1-5 不思議な少女
文字数 4,137文字
「えー、以上が研究棟の中では主なものであります」
事務的な言葉で案内係の男性が締めくくると、一団の中には微かに溜息を漏らす人もいた。そりゃそうだ、と蕾生 は思う。
副所長の講話から受ける壮大な印象のまま散策が始まったが、結果は期待外れのものだった。
分野ごとに分かれている研究棟を三棟ほど回ったが、どこもエントランスから先は通してもらえず、蕾生ですら期待していたバイオテクノロジー研究の植物だったり、複雑な名前の薬品を使った実験だったり、新生物研究のヒントだったり等の一般人でも心躍るような光景には全く出会えなかった。
パンフレットに沿ってただ研究所内をウロウロしただけで、せめて庭木や花でも植えてあれば季節柄目にも楽しいのだろうが、それすらも見かけることは叶わなかった。
全体ががっかりした面持ちでいると、いたたまれなくなったのか案内係の男性は少し明るい声で皆に話しかける。
「では、最後に私共の食堂で昼食を召し上がっていただきます。今日は職員の中で一番人気の高いメニューをご用意させていただきました。サラダバーには当研究所が監修しましたドレッシングの全種類をご用意しておりますので、ぜひお楽しみください」
「サラダかあ……」
少し盛り上がった周囲とは逆に蕾生が肩を落とす。それを見た永 は嗜めるような口調で言った。
「もう、ライくんもたまには野菜を食べないと。普段、肉と米ばっかりなんだから」
「家では食ってるよ。外食で野菜食べる意味がわからん」
「そんなんだからこーんなにでかくなるんだ?うらやましいわー」
ふざけて言う永の様子は普段通りだった。
講演会が終わって研究所の散策中も特に変わったことはなく、あの変な違和感も蕾生の中では薄れていった。
後は飯を食って帰るだけだ、とほっとする。こんな所はさっさと出て、いつもの日常に戻りたい。そう強く願っていた。
食堂に入ると、さすがに内部は普通だった。椅子もテーブルも簡素ではあるが、窓も研究棟に比べればかなり大きく、陽の光が充分に指している。
休憩に使う施設ならばこれくらいは最低は欲しい所だ。──病院の食堂の様な雰囲気だったとしても。
人気ナンバーワンと謳うだけあって、おかずは豪華だった。ハンバーグにクリームコロッケと唐揚げがつけ合わされている。それにご飯と味噌汁。サラダは各々好きに盛り、おかわり自由だと言うことだった。
「野菜がおかわり自由でもなあ……」
「文句言わないの。それからサラダを野菜って呼ぶのやめなさい」
蕾生がサラダを盛らないのは当然としても、永もサラダバーに向かう気配がないまま二人は席に着いた。
「永。サ、ラ、ダ、よそわねえの?」
わざとらしく言うと、永は小声で周りを気にしながら短く言った。
「ライくん、悪いんだけどできるだけ急いで食べて」
「は?」
「頼んだよ」
蕾生の返答も聞かずに、永は急いで箸を動かした。口に詰め込めるだけつめて、急いで飲みこむ。
蕾生にも目配せして促した。
「なんなんだ……」
首を捻りつつも、それきり永は何も言わず黙々と食べ進めるので、蕾生もそうするしかなかった。だが、焦ったため途中で割り箸を折ってしまった。
それでも元から早食いが得意な蕾生はすぐに永を追い越して、あっという間に食べ終わる。
永も最後の一口を口に運んで、味噌汁で流し込んだ。周りはまだ和気藹々と食事を楽しんでおり、サラダバーには人だかりが出来ていた。
「静かに立って、静かに運んで」
「……」
永の後について蕾生も皿の乗ったトレイを返却口に出し、そのまま入口に向かう。永は静かな足取りで、けれど迅速に歩き建物の外へ出た。
「どこに行くんだよ?解散の前に点呼とるから食堂にいてくれって──」
「シー」
口の前で人差し指を掲げて蕾生の言葉をさえぎった永は、小声かつ早口で言う。
「そう、ここからは時間との勝負」
「え?」
「こっち」
蕾生の疑問に答える暇もなく、永は研究所の歩道を早足で歩き出す。
