第5話  雨

文字数 2,869文字

 梅雨の入りから、律儀(りちぎ)に毎日雨が降っている。

 まるで月のものが来る前のようなうっとうしさが、教室の中に()ちていた。同じ年頃の少女たちが、こうして何十人も狭い(はこ)に閉じこめられている異様さを、今更のように感じた。

 お弁当の時間だったが、わたしは級友たちの発散する生臭さに耐えられなくなって、お弁当を持って教室を出た。

 廊下を歩いて行く。ふだんは意識したこともないのに、自分の足音がいやに耳についた。その音まで、どこか湿っている。

 食欲がちっともないので、わたしは廊下の窓から、制服に(ほこり)を付けないように注意しながら運動場を眺めた。いつもなら、勇猛果敢にフートボールを追いかけて走り回っている人たちがいたりするのだが、今日は誰もいない。そのままぼんやり雨と埃の入り混じった匂いをかいでいたら、いきなり肩を叩かれた。わたしは文字通り跳びあがった。

「あら、びっくりした」
 人を驚かせておいて、和子さんは自分が目を丸くしていた。
「それはこっちの台詞(せりふ)だわ。悪い人ね」
「気づかなかったでしょう。わたし、忍者みたいに足音を忍ばせてきたの」
 和子さんは得意げに小鼻をうごめかす。
「意地悪。おかげで、まだ心臓がどきどきしてるわ」
「ほんとう?」
 和子さんの手が伸びて、わたしの胸に触れた。あんまり自然な動作だったから、その手をふり払うまでに呼吸二つほどの間が開いてしまった。
「何するの」
「そんな顔なさらないでよ。女同士なんだもの、こんなことなんでもないわ」
「変態よ。いきなり胸に触るなんて」
「まあ、失礼しちゃう」
 和子さんは腰に手を当てて、ぷっとふくれた。
「失礼しちゃうも、こっちの台詞。和子さん、あなたさっきから、わたしの台詞を取ってばかりいることよ」
「わかった、わかったわ。わたしが悪うござんしたから、もうご機嫌直して」
 和子さんが、大袈裟に頭を下げてみせた。前下がりにシャープに切り揃えられた横髪が、きれいな顎の線をなぞるように流れた。

 最近、和子さんは背中に届く長さだった髪をざっくり切った。元々下級生の憧れの的だった人だが、この髪のおかげで心酔者が一気に増えた。

 和子さんが絹の靴下に包まれたすらりとした足で廊下を闊歩(かっぽ)していると、擦れ違う下級生がはっと息を止め、胸の前で指を握り合わせるようにして、うやうやしくその後ろ姿を見送るのだった。ここは基督教女学校(ミッション・スクール)だが、神聖なものに対する敬虔(けいけん)な眼差しは、礼拝堂ではなく、彼女たちが和子さんに向ける(ひとみ)のうちにあるようだった。

 わたしはわざとそっぽを向いていたのだが、視界の端に映っている和子さんがなかなか頭を上げないので、ちらっと視線を向けると、待ち構えていたように和子さんは舌を出した。

「もう」
 わたしはつい吹き出してしまった。この人に対して、怒ったふりをし続けるのは難しい。
「ねえ。放課後、付き合ってよ」
 和子さんが手を後ろで組んで言う。
「また銀座?」
「ううん。こんな日は、ちょっと遠出したいわ」
「遠出って……」
「いいところ」
「嫌だわ。人さらいが子供をだますみたいなこと言って」
「場所は教えてあげないの。だって、せっかく一緒にお弁当を食べようと思ったのに、ひとりですたすた教室を出て行ってしまうんだもの。そうだ、向こうに着くまで目隠しでもしてもらおうかしら。罰よ」

 今謝っていたカラスがもう笑って、〝罰〟などと言い出す。さすが(クラス)の女王の風格か、そんな高飛車(たかびしゃ)な物言いが妙に(さま)になっていた。罰。その言葉が雨だれのように、わたしの耳を打った。わたしは、どこかで自分に罰を与えてくれる人を求めているのかもしれなかった。

