第2話

文字数 3,101文字

 その時僕は、炎天下の広小路通りを自転車で急いでいた。名古屋の夏はもう何度も経験しているが、今年の夏はめっぽう暑い。狂ったように暑い。焼きつく様な日光が首の後ろをじりじりと焦がした。漕ぐごとにジーンズに汗がしみ込んで重くなる。本山の交差点はまだ先だ。遠く前を見やると、熱気で道が歪んで見えた。
 自分はどう生きたって幸せにはなれないんじゃないか。
 自転車を漕ぎながら、僕はずっと考え事をしていた。でも、僕の頭がたどり着くのはさっきから同じ結論ばかりだ。こんな後ろ向きな思考になっていたのも、ひとえにこの狂った暑さのせいだったかもしれない。
 考えは八事に着くまでにまとめなければならない。問題点はシンプルだ。今日の追試を受けるか、辞退するか。どちらにしたって、自分の人生に大きな影響を与えることはわかっていた。そして、どちらにしたって、それは僕を幸せにするようなルートではないような気がしていた。
 仮に、追試を受けた場合、僕は後二年と半年間、ここで法律を勉強することになる。だが、それだけの期間、僕がこの学校の雰囲気に耐えられるとは思えない。半年間通ってみても、なぜか自分はよそ者のような気がしてならなかった。そして、疎外感は日ごとに増すばかりだ。
 仮に、追試を受けなかった場合、僕は学校を辞めるつもりでいた。そのための書類ももう用意している。そして、半年間勉強して、社会人採用で愛知県職員になるつもりでいた。だが、子どもの頃から公務員を一番身近な職業だと感じていたものの、自分がなりたいとは一度も思ったことはなかった。そんなものになって、自分は幸せになれるのか。
 どちらとも決心がつかないまま、本山の交差点を右に折れた。ゆるい坂がさらに続いて行く。駅を降りた学生たちが列をなして歩いている。僕は立ちこぎをして彼らの間を縫った。たぶん、みんな名古屋大生だろう。半年前まで僕もそうだった。そして、ロースクールもできれば同じところに行きたかった。
 だが、僕が通うところは、坂の途中にある国立大学ではない。さらに八事霊園までの坂を越え、ようやく少し下ったところにある私立大学だ。中京大学ロースクール。建てられてまだ真新しいキャンパスの脇に自転車を止めると、かごから民法の教科書と退学届が入ったカバンを取り出した。結局考えは何一つまとまらなかった。
 過剰に冷房が効いたキャンパスに入ると、三階の学生控室に行った。もう夏休みだというのに、みんな登校してきてそれぞれの席で談笑をしている。追試を控えている者もいれば、これから自習室に行って勉強をする者もいるだろう。ここは何かと張り詰めた空気にあるロースクール棟で、唯一と言ってもいい憩いの場だ。
 だが、僕はそんな同級生たちと誰とも言葉を交わさないまま、部屋の奥の自分のロッカーを開けた。ほとんど開いたことのない小六法が一つ。
「ごめんなさい。一つお願いしたいことがあるんだけど・・・。」
 あまりに小さい声だったので、最初僕を呼んでいるのだとは思わなかった。もう一度同じ言葉が聞こえたので、僕は後ろを振り返った。そこにいたのは一人の小柄な女性だった。肩まである黒髪の右の部分が耳のところでクリンとカールしている。僕はカバンにしまい掛けた小六法を急いでロッカーに戻した。
「か、川原さん・・・。どうしたの・・・?。」
 川原恵子という女性は、確か同い年か一つ上だったと思う。今まで何度か話したことがあるが、詳しいことは知らない。ただ、いつも教室の隅っこで一人で教科書ばかり読んでいた。
「すごい汗ですね。Tシャツがびしょびしょ。」
 そう言うと彼女はシャツの裾を遠慮がちにつまんだ。
「ま、まあね。八事は坂が多いから、自転車は大変だね・・・。」
「自転車通学なんですか。じゃあ、ここからおうちは近いんですね?。」
「まあね・・・。いや、そんなに近くないかな。東桜だから。栄と新栄の中間くらい。」
「え~、それって遠いですよ。」
 驚く声もまた小さかった。僕にはなぜそれほど社交的ではない彼女が、これまたそれほど人付き合いのよくない僕に話しかけてきたのかわからなかった。
「・・・。それで、お願いっていうのは何かな・・・?。」
「そうだ。実は大変申し訳ないんだけど、憲法のレポート見せてもらえたらなって・・・。別に、そのまま写すつもりはないから。そしたら、見たのがばれちゃうものね。でも、あの講義は生理がひどくてどうしても集中できなかったの。」
 そう言うと彼女はひどく顔を赤らめた。そんなに恥ずかしい話なら、「生理」なんて言わなきゃいいのに。僕は川原恵子という女性がますますわからなくなった。
「別にそんなこと・・・。じゃあ、Lネットのサーバーにあるから、今出力するよ。」
 共有のパソコンに向かおうとする僕を彼女が呼びとめた。
「待って、今は時間がないから、後でメールに添付してもらっていい?私は、ほら・・・、今から民法の追試を受けなきゃならないから。あれ落としたら大変でしょ。」
 さらに赤くなった顔を隠すように彼女は学生控室を出て行った。しかし、残された僕は同じ場所に行こうとはしなかった。

