第20話 眩
文字数 1,985文字
倭文子さんが失踪 したのは、昭和八年二月十一日。紀元節の日の土曜日——
と、いうことになっている。
あの日、生徒たちはお式に出て紅白饅頭をもらうと、すぐ下校となるはずだったが、お昼を過ぎても倭文子さんは家に帰らなかった。夜になり、父親が仕事から戻ってきた後、ようやく警察に捜索願いが出された。
翌十二日になっても倭文子さんはとうとう帰ってこなかった。十三日の月曜日、登校したわたしは担任の国松 先生に呼び出され、校長室へ連れていかれた。
校長先生の机の前には椅子が一つ置かれていて、わたしはそこに座るよう指示された。
校長先生はでっぷりと貫禄 のある体格で、いつも落ち着き払っている印象だったが、今日は手巾 でしきりに禿げあがった額の汗を拭っていた。校長室には、校長先生の他に警察の人もいた。
サーベルを下げた、八の字髭の警察を前にして、わたしは身の縮まる思いがしたが、最初に口を開いたのは警察ではなく、校長先生だった。
――君と朝 比 奈 倭文子君は、大変親しい間柄だそうだね。級友たちの話によると、その……まるで姉妹のようだと……。
――はい。朝比奈さんとは親しくさせていただいております。
――その朝比奈君が十一日から行方不明なのだが、何か心当たりはないかね。
――ありません。
――まったく?
――何も存じません。
――文枝君、どんな些細なことでもいいんだよ。怖がらなくていいから話してごらん。
傍らに立っていた国松先生が、わたしの肩へ手を置いて言った。それでも、わたしは黙っていた。
校長先生は国松先生に目交 ぜをした。国松先生はわたしに向かって、やさしい口調で言った。
――では、質問を変えよう。文枝君、最近の倭文子君の様子に何かおかしなところはなかったかね?
わたしを〝訊問 〟する役が、校長先生から国松先生に代わったのは、その方がわたしが話しやすいだろうという配慮らしかった。
国松先生は師範学校を出たばかりの、若い国語教師だった。ちょっと髪を長く伸ばしていて、文学青年らしい雰囲気があった。この先生は、生徒を下の名前で呼ぶ癖があった。
――わかりません。何も気づきませんでした。
わたしは同じ言葉を繰り返した。
――しかしね、文枝君。十一日に、君と朝比奈君が一緒にいたところを見たという生徒がいるんだよ。
先生は一瞬、わたしの表情をうかがうような目をした。
なるほど、そういうことか。わたしはやっと、自分がなぜ呼び出されたのかを理解した。
――他人の空 似 だと思います。十一日は、紀元節のお式が済むとまっすぐ家に帰りました。
わたしは、先生の目をしっかり見ながら言った。先生は軽く溜息をつくと、校長先生を見た。校長先生は、また手巾で額を擦った。
――わかった。もう戻ってよろしい。
警察が初めて言葉を発した。わたしはすぐに立ちあがり、一礼して校長室を出た。廊下に出ると、急に足の力が抜けた。とっさに壁に手を突いたが、へたへたとその場に頽 れそうになった。
――文枝君、どうした。しっかりしなさい。
校長室から出てきた国松先生が、慌ててわたしの腕を取って支えてくれた。
――すみません、先生。ちょっと立ち眩 みがして……。
――親しい友人が突然いなくなったと聞かされたりしたら、気が動転するのも当たり前だ。少し職員室で休んで、気持ちが落ち着いてから教室に戻ってもいいんだよ。
これは罠だ、とわたしは直感した。職員室でじっくり訊問の続きをするつもりに違いない。足下はまだふらふらしていたが、わたしは、だいじょうぶです、教室に戻りますと答えた。
――先生は、文枝君の味方だよ。何か思い出したら、真っ先に私に連絡してほしいな。
――わかりました。
それから、と先生は少し声を落として言った。
――今日学校が終わってから、お宅にお邪魔したいんだが、構 わないかね? 文枝君のお父さんは作家だから、きっとご在宅だろう。
――はい。父は今日、家におります。
――よろしい。では五時ぐらいにお宅にお邪魔するので、文枝君は先に家に帰って、お父さんにそうお伝えしておいてくれ給 え。
――わかりました。
先生は、わたしの肩に手を置いた。さっき倒れそうになったところを支えてくれたのはありがたかったけれど、肩に触られるのは、なんとなく嫌だった。
――もちろん私は、文枝君を信じているよ。ただ、ちょっとお父さんに二、三確認させていただきたいことがあるんだ。こういう時に、お母さんがいてくださると助かるんだが……。
