第2話 緑
文字数 2,877文字
「佐伯さん。アイスクリーム、溶けちゃうわよ」
あ、とわたしは慌てて、蔦の模様のあしらわれた、細長い銀のスプーンをグラスに入れた。和子さんの言った通り、わたしのアイスは溶けかけていた。スプーンが触れるとバニラのアイスはもろく崩れ、ソーダ水を汚した。
銀座の資生堂の二階で、わたしたちはアイスクリームソーダを飲んでいた。
放課時間になるやいなや、和子さんはわたしの腕を引っ張るようにして校門を出た。杠 家の自家用車の後部座席に、先にわたしを押しこむようにすると、続いてご自分も乗りこみ、銀座へ向かうよう運転手に命じたのだ。
黒光りする杠家の自家用車――クライスラーは、まるで空想科学小説に出てくるような美しい形をしていた。銀座を歩いていると、今の日本で一番新しい街を歩いているような気分になるのだが、クライスラーの窓からその街並みを眺めていると、まるで自分が未来からやってきた人のように思われてくるのだった。そこでふと、
「さっき思ったのだけれど、杠さんのお宅のお車って、まるで未来からやってきた乗り物みたいね」
口にしてしまった後で、小学生みたいな感想だと自分でおかしくなった。ところが、
「面白いこと仰 るのね。さすが〝緑 の室 〟だわ」
と、真面目な顔をして和子さんが褒めてくれたので、逆にわたしは面食らってしまった。
わたしは、〝梓 ゆみ〟という筆名で、雑誌『少女の友』の読者文芸欄に、何度か作文を掲載されていた。『少女の友』では常連投稿者の中から毎月ひとりを選んで表彰し、記念の銀時計を贈呈する決まりで、その記念時計の受賞者は〝緑の室〟と呼ばれる特別な頁 に投稿する資格を得るのだった。
去年の『少女の友』三月号の〝緑の室〟の冒頭に、記念時計受賞者として、〝東京 梓ゆみ(本名 佐伯文枝)〟と印刷されているのを見た時には、雑誌を持っている手がわなわなと震えたものだ。
投稿者はたいてい筆名を使うので、受賞者発表の記事を読んで初めて本名がわかる場合が多い。だから、我こそはと思っている読者は、先ず『少女の友』の読者文芸欄から読むと言われていた。でも、あまり小説とかに興味のなさそうな和子さんまで〝緑の室〟のことを知っているとは、少し意外な気がした。
「ねえ、佐伯さんではなく文枝 さんとお呼びしてもかまわなくって? わたしのことも和子でいいの」
わたしが曖昧に頷くと、和子さんは莞爾 と笑った。なんだかすっかり手玉に取られている感じがした。
和子さんはスプーンで、アイスの山をせわしなくつつきながら、途切れなく話し続けた。この間帝劇で見た、亜米利加 映画の『妾 の弱点』の話。三越百貨店の化粧品の話。わたしは適当にあいづちを打っていたが、内容はほとんど聞いていなかった。わたしは、銀座通りの方から差しこむ午後の光を見ていた。いつだったか、こんな色の光を見たことがあるような気がした。自分の家の庭かどこかで、幼いわたしは確かにこれと同じ色の光を見たことがある。根拠も何もないのに、そう信じた。
「文枝さん、あなた、いつもそのブローチしているのね。それ、ヒナゲシでしょう」
ふと我に返ると、和子さんがじっとわたしの胸元を見ていた。
「ええ」
セーラー服の三角タイを、ブローチで留めるのが流行っていた。和子さんなどはほとんど日替わりのようにブローチを変えているらしかった。注意して見ていたわけではないが、よく取り巻きの人たちが、和子さんのブローチを褒めている言葉は耳に入っていた。
「ヒナゲシの花言葉ってご存知?」和子さんが言った。
「〝思いやり〟とか、〝いたわり〟でしょう」
と答えた時、わたしは鋭い痛みを覚えた。
それらの花言葉は、倭文子 さんにこそ似つかわしい言葉だった。わたしはいつも年下の倭文子さんから、そういう美しいものを惜しみなく分け与えられていた。倭文子さんは、きっとやさしすぎたのだろうと思う。悲しみや痛みだって、もっと人と分け合えばよかったのだ。代わりに倭文子さんは、すべてを深く深く自分の裡 に抱えこんでいってしまった。
「その二つだけではないわ。もう一つあってよ」
悪戯っぽく笑う和子さんを見て、わたしは首を傾げた。
「ヒナゲシの、もう一つの花言葉? 何かしら」
「恋の予感よ」
わたしは無意識に、胸元のブローチを握りしめていた。
※※※※※
――ニチニチソウですね。
倭文子さんは、嬉しそうに目を細めてくれた。花が二つ重なった形で、色はやはり白だが、花びらの真ん中がぽつんと赤い。
――ニチニチソウの花言葉は……
――〝楽しい思い出〟!
