第10話

文字数 4,666文字

 僕は今、炎天下の広小路通りを西へと向かっている。ペダルをこいでいるがまるで進まない。鉛か何か重いものを背負っているかのようだ。
 僕が向かう先にあるものは何だろうか。美咲さんの言うように、川原さんと一緒になることが僕の幸せにつながるのだろうか。このままひなたちゃんや美咲さんのことを忘れ、川原さんと人生を共にすることが本当に僕にとって幸せなことなのだろうか。
 少なくとも川原さんは、喜ぶだろう。今自転車のかごにあるラッキーベアを手渡せば、きっと大声を上げて嬉しがるに決まっている。それほどまでに彼女は僕のことを好いている。僕だって彼女のことは嫌いじゃない。確かに、美咲さんの言うようにとてもいい子だし、彼女とはうまくやれるような気がする。
 でも、本当にそれでいいのだろうか。繰り返す。僕は本当にひなたちゃんや美咲さんのことを忘れて、二人とは関係なく暮らしていっていいのだろうか。僕が思うに、あの二人の人生はこれからも多難だろう。たとえ、親権が美咲さんに行ったとしても、どれだけ十分に教育してやれる。彼女は今現在学生なんだから。仮に辞めたとしても、無資格の彼女にどれだけ条件のいい就職先があるかわからない。父親からの養育費なんて、もとより当てにできないし。
 それに、彼女には虐待という問題がある。どんなに穏やかにしていても、いつ豹変するかわからない。苦境に立たされれば、どうしても自分を押さえられなくもなるだろう。それは、母親にとっても、子どもにとっても不幸なことだ。
 本当に僕にとっての幸せは、この二人のことを忘れて生きて行くことなのだろうか。
 僕は道の途中で自転車を止め、八事の方を振り返った。夏の太陽はすでに高い位置に昇り、容赦なく街を照らしている。僕は折り返そうかと迷った。この太陽が南中に達するする頃には室井美咲は部屋を引き払ってしまう。
 いや、待て。冷静になれ。冷静になって、現実的に考えてみろ。この僕に何ができると言うんだ。僕は今単なる就職浪人生なんだぞ。もっと正確に言えば、プータローだ。そんな人間に、誰かを救うことができるのか。現実的に考えて、僕は美咲さんに必要な実際的で早急な助けなどできるはずがない。せいぜいがそばにいてあげることくらいだ。だが、それがいったいどれだけ現実的な助けと言えるだろう。
 だが、川原さんだったら十分だ。彼女は実際的で早急な助けなど必要としていない。彼女は何年か後の弁護士を目指している。僕は一年後の公務員を目指している。それで十分だ。今は何も必要としていない。それこそそばにいてあげるだけで十分だ。
 だったら、僕はやはり川原さんのところに行くべきだろう。
 僕は再び前を向き、西へと向かいだした。ペダルをひと漕ぎするたびに、川原恵子との距離が近づいてく。
 人生には受け入れなければならない運命がある。僕と美咲さんには縁がなく、僕と川原さんには縁があった。ただそれだけのことだ。誰のせいでもない。きっとそれが運命ならば、僕と川原さんはこれからもうまく行くだろう。たぶん、きっと・・・。
 いや、本当にそうか。冷静になって考えてみろ。僕は本当に川原さんのことが好きなのか。よく考えてみろ。僕は一度だって自分の方から彼女を誘ったことがあるか。いつだって受け身だったじゃないか。自分から動いたことなんて一度もない。食事に誘ったのもそう、デートに誘ったのもそう、セックスを初めてした時だって彼女が主体だったじゃないか。しかも、僕はそこまでしてもなお彼女を恋人と認めることができなかった。結局、最後に一言押されてようやく付き合うことにしたじゃないか。
