第13話 透

文字数 1,474文字

 冬の由比ヶ浜の海岸を歩きながら、わたしは倭文子さんが話し始めるのを待った。こちらから訊いてはいけない気がして、わたしは黙って倭文子さんの歩調に合わせるだけだった。

 ふと、倭文子さんの足が止まった。

 倭文子さんは、わたしが傘を持っている右の肩に顔を押し当ててきた。わたしは傘の柄を右の腋に挟むようにすると、左手を倭文子さんの背中に回して抱き寄せた。

 倭文子さんは全身で震えていた。わたしはその背中を、コート越しにさすってやることしかできなかった。掌に伝わる震えのあまりの激しさに、わたしはただおろおろするばかりだった。

 やがて、途切れ途切れの声が聞こえてきた。その声は倭文子さんの口から出ていると言うより、細いうなじの皮膚を突き破って透明な血と共にふきこぼれるようだった。

 そのうちに、わたしの身体も震え始めた。手足が冷たいのに対し、下腹部は逆に火照(ほて)っていた。火鉢の埋火(うずみび)五臓六腑(ごぞうろっぷ)をじりじり焼かれる苦しさだった。

 わたしは、地団太踏んだ。何度も何度も踏んだ。湿った砂が崩れ、靴の中に入りこむ。それでも踏む。靴も靴下も砂に塗れていく。わたしは、汚れていく……。

 ※※※※※

 雨は昼過ぎに上がったものの、雲の切れることはなかった。灰色の海が夜の(とばり)に閉ざされていくさまを、わたしたちは砂浜に座ってずっと眺めていた。朝から何も口にしていなかったのに、なぜかちっとも空腹を覚えなかった。

 わたしたちの身体はすっかり冷え切っており、互いにぴったり身を寄せ合っていなければならなかったけれど、倭文子さんはかえってさばさばした顔をしていた。

 鎌倉駅に戻った時、改札口の時計は既に七時を回っていた。

 電車がホームに止まり、また動き出した。戸塚を過ぎたあたりから、再び雨が降り出した。

――もう、お姉さまったら頑固なんだから。ふくれっ面が車窓に映っていますわ。

――頑固はどっちよ。東京駅に着いたら、そこでお別れしましょうだなんて……。わたしが、「わかったわ、そうしましょう」と言うとでも思ってるの? 

――最後にもう一度、お姉さまと鎌倉の海を見たかったのです。それが(かな)ったのですから、倭文子はもうよいのです。

――あなたがよくたって、わたしはちっともよかないわ。ひとりで大島へなんか行かせない、今日は絶対にあなたから離れないから。

 倭文子さんは微笑みながら、そっとため息を吐いた。

 わたしの肩に(もた)れた姿勢のまま、いつか倭文子さんは寝入ってしまった。

 眠っている倭文子さんを見るのが、わたしは恐ろしかった。倭文子さんは、もうとっくにある一線を踏み越えてしまっているのではないか。電車がひと揺れする(ごと)に、時間が一分過ぎる毎に、その身体は少しずつ透明になっていくようだった。言い知れぬ不安に、わたしは(おのの)かずにはいられなかった。

 倭文子さんは時折、苦しげに眉をひそめたり、(うめ)いたりした。この美しい少女がどれだけ手ひどく痛めつけられたか、そして今どれほど苦しんでいるか。起きていた時よりも、(がん)()ない子供のように眠る倭文子さんを見ている方が、その取り返しのつかぬ傷の深さがわかる気がした。 

 鎌倉駅で電車に乗ってから一時間余り、わたしがずっと考えていたのは、どうすれば倭文子さんを翻意(ほんい)させられるかということだった。鉄のように固い意志なら、まだ変えさせる余地はあるのかもしれない。でも、柔らかく透き通っていくばかりの倭文子さんには、もはや()(すべ)はないように思えてくるのだった。わたしは、きつく下唇を噛んだ。倭文子さんの睫毛(まつげ)が微かに震えた。

――ふと気がつくと、電車は東京駅に滑りこんでいた。
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