周囲を警戒しつつ、通る人を見ると方向を変えて、誰にも見られないように歩き続けた。
碁盤の目のような道路が幸いしているのだろう、右に左に進路を変えながら二人は誰の目に留まることもなく進んでいった。
蕾生はついていくのが精一杯で方向感覚もよくわからなくなっていた。だが、永は進むべき方向を知っているかのように歩みに迷いがない。何かに導かれているようにも見えた。
急に白くて無機質な道路が終わる。先に続くのは舗装のしていない道路で、土が剥き出しだった。どう見ても部外者が入っていいような雰囲気ではない。
すぐに煉瓦作りの大きなプランターの列に突き当たった。中には成人男性ほどの背丈の木が植えてある。
その先に続く道の左右には頑丈な壁が左右に立っており、植木の上から辛うじて見えるのは、芝生の広場とその中央に立っている温室のようなガラス張りの建物。
あまりに違う景色に、蕾生は目を丸くして驚いた。
「ねえ、ライ。この鉢植えの一つ、動かせる?」
「え?」
鉢植えと一言で言っても、それは一メートル程の幅で、植木の大きさを合わせると六十キロ以上はありそうだ。普通の人間には引きずるのも難しいだろう。
だが、蕾生はこれを軽々と持ち上げることができる。この力は家族以外では永しか知らない。
「ちょっと動かしてよ」
「マジで言ってんの?」
それは蕾生にとっては忌々しい秘密で、幼少の時から並外れた怪力のせいで散々な目にあってきた。永だってその現場にはいくつかいたはずだ。
本当に隠しておきたい力で、永もそれはわかっているはずだし、今までに一度たりとも永は蕾生の力を頼ったことはない。ずっと隠し通す努力を一緒にしてきたのに。
それを。
今、ここで。
やれと言うのか。
「──お願いだ、ライ」
それまでに見たこともない真剣な表情だった。
見たことがない?
いや、ある。
記憶にはないのに、この眼差しに出会ったことがある。
「──わかった」
そうすればずっと拭えなかった違和感の正体がわかるだろう。永が初めて見せた表情の意味も。
もうあの日常には戻れないかもしれない、そんな不安はあった。
けれど永がそこに行くと言うのなら、自分は従うだけだ。それが蕾生には自然な感情だった。
教室の机を持ち上げるような感覚で、蕾生は自分の背丈くらいの植木をプランターごと持ち上げた。人が通れるくらいの隙間を作って、静かに地面に置く。
「ありがとう」
小さくそう言って、永は駆け出した。真っ直ぐに広場の中心、ガラス張りの建物を目指す。
「永!」
蕾生も後を追って走った。不思議な気配をその建物から感じていた。何か、懐かしいものがそこにあるような。
その温室の入口に着くと、永はためらいもせずにそのドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていなかった。滑らかに扉が開く。
中は沢山の植物であふれていた。どこを見ても、緑、緑、緑。多くの木々や植物が太陽の光を受けて青々と輝いている、生命にあふれた空間だった。
二人は少しずつ中へ進む。中央に大きな木が植えられていて、その下で一人の少女が小さなテーブルと椅子に腰掛けて、本を開きながら目を見開いてこちらを見ていた。
肩ほどまで伸びた黒い髪はつややかに光の輪を描き、とても簡素な白いワンピースを着ている。
「リン……、か?」
永の言葉に、蕾生は急に胸が痛くなった。初めて会うのに、その「リン」という言葉が頭の中で響く。
「ハル様、ですか?」
少女はおずおずと口を開く。永のことを知っている様子だった。大きな黒い瞳が永を真っ直ぐに見つめていた。
「そうだよ」
永が答えると、少女は次いでその後ろの蕾生に視線を移す。
「では、そこにいるのがライですね」
「……ああ」
永が頷くと、少女は目を伏せて安堵の溜息をついた。だが、すぐに冷ややかな視線を向けて言う。
「何故、来たのですか?」
「なぜって、お前がいないと始まらないだろう。いつもより若いみたいだけどどうしたんだ?」
何が始まらないって?