 そんな女とこれからもなお、ずっと一緒に居続けることができるのか。今のところは何とかごまかすことができている。でも、それを一生続けることができるのか。例えば、僕らが結婚して子供ができた頃には、とうとう演技をするもの億劫になるんじゃないか。そしたら、僕は家族に無関心な夫だ。美咲さんの旦那と一緒だ。そんなものが幸せと呼べるはずがない。
 だが、美咲さんだったらどうだ。僕はいつでも美咲さんを無意識のうちで待ちわびていたじゃないか。僕が本当に好きなのは美咲さんの方だろ。心はごまかせても身体はごまかせない。僕は室井美咲をあんなにも感じてたじゃないか。
 僕は再びブレーキを踏んだ。川原恵子のマンションまではあとわずかだ。後五分もすれば、僕は彼女に会うことができるだろう。冷房の壊れた暑い部屋で、二人でまた汗を流す・・・。
 僕はこのまま川原さんに会いに行った方がいいだろう。美咲さんとは現実的な障壁が大きすぎる。別に見捨てるわけではない。縁がなかったんだから仕方がない。誰のせいでもない。縁がなかっただけなんだ。
 僕は再び自転車を漕ごうとした。
 いや、待て。僕は一番大切なことを忘れている。ひなたちゃんだ。僕はひなたちゃんを何があっても守ると約束したんだ。僕ばかりのこのこ幸せになるわけにはいかない。何があっても守るんだ。
 僕は自転車を一八〇度回転させた。
 いや、待て。僕はどこへ向かえばいいんだ。僕とひなたちゃんこそ現実的な壁が大きい。仮に児童相談所に行ったとしても、相手にされないことは目に見えている。父親だと言って、ごまかしてみる?馬鹿言え、身分証を求められるに決まってる。期限の切れた学生証にどんな効力がある。じゃあ、婚約者だと言ってみるか?それこそ大馬鹿だ。警察でも呼ばれかねない。
 結局、ひなたちゃんは両親のうちのどちらかに―――残念ながら、たぶんに父親の方に―――引き取られることになる。それもまた運命。受け入れるしかない。まさか、誘拐するわけにもいかないし・・・。
 僕は自転車を元の向きに戻した。今度こそ川原恵子の部屋に行こう。それこそが全ての人が幸せに暮らすための選択だ。
 いや、待て。待て、待て、待て。僕は運命を受け入れられても、美咲さんはどうだ?僕がいたからどうにか冷静さを保っていられたけど、僕がいなかったらどうなる。きっとまた、別人のようになってしまうに違いない。
 大変だ、大変だ。それだけはどうしても避けなければならない。

 天頂からさす日差しがひりひりと痛い。かごの中には二体のラッキーベア。高校の時から使っている自転車は、きしきしと音を立てている。
 この道を急ぐのはこの夏何度目だろう。そして、今回僕は何のために自転車をこいでいるのだろう。室井美咲を救うため?いつまたヒステリーを起してしまうかわからない彼女に平静心を保たせるため?それとも、ひなたちゃんを守りたいのか?できるだけ穏便に事が進むように、僕が陰で奔走する?そんなきれいな正義感にかられているのか?本当は川原恵子と縁を切りたいだけなんじゃないか?本当は室井美咲に未練があるだけなんじゃないか?それとも単なる自己満足か・・・。あるいは、虚栄心か・・・。下心か・・・、打算か・・・、言い訳か・・・。
 わからない・・・。結論なんて出なくていい。僕はただひたすら急いだ。永遠に終わらない夏の焼けつくようなアスファルトの上を。
 本山の信号を無視して、緩くて長い坂道に差し掛かっても、僕の自転車はスピードをゆるめはしない。どれだけ息が上がり、汗が滴り落ちても構いはしない。僕はからだが壊れる覚悟で八事まで昇りきると、さらに墓地の脇の細い道を入った。
 三度目だというのに、僕はこの道を覚えられない。急がなければ。焦れば焦るほど、道は迷路のように複雑になっていった。
「痛いっ!。」
 その時僕はバランスを崩して大きく転倒した。出血しているのかすねがひりひりと痛い。その他肩だの肘だのが打撲によって、激しく痛んだ。僕は道端にほおりだされたラッキーベアを拾い上げると、急いで自転車を起こした。チェーンが外れているようだ。僕は思うように動かない両手でどうにか車輪に押し込んだ。