 キ~ン、コ~ン、カ~ン、コ~ン・・・。
 一階の事務に向かう階段の途中で追試の開始を知らせる鐘がゆっくりなった。これでもう後戻りはできない。ふと学生控室の方を振り返ったが、みんな教科書を手に自習室に向かうばかりで、僕のことなんか気にも留めない。僕はかばんから退学届を取り出そうとした。
「あれ、山本君、何やっているの?。」
 階段の上から声が掛った。まさかこんな時間に階段を使う人がいるとは・・・。自習室は同じ階にある。追試はもう始まっているはずなのに。
「いや・・・、何でもない。」
 反射的にそう言うと、声の主を確かめた。室井美咲。このクラスに何人かいる社会人経験者の一人で、年が一回り上なこともあって今までほとんど接点がなかった。
「何でもないって・・・。確か、山本君も追試でしょ。今からなら、まだ間に合うわ。さっ、一緒に急ぎましょ。」
 室井美咲は階段を下りて僕に近づいてきた。僕は慌てて退学届をかばんに戻そうとしたが、なかなかうまく収まらない。
「いや、僕はいいんです・・・。」
「いいんですって、留年しちゃうわよ。ほら、行きましょ。あっ!。」
 動揺する僕の右手はついに退学届をかばんに収められず、彼女の足元に落としてしまった。
「あら、山本君。これって・・・。」
「・・・す、すいません・・・。」
 動揺の止まらない僕の口からはそんな言葉が出た。すると、彼女は大笑いしだした。
「別に謝ることないじゃない。あなたの人生なんだから。・・・でもね、山本君、本当によく考えてから判断したの?。」
 階段二つ上にいる彼女は、僕を見下ろすようにそう言った。何だか、母親に諭されている子供のような気分だった。
「うん、よく考えた・・・。」
 答えの方も子供のようなものしか出てこない。彼女は再び上からじっと見つめた。細い眉毛の下のアイシャドーがきらきらと反射していた。
「まだ、出さなくても間に合うわ。これ預かっておくから、もうちょっと考えてみて。じゃ、私は急ぐから。」
 それだけ言うと彼女は僕を追い越して階段を下りた。
「考えてみてって、ちょっと。どうすればいいんですか?。」
「五時に金山に来て。ヒマなんでしょ?ゆっくり話しましょ。」
「五時に金山!?で、でも・・・。」
「あ、そうだ。これ渡しとくから。それじゃ、絶対に来てね。じゃあね。」
「ちょっと!。」
 彼女はそのまま下の階に消えて行った。僕の手には彼女の連絡先が書かれた紙切れだけが残った。
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