わたしが言うよりはやく、倭文子さんが答えてしまった。ふたりで顔を見合わせ、それから笑った。倭文子さんと一緒にいさえすれば、すべてが楽しい思い出になるのだと、その時のわたしは思っていた。
倭文子さんと初めて銀ブラをした時、記念に花のブローチを買って、互いに贈り合うことにしたのだ。わたしが倭文子さんにニチニチソウのブローチを、倭文子さんはわたしにヒナゲシのブローチを、それぞれ贈った。
――素敵。
そっと掌 の上に載せて、わたしは金属の花を眺めた。一輪の白いヒナゲシ。真ん中がやさしい黄色で、雄蕊や雌蕊まで精緻に描かれていた。
――ヒナゲシの花言葉は、あなた自身を表しているようね。
わたしは言った。倭文子さんは、ただ黙って微笑んでいた。
わたしは倭文子さんという人を、中原淳一が描く少女の絵のように眺め、ふたりの関係を吉屋信子が描くエス小説のように捉えていた。エスというのは〝SISTER〟の頭文字だと言われるが、わたしたちがしていたのは結局、ちょっと秘密めかした〝姉妹ごっこ〟にすぎなかったのだと今は思う。
わたしは現実の倭文子さんについて、ほとんど何も知ってはいなかった。倭文子さんがヒナギクのブローチを選んでくれた意味すら、わたしはわかっていなかったのかもしれない。
※※※※※
和子さんはまた亜米利加や仏蘭西 の俳優の話などを始めた。わたしはもう一度、ちらりと視線を窓の方へ動かした。
そこにあるのは、もう最前のような澄んだ色ではなかった。夕方に近づくと、陽は赤みを帯びて一見華やかさを増すようだが、よく見ればもう暮色が滲みだし、汚れている。わたしのグラスのソーダ水のように汚れている。
「いけない、文枝さん。わたし、肝心なことお話しするの忘れていたわ」
和子さんの声の調子が変わった。わたしは、ふっと身構えた。
女王である和子さんが、級 の村八分のわたしなんかと本気で友だちになろうとするはずはなく、考えられるのは、二か月半前――昭和八年二月十二日に起こったあの出来事しかなかった。さっきわたしが、銀座通りの光を透して自分の記憶を覗いていたように、和子さんもわたしの身体の向こうに、倭文子さんの影を見ていたのだろう。
「来週、うちでパーティーをするの。文枝さんも来てくださるでしょう?」
意外すぎる言葉に、とっさに、何と返事すればよいかわからなかった。指に挟んでいたスプーンが、振り子みたいに揺れてお皿に触れた。ちょっと耳障 りな音がした。
あ、とわたしは慌てて、蔦の模様のあしらわれた、細長い銀のスプーンをグラスに入れた。和子さんの言った通り、わたしのアイスは溶けかけていた。スプーンが触れるとバニラのアイスはもろく崩れ、ソーダ水を汚した。
銀座の資生堂の二階で、わたしたちはアイスクリームソーダを飲んでいた。
放課時間になるやいなや、和子さんはわたしの腕を引っ張るようにして校門を出た。
黒光りする杠家の自家用車――クライスラーは、まるで空想科学小説に出てくるような美しい形をしていた。銀座を歩いていると、今の日本で一番新しい街を歩いているような気分になるのだが、クライスラーの窓からその街並みを眺めていると、まるで自分が未来からやってきた人のように思われてくるのだった。そこでふと、
「さっき思ったのだけれど、杠さんのお宅のお車って、まるで未来からやってきた乗り物みたいね」
口にしてしまった後で、小学生みたいな感想だと自分でおかしくなった。ところが、
「面白いこと
と、真面目な顔をして和子さんが褒めてくれたので、逆にわたしは面食らってしまった。
わたしは、〝
