第21話 空

文字数 2,310文字

 その日の五時少し過ぎに、国松先生が家に訪ねてこられた。

 わたしは制服姿で、先生を玄関に出迎えた。父も書斎から出てきた。

 先生は、父とふたりだけで話したいと(おっしゃ)った。父は先生を書斎に案内し、(ふすま)を閉めてしまった。お茶の準備はしていたが、わたしが入っていっていいのかわからず、台所と書斎に通じる廊下の間を、わたしは行ったり来たりして時を過ごした。

 三十分ほどで、先生は父の書斎から出てきた。

――私は佐伯先生の愛読者なんだよ。お会いできて光栄だった。

 廊下に立っているわたしを見ると、先生は笑顔でそう言ったが、もちろんわたしは、そんな話を信じることはできなかった。

 先生がわざわざ家庭訪問までしたのは、倭文子さんの件について話すために決まっているが、書斎の襖はぴったり閉まったままだったし、先生と父の話し声は低すぎて、二人がいったい何を話していたのか、わたしには知りようがなかった。

 玄関で、帽子掛けにかけておいた先生の帽子と靴箆(くつべら)を一緒にお渡しすると、先生は礼を言って受け取りながらさりげなく、でも念を押すようにこう言った。

――倭文子君のことで何か思い出したら、どんなことでもいいから先生に話しなさい。学校でも言ったが、私は文枝君の味方だ。それを忘れないように。

――はい。先生、ありがとうございます。

 先生はまた、わたしの肩の上に軽く手を置いた。

 生徒たちの間では、国松先生は女の人のように細く長い指をしていると評判だったが、それはやはり、男の手だった。

 先生は帽子を被ると、引き戸を開けて出ていかれた。わたしも一緒に(おもて)に出て、先生をお見送りしてから家の中に戻った。玄関の戸も閉め切らないうちに、書斎から鋭い声で、父がわたしを呼んだ。

 急いで書斎へ入っていくと、父は苦虫を嚙み潰したような顔で腕組みをしていた。

――ここに座れ。

 畳の上に正座した途端、目から火花の散るほど激しく頬を打たれた。

――エスだか何だか知らんが、浮わついたことをするのは許さん! 俺に迷惑をかけるな。

 もっと(なぐ)ればいい、とわたしは思った。わたしはむしろ、罰の鞭をこの身に受けたかった。

 でも、それだけだった。昭和八年二月十一日と十二日。この二日間、どこで何をしていたかについて、父がわたしを問い質すことはなかった。

 ※※※※※

 いつまでも遺体が見つからないため、倭文子さんは未だに失踪扱いになっている。

 二月十一日と、十二日。

 わたしがこの二日間、倭文子さんと行動を共にしていたらしいという噂は、瞬く間に学校中に広がった。

 級友たちは陰で、わたしのことを〝死神〟と呼ぶようになった。坂田山心中事件の影響を受けて心中しようとしたものの、直前になってわたしだけ逃げ出したのだと、まことしやかに言う人もいた。そうした陰口は時折、わたしの耳にも入ってきたが、わたしは何の反論も自己弁護もしなかった。代わりに固く固く、自分の殻の中に閉じこもった。

 和子さんは女王のきまぐれのように、そんなわたしの殻を押し破って入ってきた。わたしは驚くと同時に(いぶか)しんだ。わたしは和子さんという華やかな光源に振り回される蛾のように、ここ数か月を過ごしてきたと言える。

 でも昨日、長谷の貸家で差し向かいになった時、わたしはようやく理解した。和子さんもまた、倭文子さんの死に囚われ続けている人なのだということを。

「和子さん、わたしと一緒に三原山に行く度胸はおありになる? それなら全てを話してさしあげてよ」

 自分がそう言ったところまでは覚えているのだが、その後の記憶がぷっつりと途切れている。そして気がついたら三原山の火口原に立っていて、和子さんがわたしの腕を摑んで泣いていたのだった。

――そうだ、そうだった……。

 倭文子さんは、もうこの世にいないのだ。

 急に全身の力が抜けた。へたへたと膝を突いた時、わたしは温かいものに包まれた。和子さんが同じ姿勢になって、わたしを抱きとめてくれたのだ。びょうびょうと泣きながら、和子さんがわたしの身体を揺すった。火山岩に(こす)られて、わたしの膝や(すね)が痛んだ。

――わたしは、生きている。

 そう思った。足の痛みが、わたしに自分の生きていることを実感させた。倭文子さんが死んで世界は一変してしまったが、わたしが今朝死ななかったことによっても、世界はまたほんの少しだけ変わるのだろうか。

 わたしはなぜ再び、三原山に来たのだろう。倭文子さんがわたしを呼んだのか、それともわたしの中の、何かしら無意識の発露だったのか。

 わからない。でも二度目にここに来て、ひとつだけ、確信したことがある。

 倭文子さんがあんな死に方を選んだのは、(けが)された痛みのせいでも、不幸な境遇の悲しみのゆえでもなかった。倭文子さんを突き動かしていたのは、ただただ怒りだった。地をどよもすほどの激しい、(おお)きな怒り。それは、あのような方法を採るよりほかに鎮める(すべ)を持たぬものだったのだ。

 我知らず、わたしは和子さんの身体を抱き返していた。和子さん、和子さん。その名を確かめるように呼びながら、わたしは声を放って泣いた。涙が後から後から溢れてきた。和子さんも、文枝さんの莫迦(ばか)、大莫迦のこんこんちきと言いながら泣いた。

 その時ようやく、地の果てから朝日が流れこんできた。

 長くまっすぐに刺し貫いてくる光の槍。その穂先が触れたところから、霧は見る見る薄れ、溶けるように消えていく……。

 その時、遠くで「おーい、おーい」と叫ぶ声がした。御神火番らしい男がこちらへ向かって走ってくるのが、影絵のようにぼんやりと眺められた。

 それでも一旦(せき)を切った涙は、わたしの身体が空っぽになるまで流れ続けるしかないようだった。
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