第11話

文字数 2,614文字

 それから十年たって、僕たちは結婚した。
 なぜ十年もかかったかというと、それはひとえに僕がぐずっていたからに他らならない。守らなければならないものは明白で、いつでもそばにいてくれたのに、その決断を下せなかった僕は、単なる愚か者だ。その間一度は別れもした。別れを切り出したのは僕だった。再開をお願いしたのも僕だった。「今度こそ大事にするから。」と言ったら「うん。」と言った。「結婚して欲しい。」と言ったら「うん。」と言った。こんなどうしようもない僕に、それでも付いてきてくれる彼女は、きっと天使に違いない。恵子こそ僕の天使だ。
「パパ~、まだなの~?早くして~。」
 恵子の大きな声で我に帰った。
 僕の右手にはひなたちゃんの絵が握られている。大きなお日様の下、幸せそうにほほ笑む花嫁はひなたちゃんだ。あれから一体どれだけの困難があってこの日を迎えたんだろう。その姿に目を細める美咲さんの姿も目に浮かぶ。本当は、あの二人は僕なんかいなくても幸せになれるだけの力があったんだ。僕はただ、僕の幸せを求めていればよかったんだと思う。
 手紙を引き出しにしまうと、ベッドの下からラッキーベアを取り上げた。青いリボンを付けた黄色いラッキーベアと黄色いリボンを付けた青いラッキーベア。恵子が病院で付けた時とそのままだ。自転車から何度も落としたおかげであの時でさえ汚かったラッキーベアは十五年の年月を経て、さらにぼろぼろになってしまった。だか、それも恵子とともに歩いてきた幸せな十五年間の証しだ。それはあまりに平凡で、そこにあるさえ気がつかない、空気のようなものだ。だが、それは確かにそこに存在して、決して失うことのできない大切なものだ。
「ここはパパとママが初めてデートしたところなのよ。」
 ショーに大声ではしゃぐひなたに恵子が言った。ひなたは大きなしぶきを上げてジャンプする生き物を指さした。
「あれ、何て言うの?。」
「あれはシャチって言うんだよ。シャチは水生肉食哺乳類で、野生のシャチはイルカを食べることもあるんだ。でも、ここのシャチはそのイルカと一緒にショーをやるから名古屋港水族館の一番の名物になっているんだ。実は初代のシャチは十五年前に死んじゃって、今いるのは数年前に来た二代目のシャチなんだ。二代目も飼育係の指導がいいのか、このようにイルカたちと仲良くショーをしているんだよ。・・・って、そんな話ひなには難しいか。」
 するとひなたは目を丸くしたまま固まり、再びシャチがジャンプするとこう言った。
「パンダさんみたい!。」
 これに反応したのは恵子だった。
「うふふ・・・。ほんと、面白い。親子って発想までそっくりなのね。」

 夜、僕は隣で眠る恵子にキスをした。すると恵子は、
「今日はいいでしょ。」
 と言って、反対側を向こうとした。そこで僕はすかさず体を抱き寄せ、耳を攻めた。そこが弱いのはお互い様だ。そして、首元から乳房、さらに股間へと下がっていく。僕の前戯は十五年間ワンパターンだ。だが、このワンパターンでも決してセックスレスにはならない。これは愛を確かめ、深めあう儀式のようなものだから。これで恵子との絆が強くなるのなら、お安いものだ。僕は今日も同じ体を同じように抱いた。
 だが本当は・・・、だが本当は、僕が恵子を求める理由はもう一つある。それは、この年の恵子を抱くと、僕が生涯で抱いたもう一人の女性、美咲さんを思い出すからだ。三十も終わりに近づき、肉の落ち始めた恵子はすっかりあの時の美咲さんに似てきてしまった。少しはりの失った胸、骨ばってきた鎖骨や背中周りもそうだ。暗闇の中で抱いていると、そこにいるのが恵子なのか美咲さんなのかわからなくなってしまうくらいだ。
「あっ!。」
 この日も挿れた途端に射精した。最近ではいつもそうだ。
「あなたも年をとったのね。」
 恵子はそう言って笑った。
「君が美咲さんに似てきたせいだよ。」
 そう言おうとしたが、やめた。もちろん、恵子は僕と美咲さんとのことを知らない。僕と美咲さんの娘のことも知らない。なぜ僕が娘にひなたと名付けたかも、そしてなぜ同名の人から招待状が送られてきたのかも知らない。恵子は何一つ知らない。
「知らないということは幸せなことだな・・・。」
 僕はすっかり着替え終わって今度こそ反対側を向いて眠る恵子の二の腕にそっと触れた。
 いや、待てよ・・・。恵子は知らないんじゃなくて、本当は知らないふりをしているだけなんじゃないか。美咲さんのことも、娘のことも、そしてラッキーベアのことも。本当は知っているのに知らないふりをしているだけなんじゃないか。
 最初は変わった子だなと思って見くびっていた恵子だが、実は僕よりも一枚も二枚も上手なのかもしれない。結局、今ある幸せの形も、元々恵子が望んでいたものがその通りになっただけだし、実際僕は恵子がいなければ何もできない男だ。他人の幸せはおろか自分の幸せさえ手に入れられなかっただめな男だ。つくづく恵子という女は、天使のような女だと思う。僕にはもったいないくらいだ。
 真夜中、ふと目覚めた僕は、黄色いラッキーベアと招待状を手に部屋を出た。恵子は眠ったままだ。いや、眠ったふりをしているのかもしれない。わからない。まあ、どちらでもいいことだ。どちらにせよ、僕にはここにしか帰る場所がないのだから。
 自転車にまたがると、一直線に八事を目指した。守山区の今の自宅からは、さらに時間がかかる。しかも、あの頃と同じ体力ではない。それでも僕は、ただひたすら自転車を漕ぎ続けた。真夏の名古屋の夜、流れる汗に心地よさを感じながら。
 さすがに八事に着いてからは自転車を引いた。霊園の脇の細い道は坂だらけだ。あの時と同じよう何度か迷いながら、最後の急こう配を見つけた。よくこんな所を自転車で駆け上がれたものだ。僕は自転車を押して、一歩一歩頂上を目指した。
 細長い二階建てのマンスリーマンションはあの頃とまったく変わらない。僕は一○七号室の前に来ると、黄色いラッキーベアとひなたちゃんの絵をそっと置いた。
「結婚おめでとう、ひなたちゃん。君も幸せになるんだよ。」
 朝日が昇ってきた。
 丘の上から見える蜃気楼のように揺らめく名古屋の街、そこで営まれる僕たちの日常、そしてこれからの人生。まばゆいばかりの光が照らす全てのものは、大きな希望に満ちていた。


※参考資料 名古屋港水族館ホームページ
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