第14話 暴

文字数 2,668文字

「菊丸って、こんなに大きな船だったのですね。なんだか外国へだって行かれそう」
 倭文子さんは小さく口を開けて、お城みたいに(そび)え立つ船体を傘越しに見上げていた。

 東京湾汽船の菊丸は、二十二時に霊岸島の発着所から大島へ向けて出航することになっていたが、出航までにはまだ一時間もあった。わたしたちは何をして時間を潰せばいいかわからず、意味もなく辺りを歩き回った。

 八丁堀。越前堀。水路が走り、倉庫が建ち並ぶ一廓だった。発着所へ通じる道の片側も倉庫で、もう一方の側には古びた旅館が何軒かあった。

 雨は止まず、骨身に沁みるような風が吹きつけた。傘の柄を一緒に握っているわたしたちの指は絡みあったまま、すっかりかじかんでいた。

「お姉さま、路地へ入りましょう。少しは風を避けられますわ」
 倭文子さんがわたしの耳元で囁いた。
「そうね……」
 わたしたちの口からは白い息が洩れ、歯がかちかちと鳴っていた。

 表通りから外れ、わたしたちは旅館と旅館の間の路地の奥へ入っていった。旅館の裏手には、長屋みたいな家が軒を並べていた。風がだいぶ弱くなったのはありがたかったが、軒の低い家々の中から楽しげな話し声と、温かそうな食べ物の匂いが漂ってくるのは(たま)らなかった。傘の中に身を寄せ合って震えている自分たちが、ひどくみじめでちっぽけな生き物に思われた。

 軒下には植木鉢が無造作に並べられていたが、季節柄、もちろん一つの花もなかった。路地はぬかるみ、ところどころに水溜まりができていた。わたしたちは、土の固そうな部分を拾うように歩いた。どこかの二階から、三味線を爪弾(つまび)く音が雨に混じって降ってきた。上げ潮なのか風向きなのか、海の匂いをかなり濃く感じた。

 表通りから道一本を隔てただけなのに、まるで別世界のようだった。こんなところで倭文子さんとふたり、ひっそり隠れるように暮らしたらどうだろう。倭文子さんを一刻もはやくあの忌まわしい家から引き離すことが必要なのだ。ふたりの生活費くらい、わたしがカフェーの女給でも何でもして稼いでみせる。わたしと一緒に暮らせば、倭文子さんはきっと、あの恐ろしい考えを棄ててくれるに違いない。

 でも、いざ口にしようとすると、まるで夢の中で叫ぼうとするかのように、わたしの舌は動かなくなってしまうのだった……。

 ※※※※※

 菊丸は、時間通りに出航した。

 わたしたちは後甲板で、ようやく雲が切れて顔を覗かせた円い月を見上げていた。確か今日は十六夜(いざよい)の月のはずだった。

 湾内ではほとんど揺れを感じなかったので、さすがは大きい船だと思ったが、外洋に出るとかなり揺れ始めたので驚いた。船尾ではスクリューの泡が白く沸き立ち、黒い波が大きくうねっていた。見下ろしていると、引きこまれそうだった。もう船室に入りましょう、という言葉が口の先まで出かかったが、手摺りに胸を(もた)せて黙りこんでいる倭文子さんを見ると、わたしは声をかける勇気を失った。 

「ねえ、お姉さま」
 不意に倭文子さんが言った。甲板は暗く、月の光だけではその表情はよく見えなかった。
「なあに?」
(せん)に一度、お姉さまは、わたしが和子さまからいただいたお手紙についてお尋ねになりました。覚えていらして?」
「もちろん覚えているわ」
 わたしは、頬に(まと)わりつく横髪を手でかきあげながら答えた。

「和子さまのお手紙に何と書いてあったか、お知りになりたいですか」
「教えてくれるの」
 他人の手紙を盗み読むようで気が(とが)めたが、好奇心は抑えがたかった。

「和子さまのお手紙には、『あなたはわたくしの妹になるべきです』と書いてあったんです」
「あの方らしいわ」
 わたしは、ある意味感心した。女王はかけひきなどしないのだ。
「正直に告白しますと、その強い言葉を目にした時、女王さまにお人形みたいに可愛がられるのも悪くないかなって、少しだけ思ってしまいました」
「なら、どうして」
「あの時も申しあげた通り、お姉さまのお手紙を読んで、はっと我に返った思いがしたからです」

 月が、また雲に隠れた。わたしは倭文子さんがいるはずの闇の場所に、目を凝らした。

「倭文子さん。あなたは前に、わたしがひとりの人間としてあなたを見てるって、そう言ったわよね」
「はい」倭文子さんが、大きく頷く気配が伝わってきた。
「何をあたり前のことを、ってあの時は思ったわ。でも今は違う。うまく言えないのだけれど、あの時のあなたの言葉は、なんだかとても暗示的だった気がするの」

 ちょうど両親が揃って出掛けた日曜日のことだったという。倭文子さんの義理の兄・征治が倭文子さんに対して行った卑劣極まりない暴力。あの男は、自分の義妹を女として見ていたが、人間として見てはいなかった。

「ひとりの人間として相手を見ないのは」
 倭文子さんは微かに笑ったようだった。「男の人だけではないのです。女だって、男の人のようになることがあるのです。和子さまはわたしをお人形として見ていたわけですし、継母(はは)などは……いえ、もうこんな話はやめましょう。ねえ、お姉さま。倭文子が話したことなど全部忘れてくださっていいのです。でも一つだけ、これだけは、覚えていてください。お姉さまの妹にしていただいて、倭文子は心から幸せでした。本当は、もっともっとお姉さまと一緒にいたかったのですけれど……」
「殺してやる」生まれてから一度も使ったことのない言葉が、匕首(あいくち)のようにわたしの喉を突き破った。「あなたをこんな目にあわせた男を、わたしは殺してやる」

 刹那(せつな)、胃の奥から何かがせり上がり、わたしは手摺りの外へ身体を折って激しく吐いた。

 胃の中は空っぽだったから吐瀉物はなかったけれど、口中に苦い唾が広がった。胃が続けざまに波打つ苦しさに、わたしの目にはじっとりと涙が滲んだ。

「お姉さま、そんな恐ろしいことおっしゃらないで。もういいのです。あんな男、殺す価値もありはしないのですから」
 由比ヶ浜海岸の時とは逆に、倭文子さんがわたしの背中をさすってくれた。温かな、やさしい手だった。

「ごめんなさい。お姉さまの身体、こんなに冷え切ってしまって。お姉さまのやさしさに甘え切って、わたしはいつもわがままばかり。倭文子は、悪い妹ですわ。さあ、はやく船室に戻りましょう」
「あやまらなくていいの!」
 わたしは涙と(よだれ)(ぬぐ)いながら、声を絞り出した。「わたしには、どれだけわがままを言ってもいいの。だから、どこかへ行ってしまわないで。わたしを、この世界にひとりぼっちで残さないで。お願い……」

 倭文子さんは、黙ってわたしの背中をさすり続けていた。
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