去年の『少女の友』三月号の〝緑の室〟の冒頭に、記念時計受賞者として、〝東京 梓ゆみ(本名 佐伯文枝)〟と印刷されているのを見た時には、雑誌を持っている手がわなわなと震えたものだ。
投稿者はたいてい筆名を使うので、受賞者発表の記事を読んで初めて本名がわかる場合が多い。だから、我こそはと思っている読者は、先ず『少女の友』の読者文芸欄から読むと言われていた。でも、あまり小説とかに興味のなさそうな和子さんまで〝緑の室〟のことを知っているとは、少し意外な気がした。
「ねえ、佐伯さんではなく
わたしが曖昧に頷くと、和子さんは
和子さんはスプーンで、アイスの山をせわしなくつつきながら、途切れなく話し続けた。この間帝劇で見た、
「文枝さん、あなた、いつもそのブローチしているのね。それ、ヒナゲシでしょう」
ふと我に返ると、和子さんがじっとわたしの胸元を見ていた。
「ええ」
セーラー服の三角タイを、ブローチで留めるのが流行っていた。和子さんなどはほとんど日替わりのようにブローチを変えているらしかった。注意して見ていたわけではないが、よく取り巻きの人たちが、和子さんのブローチを褒めている言葉は耳に入っていた。
「ヒナゲシの花言葉ってご存知?」和子さんが言った。
「〝思いやり〟とか、〝いたわり〟でしょう」
と答えた時、わたしは鋭い痛みを覚えた。
それらの花言葉は、
「その二つだけではないわ。もう一つあってよ」
悪戯っぽく笑う和子さんを見て、わたしは首を傾げた。
「ヒナゲシの、もう一つの花言葉? 何かしら」
「恋の予感よ」
わたしは無意識に、胸元のブローチを握りしめていた。
※※※※※
――ニチニチソウですね。
倭文子さんは、嬉しそうに目を細めてくれた。花が二つ重なった形で、色はやはり白だが、花びらの真ん中がぽつんと赤い。
――ニチニチソウの花言葉は……
――〝楽しい思い出〟!
わたしが言うよりはやく、倭文子さんが答えてしまった。ふたりで顔を見合わせ、それから笑った。倭文子さんと一緒にいさえすれば、すべてが楽しい思い出になるのだと、その時のわたしは思っていた。
倭文子さんと初めて銀ブラをした時、記念に花のブローチを買って、互いに贈り合うことにしたのだ。わたしが倭文子さんにニチニチソウのブローチを、倭文子さんはわたしにヒナゲシのブローチを、それぞれ贈った。
――素敵。
そっと
――ヒナゲシの花言葉は、あなた自身を表しているようね。
わたしは言った。倭文子さんは、ただ黙って微笑んでいた。
わたしは倭文子さんという人を、中原淳一が描く少女の絵のように眺め、ふたりの関係を吉屋信子が描くエス小説のように捉えていた。エスというのは〝SISTER〟の頭文字だと言われるが、わたしたちがしていたのは結局、ちょっと秘密めかした〝姉妹ごっこ〟にすぎなかったのだと今は思う。
わたしは現実の倭文子さんについて、ほとんど何も知ってはいなかった。倭文子さんがヒナギクのブローチを選んでくれた意味すら、わたしはわかっていなかったのかもしれない。
※※※※※
和子さんはまた亜米利加や
そこにあるのは、もう最前のような澄んだ色ではなかった。夕方に近づくと、陽は赤みを帯びて一見華やかさを増すようだが、よく見ればもう暮色が滲みだし、汚れている。わたしのグラスのソーダ水のように汚れている。
「いけない、文枝さん。わたし、肝心なことお話しするの忘れていたわ」
和子さんの声の調子が変わった。わたしは、ふっと身構えた。
女王である和子さんが、
「来週、うちでパーティーをするの。文枝さんも来てくださるでしょう?」
意外すぎる言葉に、とっさに、何と返事すればよいかわからなかった。指に挟んでいたスプーンが、振り子みたいに揺れてお皿に触れた。ちょっと耳