 ようやくマンスリーマンションへと続く坂道を見つけた頃には、太陽はすっかり南中を過ぎていた。僕は大きく深呼吸すると、最後の力を振り絞った。自転車がいつも以上に大きくきしむ。もしかしたら、チェーンがしっかりはまっていないのかもしれない。何とか頂上までたどり着くと、ラッキーベアだけ抱えて自転車を乗り捨てるようにして一○七号室へとダッシュした。
 ピンポ~ン・・・。ピンポ~ン、ピンポ~ン・・・。
 何度チャイムを鳴らしても、室井美咲は出てこない。まずい、室井美咲はもう部屋を引き払ってしまったのか。いや、室外機は回っている。僕はゆっくりとドアを開けた。
 不気味なほど冷たい空気が僕の身体を覆った。人の気配はまるでない。やはり、エアコンから流れるゴーゴーという音だけが室内に響いている。
 僕は土足のままキッチンに上がると、そのままリビングへと続く開け放たれたドアをくぐった。
 誰もいない。タオルケットにくるまっていた部屋の隅にも、一晩を共にしたベッドの上にも、室井美咲の姿はなかった。こんな状態で部屋を引き払うなんてあるのか・・・。
 その時付けっ放しのパソコンのディスプレイが目に入った。地図を検索していたらしい。画面いっぱいに広がる天白区の詳細地図。その中央の十字が指すものは・・・。
 まずい!
 僕はあわてて部屋を飛び出すと、再び自転車にまたがった。
 大体の場所はわかっている。いざとなれば昨日美咲さんから奪った地図がポケットにある。僕は勢いよく自転車を漕ぎだすと、そのまま急こう配を駆け降りた。
 普段ならブレーキを握りしめるところを、今日は逆にペダルを漕ぐ。今まで経験したことのないような疾風が顔を横切った。ハンドルは不安定に小刻みに揺れている。後輪からはがたがたと音が聞こえる。もうじき、急こう配の終着点だ。そろそろブレーキをかけた方がいいだろうか。いや、もうひと漕ぎだ。
 その時だった。ペダルが空回りし、チェーンがタイヤに絡みついた。ハンドルを取られた僕は、ブレーキをかける間もなくそのまま前に吹っ飛ばされた。
 空中に舞う僕は、全てがスローモーションだった。いつもは頭上を照らす太陽が、今は足元に見える。横をむくとラッキーベアも一緒に飛んでいる。黄色いラッキーベアはひなたちゃんだ。僕はふと手を伸ばした。リボンに指が触れたが、どうしてもつかむことができない。ごめんね、ひなたちゃん。僕は君を守ることができなかったみたいだ・・・。
 ズドン!!
 時間軸が元に戻った。そばにあったのは黄色じゃなく、青のラッキーベアだった。僕はそれをつかみ取ると、すぐにひなたちゃんを捜した。うまく歩けない・・・。頭を触ると、ねっとりとした血液が右手全体に着いた。太陽は相変わらず容赦なく差し込んでいる。流れる汗も血液もどんどんと僕の体力を奪っていく。だめだ・・・、目の前が暗くなってきやがった。もうこの急こう配に立っていることさえできない。再び太陽が足元へと昇っていく・・・。
「ちくしょー!!結局、俺は誰一人救えないじゃないか!!自分ひとり守れないものが、どうして誰かを救うことができる!!!!。」

 気がつくと僕は病院にいた。最初に目に入ったのは、心配そうに見つめる川原恵子の顔だった。枕元には二体のラッキーベア。僕はまだ痛む両手を伸ばし、それを彼女に差し出した。
「お誕生日おめでとう。」
 彼女はこくりとうなずいてそれを受け取ると、黙ってリボンを付け変え始めた。涙で前が見えなかった。僕は漏れそうになる泣き声をいつまでも必死にこらえていた。
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