 ※※※※※

 驚いたことに、和子さんはクライスラーの後部座席にわたしと並んで座ると、鞄から取り出した絹の手巾(ハンカチ)で、本当にわたしに目隠しをしたのだった。

 和子さんは、きっとわたしのことを珍しい玩具(オモチャ)だと思っているのだろう。級友(クラスメート)たちから〝死神〟と呼ばれているわたしにちょっと興味を引かれ、新しい玩具を買い与えられた子供のようにはしゃいでいるのだ。

 でも、子供というのはすぐ飽きるものだと、わたしは大人しく目隠しをされながら思った。いちいち抵抗を示したりしても意味がない気がしたし、何より面倒だった。

 もっとも、女王が()でるお人形としてなら、わたしより倭文子さんの方がずっとふさわしかったに違いない。

 和子さんも去年の四月、新入生だった倭文子さんにお手紙を渡していたという噂があった。そのことを、わたしはうかつにも後になって知ったのだが、もし先に知っていれば、倭文子さんにあんなふうに話しかける勇気はとても出なかったろう。

 倭文子さんは和子さんでなく、わたしを選んでくれた。そのことが、今でも奇蹟(きせき)のように感じられる。その幸福を味わった罪で、和子さんが罰を与えようとするなら、わたしはそれを甘んじて受けようと思った。

 車が揺れる度に、和子さんの髪がわたしの髪に触れた。髪に神経は通っていないはずなのに、どうして触れたとわかるのだろう。目隠しされた闇の中で、わたしはふと、そんな妙なことを考えた。髪の僅かな振動が地肌に伝わっているのだろうが、まるで自分の髪の先が触覚となって、和子さんの髪を直接感じているような錯覚に捉われるのだった。暗い土の中で草の根が互いに絡みあうように、ふたりの髪がもつれていく。和子さんの匂いが、だんだん強くなる。

 わたしは和子さんに密着していた肩を離し、窓の方へ身を寄せた。

「どうしてわたしからお逃げになるの」
「逃げてなんかないわ」
「もしかして怒ってらっしゃる? 目隠しなんてしたから」
 気遣わしそうな声を出しながら、和子さんはわたしの目隠しを取ってくれようとはしない。

 別に腕の自由を奪われているわけではないのだから、外そうと思えばいつでも自分で外せるのだが、こうなったら何がなんでも和子さんに(ほど)かせてやろう。わたしは逆に意地になって、額を強く窓に押し当てた。

 窓の硝子(ガラス)越しに、額を雨の粒に打たれているように感じた。

――もう、お姉さまったら頑固なんだから。ふくれっ(つら)が車窓に映っていますわ。

 ふと、倭文子さんの声が耳の中で鳴った。いつの間にか、わたしはあの夜の電車の中にいた。

 元々横須賀と大船の間だけを走っていた鉄道が、東京(ステーション)と結ばれることになったのは三年ほど前のことだった。わたしにとっては、夏休みに東京から鎌倉の貸家へ行く時のお馴染みの電車だった。

 あの日、わたしたちを中に閉じこめた匣は、逆に鎌倉から東京へ向かって、雨を含んだ闇の中を疾走していた。うっとうしい梅雨ではなく、骨に沁みるような冬の雨だった。

 車窓に自分の顔と倭文子さんの顔が映っているのが、まるでこの車両と並行して走るもう一つの電車の中の、わたしたちとそっくりなふたりに見えた。頑固はどっちよ。あの日の心の中の呟きが、再びわたしの唇を震わせた。雨だれが伝い流れ、車窓の中の顔が泣き出したように崩れる。わたしは泣いてはいなかったが、闇を隔てて向かい合うもうひとりのわたしは、あるいは涙を流していたのかもしれない……。
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