いつもより若いって、何?
二人の会話の筋が見えなくて、蕾生はただその場で棒立ちになっていた。
「ハル様、私はもう協力できません」
「──え?」
突き放すような口調で、少女ははっきりと言った。
「お帰りください。そしてここには二度と来ないように。私のことは忘れてください」
「な、に、言ってんの、お前?」
永は動揺して、その少女に一歩近づいた。
「近寄らないでください。人を呼びます」
「お前、どうしたんだよ!何があった?お前こそどうしてここにいる?」
詰め寄ろうとする永を制するように、少女は唇を噛み締めながらワンピースのポケットから取り出した防犯ブザーのようなものを鳴らした。
途端に温室の照明が赤く点滅し、けたたましいサイレンが鳴り響く。
「リン!」
戸惑う永から少女は目線を蕾生に移して、冷たく言う。
「ライ、彼を抱えて逃げなさい。捕まったら死にます。振り返らないで走りなさい」
とんでもないことを言われたが、少女の雰囲気からその言葉に嘘はなく、また従わざるを得ない迫力があった。
「永、一旦帰ろう」
「馬鹿言うな!せっかく会えたのに!」
こんなに狼狽している永は初めて見る。蕾生がその様子に戸惑っていると、少女が叫んだ。
「早く!走って!」
「──クソっ」
どんどん大きくなるサイレンの音に焦りを感じて、蕾生は永をむりやり肩に担いだ。
「離せ、ライ!リンが、リンが──ッ!」
とにかくここを離れないと危険だ。蕾生は喚く永を無視して温室の入口へと駆け出した。
出る直前に少女の顔をもう一度振り返る。そこには少し笑った、懐かしい表情が浮かべられていた。
「さよなら、少しでも平穏な人生を生きてください」
その言葉に胸がひどく痛くなる。けれどサイレンの轟音に負けて、蕾生は永を担いだまま脇目も振らずに走った。
白い道路が見えるまで、振り返らずに。
その少女の黒い瞳に浮かんでいたきらめく粒を、見なかったことにして。
蕾生は、逃げ出した。
事務的な言葉で案内係の男性が締めくくると、一団の中には微かに溜息を漏らす人もいた。そりゃそうだ、と
副所長の講話から受ける壮大な印象のまま散策が始まったが、結果は期待外れのものだった。
分野ごとに分かれている研究棟を三棟ほど回ったが、どこもエントランスから先は通してもらえず、蕾生ですら期待していたバイオテクノロジー研究の植物だったり、複雑な名前の薬品を使った実験だったり、新生物研究のヒントだったり等の一般人でも心躍るような光景には全く出会えなかった。
パンフレットに沿ってただ研究所内をウロウロしただけで、せめて庭木や花でも植えてあれば季節柄目にも楽しいのだろうが、それすらも見かけることは叶わなかった。
全体ががっかりした面持ちでいると、いたたまれなくなったのか案内係の男性は少し明るい声で皆に話しかける。
「では、最後に私共の食堂で昼食を召し上がっていただきます。今日は職員の中で一番人気の高いメニューをご用意させていただきました。サラダバーには当研究所が監修しましたドレッシングの全種類をご用意しておりますので、ぜひお楽しみください」
「サラダかあ……」
少し盛り上がった周囲とは逆に蕾生が肩を落とす。それを見た
「もう、ライくんもたまには野菜を食べないと。普段、肉と米ばっかりなんだから」
「家では食ってるよ。外食で野菜食べる意味がわからん」
「そんなんだからこーんなにでかくなるんだ?うらやましいわー」
ふざけて言う永の様子は普段通りだった。
講演会が終わって研究所の散策中も特に変わったことはなく、あの変な違和感も蕾生の中では薄れていった。
後は飯を食って帰るだけだ、とほっとする。こんな所はさっさと出て、いつもの日常に戻りたい。そう強く願っていた。
食堂に入ると、さすがに内部は普通だった。椅子もテーブルも簡素ではあるが、窓も研究棟に比べればかなり大きく、陽の光が充分に指している。
