第6話

文字数 6,818文字

 川原恵子との関係は相変わらずだった。
 六時間とおかずにメールが来て、三日とおかずに電話が来る。メールの内容も相変わらずだったが、時々勉強とは関係のないプライベートなことも含まれるようになった。「××さんはこの間彼と一泊旅行に行ってきたそうです。勉強だけじゃなく息抜きもたまには必要なのかな~。」「今日はお盆なので、さすがに自習室には誰もいませんでした。こんな日にも勉強しているって、日本中のロースクール生の中でももしかしたら私だけかも。」
 電話の内容もいつも変わり映えがしなかったと思う(詳細は覚えていないが)。僕はばれないように、適当なところで相づちを打った。
「あのね、今日いつもより自習室が暑いからどうしてかな~って、事務室に行ったの。そしたら、今日は人数が少ないから、冷房はもったいないっていうの。ねえ、ひどくない?。」
「うん、そうだね・・・。」
 この日もロースクール内で起きた小事件だった。僕はベッドに寝そべりながら、ぼんやり白い天井を見つめた。
「で、仕方ないから、学校の図書館に行ってみたんだけど、そこはお盆休みで閉まってて・・・。考えてみれば、ロースクールは開けてくれるだけましなのかもしれないけど・・・。」
「うん、そうだね・・・。」
「それで、やっぱり自習室しかないなって思ったんだけど、どうしても暑くて集中できなくて・・・。」
「うん、そうだね・・・。」
「それで、近くのカフェに行ったんだけど、私どうしてもにぎやかなところでは集中できなくて・・・。」
「うん、そうだね・・・。」
「やっぱり、こんな時は勉強を休んで、どこか遊びに行った方がいいかと思って・・・。」
「うん、そうだね・・・。」
「ねえ、山本君・・・、明日時間ある?。」
「うん、そうだね・・・。」
「あの・・・、もしよかったら、一日付き合ってくれないかなと思って・・・。だって、ほら、ロースクールの友達と行ったらどうしても勉強のこと考えちゃうから気分転換にならないでしょ。だから、山本君と行くのが一番いいと思うの。」
「うん、そうだね・・・。」
「大丈夫!?よかった、じゃあ、どこ行こうか?。」
「うん、そうだね・・・。」
「・・・。」
「うん、そうだね・・・。」
「・・・山本君、聞いてる?。」
「うん、そうだね・・・。」
「・・・。」
 はっとしてベッドから飛び起きた。手から落ちかけた携帯を元に戻してからこう言った。
「ああ、もちろん。どこか行こうって話だよね。ちょうどよかった。僕も公務員試験の勉強ばかりで、この夏はどこにも行っていなかったんだ。」
「ねえ、どこか知ってる?できれば、近場でゆっくり楽しめるところ・・・。」
「・・・・・・・・・・・・、そうだな・・・、例えば、名古屋港水族館とか・・・?。」
「それいいかも。私、まだあそこには行ったことがなかったんだ。山本君は行ったことある?。」
「・・・・・・・・・・・・、いや、僕もないな・・・。」
「じゃあ、一緒に楽しめるね!。」
 僕は電話の向こうの嬉しそうな川原恵子の声を聞きながら、リモコンでエアコンの温度をさらに一度下げた。

