1-6 九百年
文字数 3,374文字
いつの間にか踏みしめるものが土からアスファルトに変わったと知覚した時、耳をつん裂くようなサイレンがとっくに止まっていることを知った。
「ライくん……もういい。おろして」
永の声はとてもか細く沈んでいたが、語尾が元に戻っていたので蕾生は抱えていた体をその場でおろした。
自分達の周りを見回したが構内は静まり返っており、追ってくる者なども見えなかった。
「どうなってるんだ……?」
あんなにけたたましく鳴っていたサイレンがまさか誰にも気づかれていないとは思えなくて、蕾生は首を傾げる。
「きっとリンがうまくやってくれたんだろう」
「永、あの子は一体──」
問いかけようとして永の方を見ると、その表情は暗く、怒りさえ携えているようで、蕾生の知る永とは異様な空気感をまとっていた。
その雰囲気に飲まれ、二の句が出てこない蕾生に緩く微笑みかけて永は静かに言った。
「ごめん、驚いたよね」
「……」
蕾生の心持ちは複雑だった。とても驚いたし、戸惑いもしている。
けれどあの少女の存在は何故かすんなりと受け入れているような気がしていて、その理由がわからない自分に納得できない変な感覚だった。
「とにかく今は食堂に戻ろう?後でちゃんと説明はするから」
「……わかった」
落ち着きを取り戻した永について食堂まで戻ると、中では何事もなかったように他の客達は談笑していて、職員数人もその場にいたが戻ってきた永と蕾生を特に気に留める素振りもなかった。
「あれだけの騒ぎに何も対処してこないなんてことがあるのか……?」
蕾生の呟きに、永は小声で短く返す。
「つまり、ここはそういうところってことだよ」
その言葉は軽蔑を孕んでおり、この研究所に対して永が抱いていたのは実は逆だったのだと蕾生は思い知る。
永はたまにそういう一面を見せる。興味のある振りをして近づいて目的を達成した後、その対象をボロクソに言う。
今回もその例だったのだ。それにしては随分と長いこと騙されていた気がするが。
永がこの研究所を良く思っていないことがわかると、途端にあの職員達の意思を持たないような非人間的な態度が気持ち悪く感じる。蕾生には白衣を着た人形のように見えてきた。
「とりあえず、今はここを無事に出られるように祈ろう」
永はそう言うと、ほかの客達と同様に食堂テーブルの席に着く。蕾生もそれにならって大人しく座った。
暫くして、黙って立っていた職員の一人が全員に聞こえるように少し大きな声で話しかけた。
「皆さまお疲れ様でした。当研究所の一般公開プログラムはこれで終了いたします。入館証をこちらにご返却のうえ、出口までどうぞ」
案内に従って客達が動き始める。永と蕾生もその列に紛れてなるべく気配を押し殺して動いた。
職員達は拍子抜けするくらい機械的に人々を出口まで促していく。二人も来た時と同じ、無事に通用口の扉から出ることができた。
職員達は人々を送ることはしたが、その口から御礼や好意を感じられる言葉はついに無く、ただ黙って人々が研究所から遠ざかるのを見守っている。
その眼差しがとても気味が悪く、蕾生は自然と足が早くなった。
「なあ、永」
蕾生の気持ちを察して永はにこりと笑って言った。
「うん。とりあえず公園まで戻ろう」
まだ昼過ぎの陽も高い時刻。研究所から遠ざかる程に公園で休日を楽しんでいる人の声が大きくなってきて、安心を求める蕾生の足取りはいっそう早くなった。
公立の森林公園は、マラソンコースが複数あり、ドッグランも併設されている、ちょっとした行楽地として地元民に親しまれている。
今日は連休なのでバーベキューをしている家族連れもいた。大人は食べて飲んで、子どもはバドミントンなどで遊ぶ、そんな典型的な休日の風景が二人の目の前に広がっている。
先程までいた環境とまるで違う景色だ、と蕾生は改めて思う。こうしてベンチに座っているだけでも人々の息遣いを感じられてなんだか安心する。
隣に座っている永はまだ何も話さない。じっと何かを考えこんでいるようなので、その口からこれから語られることはきっととんでもないことなのだろう、と蕾生は少し緊張してきた。