休憩に使う施設ならばこれくらいは最低は欲しい所だ。──病院の食堂の様な雰囲気だったとしても。
人気ナンバーワンと謳うだけあって、おかずは豪華だった。ハンバーグにクリームコロッケと唐揚げがつけ合わされている。それにご飯と味噌汁。サラダは各々好きに盛り、おかわり自由だと言うことだった。
「野菜がおかわり自由でもなあ……」
「文句言わないの。それからサラダを野菜って呼ぶのやめなさい」
蕾生がサラダを盛らないのは当然としても、永もサラダバーに向かう気配がないまま二人は席に着いた。
「永。サ、ラ、ダ、よそわねえの?」
わざとらしく言うと、永は小声で周りを気にしながら短く言った。
「ライくん、悪いんだけどできるだけ急いで食べて」
「は?」
「頼んだよ」
蕾生の返答も聞かずに、永は急いで箸を動かした。口に詰め込めるだけつめて、急いで飲みこむ。
蕾生にも目配せして促した。
「なんなんだ……」
首を捻りつつも、それきり永は何も言わず黙々と食べ進めるので、蕾生もそうするしかなかった。だが、焦ったため途中で割り箸を折ってしまった。
それでも元から早食いが得意な蕾生はすぐに永を追い越して、あっという間に食べ終わる。
永も最後の一口を口に運んで、味噌汁で流し込んだ。周りはまだ和気藹々と食事を楽しんでおり、サラダバーには人だかりが出来ていた。
「静かに立って、静かに運んで」
「……」
永の後について蕾生も皿の乗ったトレイを返却口に出し、そのまま入口に向かう。永は静かな足取りで、けれど迅速に歩き建物の外へ出た。
「どこに行くんだよ?解散の前に点呼とるから食堂にいてくれって──」
「シー」
口の前で人差し指を掲げて蕾生の言葉をさえぎった永は、小声かつ早口で言う。
「そう、ここからは時間との勝負」
「え?」
「こっち」
蕾生の疑問に答える暇もなく、永は研究所の歩道を早足で歩き出す。
周囲を警戒しつつ、通る人を見ると方向を変えて、誰にも見られないように歩き続けた。
碁盤の目のような道路が幸いしているのだろう、右に左に進路を変えながら二人は誰の目に留まることもなく進んでいった。
蕾生はついていくのが精一杯で方向感覚もよくわからなくなっていた。だが、永は進むべき方向を知っているかのように歩みに迷いがない。何かに導かれているようにも見えた。
急に白くて無機質な道路が終わる。先に続くのは舗装のしていない道路で、土が剥き出しだった。どう見ても部外者が入っていいような雰囲気ではない。
すぐに煉瓦作りの大きなプランターの列に突き当たった。中には成人男性ほどの背丈の木が植えてある。
その先に続く道の左右には頑丈な壁が左右に立っており、植木の上から辛うじて見えるのは、芝生の広場とその中央に立っている温室のようなガラス張りの建物。
あまりに違う景色に、蕾生は目を丸くして驚いた。
「ねえ、ライ。この鉢植えの一つ、動かせる?」
「え?」
鉢植えと一言で言っても、それは一メートル程の幅で、植木の大きさを合わせると六十キロ以上はありそうだ。普通の人間には引きずるのも難しいだろう。
だが、蕾生はこれを軽々と持ち上げることができる。この力は家族以外では永しか知らない。
「ちょっと動かしてよ」
「マジで言ってんの?」
それは蕾生にとっては忌々しい秘密で、幼少の時から並外れた怪力のせいで散々な目にあってきた。永だってその現場にはいくつかいたはずだ。
本当に隠しておきたい力で、永もそれはわかっているはずだし、今までに一度たりとも永は蕾生の力を頼ったことはない。ずっと隠し通す努力を一緒にしてきたのに。
それを。
今、ここで。
やれと言うのか。
「──お願いだ、ライ」
それまでに見たこともない真剣な表情だった。
見たことがない?
