のなかに集まり、「わが黄金のベンガル」の歌詞を口ずさんだ。「……おお祖国よ、わたしは貧しいが、あらん限りの力をあなたのもとに捧げる。それはわたしの心を悦びに狂わせる」終わりのない声の拷問から逃れることができず、恥辱の重荷にもうこれ以上一瞬たりとも耐えることができず、しかもその重荷がジャングルで学んだ責任感によってさらに増大したとあって、三人の少年兵士たちはとうとう絶望的な手段をとった。シャヒード・ダールは身をかがめて、雨水で重くなったジャングルの泥を両手いっぱいすくいあげた。そしてあの恐ろしい幻聴の苦しみを克服しようとして、熱帯雨林の不気味な泥を両の耳に詰め込んだ。するとシャヒードにならってアユーバ・バロッチとファルーク・ラシドも泥で耳栓をした。

(中略)

……夢幻の森の泥、そこには疑いもなくジャングルの透明な昆虫が隠れていたし、魔力を持った明るいオレンジ色の鳥の糞もまじっていて、三人の少年兵士の耳を毒し、彼らを完全な聾者にした。(下巻295-296頁)

ああ、サリームが戦場で友人たちのバラバラ死体と出会う場面(下巻311-312頁)が衝撃的でした。


最初は畑の「作物」という言葉を文字通りの意味で読んでいましたが、あれは戦死した兵士を指していたんですよね……

「小間物屋」を名乗る百姓は、兵士たちの遺体から金目の物を剥ぎ取りしていたのだと気づいて、ぞっとしました。

そこに生えている異様な作物は吐き気を催すような臭いがして、私たちは自転車に乗ったままではいられなくなった。倒れないうちに降りて、恐ろしい畑に入ってみた。屑拾いの百姓が一人動きまわっていた。ばかでかいずだ袋を背負って、働きながら口笛を吹いている。

(中略)

そして畑では、まだ銃が持てるほどに生きていた一本の作物が、またひどく静かになる。(下巻307-311)
そう、あの場面の畑の「作物」とは兵士たちの死体のことで、芥川龍之介の『羅生門』と同じです。
なぜメアリー・ペレイラは取り替え子をしたのか?

【ストーリー】

産院で助産師メアリー・ペレイラが赤ん坊の名札を取り替えた結果、裕福なシナイ夫妻のもとで育ったサリームはシナイ夫妻と親子の血縁がない。

帰国した裕福なイギリス人ウィリアム・メスワルドがサリームの血縁上の父であり、ウィー・ウィリー・ウィンキーの妻ヴァニタが血縁上の母である。

サリーム自身も血のつながらない子供を自分の息子として育てています。

このような人物設定は、社会における血縁を否定するという作者の意図が見てとれます。

なぜメアリー・ペレイラは取り替え子をしたのでしょうか?
貧乏人の家の子を金持ちの家の子にしたかったわけよね。
上流階級で育った主人公がスラム街で暮らす貧民に転落することを通じて、作者は経済格差や差別などのインド社会の矛盾を描こうとしたのでしょう。

過激な革命運動家ジョーゼフ・ドゥコスタのことをメアリーは愛していました。

革命とは、貧乏人と金持ちの立場を逆転させることですよね。


メアリーはドゥコスタへの愛を証明するために、彼女なりの革命として取り替え子をしたのだと思います。

彼女は一人になって――二人の赤ん坊を抱きかかえ――二つの生命の生殺与奪の権を握った時――ジョーゼフのためにそれをした、彼女として精いっぱいの私的な革命的行動を。こうすればきっと〈彼〉が愛してくれるだろうと考えて、二人の大きな赤ちゃんの名札をとりかえ、貧しい赤ちゃんには特権的人生を、金持に生まれついた方の子にはアコーディオンと貧乏の運命を定めた……「わたしを愛してくれるわね、ジョーゼフ!」と心のなかで言いながら、メアリー・ペレイラはそれをした。(上巻262頁)
ただし、メアリーは革命思想を信じきっておらず、あくまでも恋人のためにやったものなので、彼女自身は長年にわたり道理に反することだと後悔し続け、「ドゥコスタの幽霊」にさいなまれることになり、ついに罪を告白したのですね。
メアリーが罪を告白して、サリームが取り替え子だと判明しても、シナイ夫妻は本物の血縁の子を探そうとしないのはなぜなのでしょうか?