「なんかさ、お腹空かない?」
「へ?」
予想に反して永の口からは暢気な言葉が出て、蕾生は変な声が出てしまった。
「そうかな、……そうかも?」
研究所の食堂で食べてからそんなに時間は経っていないが、急いで食べたからかあまり食事をしたという認識がないことに気づく。
「待ってて、そこでたこ焼き買ってくる」
永は笑いながら数メートル先の広場に向かって歩いていった。そこでは屋台がいくつか出ており、なかなかの賑わいを見せている。
「はい、今日付き合ってくれた御礼ね」
「あ、ああ」
永はたこ焼きを二パックとお茶のペットボトル二本を持って帰ってきた。渡されたたこ焼きは熱々でソースのいい匂いがしていた。
「高かったろ」
「ハハ、まあね。連休価格。でもいいじゃん」
笑いながら永は自分の分のパックを開け、たこ焼きをひとつ楊枝で刺してそのまま口に運ぶ。
「んー、うまい。やっぱさあ、与えられる食事よりも自分で調達してきたものの方が美味しいね」
「お前、それ母ちゃんには言うなよ?」
「やだなあ、お母さんのご飯は別!それ言っちゃうとたこ焼き買ったのだってお小遣いだしね!」
気分的なものでしょ、と永は笑うので蕾生も今はたこ焼きを食べることに専念することにした。青空の下で友達と買い食いするより美味しいものはないと思いながら。
熱いたこ焼きをじっくり味わって食べ、ようやく一息ついた心地になった頃、永が意を決したように口を開いた。
「ライくん、これから話すこと──驚くなって方が無理だと思うけど、出来るだけ落ち着いて聞いてくれる?」
「……わかった」
「途中でなんか変な感じがするとか、具合が悪くなったら絶対言って」
「あ、ああ……?」
蕾生の体の頑丈さは充分知っているはずなのに、今日は朝から随分体調を気にするなと思ったが、そう言う永の顔がとても真剣で少し怯えているようなので、蕾生は大きく頷いた。
「ええっと、どこから話そうかな……」
「あの子は一体誰なんだよ?」
それでも永は言葉を濁すので、蕾生はまず研究所で会った少女について問う。
「そうだね、まずはそこからだ。彼女はリン、今の名前は知らない」
「今の名前?どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ、僕はまだあの子の今回の生については何も知らない。けど、リンはずっと前から僕たちの仲間なんだ」
開始早々から蕾生の頭の中は疑問符だらけになっている。ようやく返せたのはたった一言だった。
「ずっと、って?」
「うーんと、九百年……くらい?」
「は?」
「僕ら三人は、ずーっと昔から何度も転生を繰り返してる仲間なんだ」
「ええー……?」
漫画の話かな、と現実逃避したくなる思考を蕾生はなんとか押し込める。永の顔は冗談を言っているものではなかったから。
「よく知らんけど、それって仏教とかの考えだろ。それで言うと、人間は皆生まれ変わってるってことじゃねえの?」
「ああ、うん、まあそうだね。だけど僕らの場合はその転生の回数が尋常じゃない」
「ええー……?」
嘘だあ、と言いそうになったのを蕾生は飲み込んだ。永の顔はどんどん深刻さを増している。
「僕が知覚できてるだけでも、僕らが転生したのは約九百年間で三十四回」
「ちょ、っと待てよ。人の一生って昔でも五十年くらいはあるだろ。九百年で三十回以上ってことは単純に割っても……」
「そうだよ、ライ。冷静で嬉しいよ」
永は少し安心したような表情になって、蕾生の疑問にきっぱりと答える。
「僕らは若く死んで、すぐ生まれ変わる。そういう運命をずっと繰り返してる」
「──何故?」
「鵺に呪われているから」
ヌエ
ぬえ?
──鵺
初めて聞くはずの単語なのに、蕾生はその言葉の意味を知っていた。
何か、黒い、闇の中からやってくる、化物。奇妙な声。その獣を確かに知っている。
辺りが急に曇り始めた。冷たい風が吹く。それに煽られて羽ばたく鳥の、哀しい声が響いていた。