いや、ある。
記憶にはないのに、この眼差しに出会ったことがある。
「──わかった」
そうすればずっと拭えなかった違和感の正体がわかるだろう。永が初めて見せた表情の意味も。
もうあの日常には戻れないかもしれない、そんな不安はあった。
けれど永がそこに行くと言うのなら、自分は従うだけだ。それが蕾生には自然な感情だった。
教室の机を持ち上げるような感覚で、蕾生は自分の背丈くらいの植木をプランターごと持ち上げた。人が通れるくらいの隙間を作って、静かに地面に置く。
「ありがとう」
小さくそう言って、永は駆け出した。真っ直ぐに広場の中心、ガラス張りの建物を目指す。
「永!」
蕾生も後を追って走った。不思議な気配をその建物から感じていた。何か、懐かしいものがそこにあるような。
その温室の入口に着くと、永はためらいもせずにそのドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていなかった。滑らかに扉が開く。
中は沢山の植物であふれていた。どこを見ても、緑、緑、緑。多くの木々や植物が太陽の光を受けて青々と輝いている、生命にあふれた空間だった。
二人は少しずつ中へ進む。中央に大きな木が植えられていて、その下で一人の少女が小さなテーブルと椅子に腰掛けて、本を開きながら目を見開いてこちらを見ていた。
肩ほどまで伸びた黒い髪はつややかに光の輪を描き、とても簡素な白いワンピースを着ている。
「リン……、か?」
永の言葉に、蕾生は急に胸が痛くなった。初めて会うのに、その「リン」という言葉が頭の中で響く。
「ハル様、ですか?」
少女はおずおずと口を開く。永のことを知っている様子だった。大きな黒い瞳が永を真っ直ぐに見つめていた。
「そうだよ」
永が答えると、少女は次いでその後ろの蕾生に視線を移す。
「では、そこにいるのがライですね」
「……ああ」
永が頷くと、少女は目を伏せて安堵の溜息をついた。だが、すぐに冷ややかな視線を向けて言う。
「何故、来たのですか?」
「なぜって、お前がいないと始まらないだろう。いつもより若いみたいだけどどうしたんだ?」
何が始まらないって?
いつもより若いって、何?
二人の会話の筋が見えなくて、蕾生はただその場で棒立ちになっていた。
「ハル様、私はもう協力できません」
「──え?」
突き放すような口調で、少女ははっきりと言った。
「お帰りください。そしてここには二度と来ないように。私のことは忘れてください」
「な、に、言ってんの、お前?」
永は動揺して、その少女に一歩近づいた。
「近寄らないでください。人を呼びます」
「お前、どうしたんだよ!何があった?お前こそどうしてここにいる?」
詰め寄ろうとする永を制するように、少女は唇を噛み締めながらワンピースのポケットから取り出した防犯ブザーのようなものを鳴らした。
途端に温室の照明が赤く点滅し、けたたましいサイレンが鳴り響く。
「リン!」
戸惑う永から少女は目線を蕾生に移して、冷たく言う。
「ライ、彼を抱えて逃げなさい。捕まったら死にます。振り返らないで走りなさい」
とんでもないことを言われたが、少女の雰囲気からその言葉に嘘はなく、また従わざるを得ない迫力があった。
「永、一旦帰ろう」
「馬鹿言うな!せっかく会えたのに!」
こんなに狼狽している永は初めて見る。蕾生がその様子に戸惑っていると、少女が叫んだ。
「早く!走って!」
「──クソっ」
どんどん大きくなるサイレンの音に焦りを感じて、蕾生は永をむりやり肩に担いだ。
「離せ、ライ!リンが、リンが──ッ!」
とにかくここを離れないと危険だ。蕾生は喚く永を無視して温室の入口へと駆け出した。
出る直前に少女の顔をもう一度振り返る。そこには少し笑った、懐かしい表情が浮かべられていた。
「さよなら、少しでも平穏な人生を生きてください」
その言葉に胸がひどく痛くなる。けれどサイレンの轟音に負けて、蕾生は永を担いだまま脇目も振らずに走った。
白い道路が見えるまで、振り返らずに。
その少女の黒い瞳に浮かんでいたきらめく粒を、見なかったことにして。
蕾生は、逃げ出した。