ああ、それは疑問だった!

これが韓国ドラマだったら、絶対に血縁の子を探すよ。

探さないと言うことは、インドは血縁が重要ではない社会ということか…… 
いや、祖父アーダム・アジズからサリームの息子まで連なる一族の歴史を物語っているので、家族というのはインド社会では重要なのではと思う。
なぜ作者は、31歳のサリームが書いた自伝、という設定にしたのか?
私は言った、「息子は理解してくれるだろう。ぼくは他の誰のためよりも、息子のために物語を語っているのだ。だからのちほど、ぼくが割れ目との闘いに敗れた時、息子は知るだろう。道徳も判断も人格も……すべては記憶と共に始まる……だからぼくは記録をとっているのだ」(上巻478頁)

31歳のサリームが息子アーダムのためにこの小説を書いて、恋人パドマに語り聞かせているという形式にしたことに、作者はどういう意図があったのでしょうか?

「千と一の」という形容詞をたびたび使っているので、『千夜一夜物語』をフレームワークとしているのだと思います。

『千夜一夜物語』と違って、物語の聞き役が王ではなくパドマになっていますね。

たしかに、物語に読者を引きこむ手法ではあると思いますね。

「記憶は真実だよ」(上巻478頁)という記述がある。

サリーム自身が真実だと記憶していることを書いている、という形式だと思う。

「記憶は真実だよ。記憶にはそれ本来の性質があるからね。記憶は選択し、削除し、変更し、誇張し、縮小し、称賛し、誹謗する。そして記憶は最後にそれ自体の現実を創造するに至る。多様な出来事の、異質ながら多くの場合一貫した解釈を。そして正気の人間なら誰でも他人の解釈を自分の解釈ほど信用しない」(上巻478頁)

『戦争と平和』のような時系列の大河ドラマとして書くと、本作のようにわざと歴史的事実を変えて書いたりできないし、虐殺などの実際にその事実があったかどうか議論が分かれる事件を取り上げることが難しいですよね。考証不足とやり玉にあげられる可能性もあります。


しかし、あくまでも主人公サリームにとっての真実の歴史という体裁をとると、作者が書きたいことを自由に書くことができるのかもしれません。

なるほど、作者が言い訳をあらかじめ読者に提示しているわけですね。


実際にインディラ・ガンディーの家族が本作を名誉棄損で訴えた裁判においても、作中のほんの一文を訂正するだけで示談となっています。

フィクションという体裁をとることは、結果的に作品を守ったのだと思います。

インディラ・ガンディーの政治を批判する文言に対して訂正や削除を求めないというのは、訴える側もフィクションという形式をよく理解していたわけですね。
それを訴えたら、逆に、本書が伝える内容こそが真実であると世間に知らしめるようなものです。
つづく

引用:

サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』(寺門泰彦訳、岩波文庫、上・下巻)より
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登場人物紹介

枳(からたち)さん


読書クラブの取りまとめ役。

今読んでいる本は、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』。

弓絃葉(ゆづるは)ちゃん


好きな本は『カラマーゾフの兄弟』、『やし酒飲み』、『密林の語り部』。

真弓(まゆみ)さん


韓国ドラマファン。

樒(しきみ)先生


昨年は9カ月間、大江健三郎の著作に熱中していた。

堅香子(かたかご)さん


『アンナ・カレーニナ』が好き。

栂(つが) くん


好きな作家は安部公房。『砂の女』と『壁』がおすすめ。

梧桐(あをぎり)さん

榊(さかき) さん


アジアンドキュメンタリーズのサブスク会員で、アジア各国の番組を見るのが好き。

山菅(やますげ) さん


BS12の東映任侠映画「日本侠客伝」シリーズを見るのが、毎週水曜日の楽しみ。

檜(ひのき) さん


好きな本は『カラマーゾフの兄弟』、三兄弟のなかではアリョーシャが推し。

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