最後の言葉はうっかり口から出てしまったものらしく、先生ははっとした表情を浮かべた。
――失礼なことを言ってしまって、すまない。気が動転しているのは、どうやら私の方らしいね。
――いいえ、先ほどは先生が一緒にいてくださって心強うございました。
わたしはそう言って頭を下げたが、先生がなんだか刑事みたいに思われ、腋の下に冷たい汗が滲んだ。
と、いうことになっている。
あの日、生徒たちはお式に出て紅白饅頭をもらうと、すぐ下校となるはずだったが、お昼を過ぎても倭文子さんは家に帰らなかった。夜になり、父親が仕事から戻ってきた後、ようやく警察に捜索願いが出された。
翌十二日になっても倭文子さんはとうとう帰ってこなかった。十三日の月曜日、登校したわたしは担任の
校長先生の机の前には椅子が一つ置かれていて、わたしはそこに座るよう指示された。
校長先生はでっぷりと
サーベルを下げた、八の字髭の警察を前にして、わたしは身の縮まる思いがしたが、最初に口を開いたのは警察ではなく、校長先生だった。
――君と
――はい。朝比奈さんとは親しくさせていただいております。
――その朝比奈君が十一日から行方不明なのだが、何か心当たりはないかね。
――ありません。
――まったく?
――何も存じません。
――文枝君、どんな些細なことでもいいんだよ。怖がらなくていいから話してごらん。
傍らに立っていた国松先生が、わたしの肩へ手を置いて言った。それでも、わたしは黙っていた。
校長先生は国松先生に
――では、質問を変えよう。文枝君、最近の倭文子君の様子に何かおかしなところはなかったかね?
わたしを〝
国松先生は師範学校を出たばかりの、若い国語教師だった。ちょっと髪を長く伸ばしていて、文学青年らしい雰囲気があった。この先生は、生徒を下の名前で呼ぶ癖があった。
――わかりません。何も気づきませんでした。
わたしは同じ言葉を繰り返した。
――しかしね、文枝君。十一日に、君と朝比奈君が一緒にいたところを見たという生徒がいるんだよ。
先生は一瞬、わたしの表情をうかがうような目をした。
なるほど、そういうことか。わたしはやっと、自分がなぜ呼び出されたのかを理解した。
――他人の
わたしは、先生の目をしっかり見ながら言った。先生は軽く溜息をつくと、校長先生を見た。校長先生は、また手巾で額を擦った。
――わかった。もう戻ってよろしい。
警察が初めて言葉を発した。わたしはすぐに立ちあがり、一礼して校長室を出た。廊下に出ると、急に足の力が抜けた。とっさに壁に手を突いたが、へたへたとその場に
――文枝君、どうした。しっかりしなさい。
校長室から出てきた国松先生が、慌ててわたしの腕を取って支えてくれた。
――すみません、先生。ちょっと立ち
――親しい友人が突然いなくなったと聞かされたりしたら、気が動転するのも当たり前だ。少し職員室で休んで、気持ちが落ち着いてから教室に戻ってもいいんだよ。
これは罠だ、とわたしは直感した。職員室でじっくり訊問の続きをするつもりに違いない。足下はまだふらふらしていたが、わたしは、だいじょうぶです、教室に戻りますと答えた。
――先生は、文枝君の味方だよ。何か思い出したら、真っ先に私に連絡してほしいな。
――わかりました。
それから、と先生は少し声を落として言った。
――今日学校が終わってから、お宅にお邪魔したいんだが、
――はい。父は今日、家におります。
――よろしい。では五時ぐらいにお宅にお邪魔するので、文枝君は先に家に帰って、お父さんにそうお伝えしておいてくれ
――わかりました。
先生は、わたしの肩に手を置いた。さっき倒れそうになったところを支えてくれたのはありがたかったけれど、肩に触られるのは、なんとなく嫌だった。
――もちろん私は、文枝君を信じているよ。ただ、ちょっとお父さんに二、三確認させていただきたいことがあるんだ。こういう時に、お母さんがいてくださると助かるんだが……。
最後の言葉はうっかり口から出てしまったものらしく、先生ははっとした表情を浮かべた。
――失礼なことを言ってしまって、すまない。気が動転しているのは、どうやら私の方らしいね。
――いいえ、先ほどは先生が一緒にいてくださって心強うございました。
わたしはそう言って頭を下げたが、先生がなんだか刑事みたいに思われ、腋の下に冷たい汗が滲んだ。