 名古屋港水族館はこの日もさまざまな生き物たちが多くのカップルや家族連れを楽しませていた。だが、数日前に来たばかりの僕は、どれに対してもそれほど新鮮な反応をすることはできなかった。
 川原恵子が「かわいい。」と言ったベルーガの親子も、彼女が「すごい。」と言ったマイワシの群れも、僕はどうしても速足で過ぎ去ろうとしてしまう。そのたびに彼女は「もうちょっと見たい。」と言って、シャツの裾を引っ張った。
「ねえ、山本君は、動物にあまり興味がないの?。」
 海底トンネルでついに彼女が聞いてきた。頭上にはこの間と同じように巨大なエイが優雅に飛んでいる。
「・・・、いや、そんなことないよ。」
「本当に?じゃあ、魚の中では何が一番好きなの?。」
「そうだな・・・。例えば、シャチとか・・・。」
「シャチ・・・?。」
「ああ、シャチ・・・。名古屋港水族館には昔、シャチがいたんだ。シャチは大型の水生肉食哺乳類で、野生のシャチはイルカを食べることもあるんだ。でも、ここのシャチはそのイルカと一緒にショーをやるからとても話題になっていたんだ。でも、数年前そのシャチは惜しまれながら死んでしまって・・・。」
 僕はゆっくり歩きながら、トンネルの長さと話すスピードを調整した。
「でも、愛されていたそのシャチは今でも水族館のシンボルで、別の形でみんなを楽しませているんだ。ほら、見てみて・・・。」
 タイミング良くぴたりとシャチのレプリカの前に来た。だが、やはり大学院生の反応は三歳児とは違っていた。
「これ、動物じゃないじゃん。」
「え・・・・・・。確かに、これは単なる強化プラスチックだね。はっは~・・・。」
僕はシャチの身体をぽんぽんと叩いた。
「どう、これ?白と黒のコントラストがパンダみたいじゃない?。」
でも、彼女は笑ってくれることなく、速足で次のコーナーに行ってしまった。僕も急いでその後に続いた。
 その後はすごく時間が長く感じた。イルカのショーは三度見た。ペンギンの餌付けは三十匹以上いるペンギンが全て食べ終わるまで見た。それでも時計は午後三時だ。彼女は「帰ろう。」とは言いださない。体験コーナーではやけになってミドリガメの頭を何度もつついた。見かねた彼女が「それって虐待だよ。」と言ってきたのでやめた。僕は「ごめんさない。」と小さく謝った。
 六時半になって、ようやく彼女が「帰ろうか。」と言ってきた。何だかこの間の倍の体力を使ったような気がした。
 帰りの地下鉄の中、シートに座るなりすぐに寝てしまった僕に彼女が声をかけてきた。
「ねえ、山本君は栄で降りるんでしょ?。」
「まあ、そうだね・・・。そこからなら歩いて帰れるから・・・。」
僕は重いまぶたを少しだけ開けた。彼女の顔には疲労感がまるでない。僕と同じ時間同じ距離を歩き回ったとは思えないくらいだ。
「よかったら、また私の家まで送ってくれない?。」
「別にいいよ。君の家も栄から近いし・・・。」
「よかった。じゃあ、よかったら、私の家でごはん食べない?付き合ってくれたお礼がしたいから・・・。」
「・・・わかった。ありがとう。」
「よかった。じゃあ、寝てていいよ。栄で起こしてあげるから。」
 はにかんだ笑顔が彼女を一層幼く見せた。
 僕だって馬鹿じゃない。彼女が何を望んでいるかぐらいはわかる。でも、本当に彼女が望むように事を運ばせていいものだろうか・・・?
 僕はまた正面を向いて目を閉じた。隣には僕たちと同じように水族館のデートを終えた楽しそうなカップルの話声。時々下り電車とすれ違うたびにこだまする轟音。駅に着くと放送される下手な英語のアナウンス。
「起きて、栄に着いたよ。」
 結局一睡もできなかった。目を開けると僕をのぞきこむ彼女の顔があった。
「山本君の寝顔って結構かわいいんだね。」
「そうかな・・・。」
 僕はゆっくりと席を立ち、電車から出た。彼女も後ろからついてきて、僕のシャツの裾をつかんだ。
 小学校の裏の細長いマンションに着くと、すぐに彼女と一緒に階段を上った。彼女の部屋は三階だった。ドアを開けると半日間たまった熱気がむっと押し寄せてきた。
「ごめんね、今、エアコンが壊れちゃってるの。」
 そう言うと彼女はベランダの窓を開けた。涼しい風が通り抜けることを期待したが、外から風が流れてくることはほとんどなかった。
「すぐできるからちょっと待ってて。そこ座ってていいよ。」
 僕はきれいにシーツをかけられたベッドに腰を下ろした。ちゃぶ台の上においてあった団扇をあおいだが、生暖かい風が当たるばかりでほとんど効果がなか。むしろ、余計に暑くなっているくらいだ。
 彼女はあらかじめ料理を用意してあったらしく、冷蔵庫の中から鍋を取り出すと火にかけた。よく見ると炊飯器からはすでに湯気が出ていた。出掛ける前にタイマーをかけていたんだろう。
 やがてちゃぶ台の上には、ご飯とみそ汁、そして肉じゃがが並んだ。もくもくと上がる湯気がさらに室内の温度を上げた。
「どう、おいしい?。」
 一口目のジャガイモをほおばった僕に彼女が心配そうに聞いてきた。彼女の作ったものが僕の身体の中に入っていく。いや、むしろ彼女の一部が僕の身体の中に入っていって、僕の一部になっていくような感じだ。
「うん、すごくおいしいよ。」
 熱さに苦戦しながら何とか飲み込むと、ぎこちなく笑ってそう答えた。彼女は「よかった。」と言ってほほ笑んだ。よほどうれしかったのか、泣いているようにさえ見た。
 食べ終わった頃にはびっしょり汗をかいていた。額や首からは滝のように汗が流れ、シャツはすっかり濡れてしまっていた。僕は何とか団扇で乾かそうとしたが、汗の勢いは増すばかりだった。
「シャワー浴びてったら?。」
「ん?う、うん・・・。そうだな・・・。じゃあ、そうさせてもらおうかな・・・。」
 そう言ってから脱衣所に向かった。やっぱり、彼女はにっこりほほ笑んだ。
 人一人がようやくおさまる狭い浴室には、女もののシャンプーとキャラクターもののスポンジが並んでいた。僕は今日一日分の疲れと汗を落とすように、熱いシャワーを頭からかぶった。
 どこまでが偶然でどこまでが計算かわからないが、ここまではすべて彼女の思惑通りに進んでいることには間違いない。でも、本当にこれでいいものだろうか・・・。
 異変は脱衣所に戻ってすぐに気がついた。僕がさっきまで来ていたシャツもズボンも下着もない。その代り、男性もののパジャマと封の切られていない下着が一セット置いてあった。
「川原さ~ん。」
 大声で呼ぶと、やはり大声で返ってきた。
「ごめんね。あまりにも汗でびっしょりだったんで、洗濯しちゃった。お父さんのを置いといたから、それ着てくれる?大丈夫、パンツは新品だから。」
 まったく・・・。偶然にしても計算にしても出来すぎている。
 部屋に戻ると、ベランダで楽しそうに洗濯物を干している川原恵子の姿が目に入った。ショートパンツにキャミソール。彼女もずいぶん薄着に着替えていた。
「明日の朝までには乾くと思うけど、いいよね?。」
 振りかえった彼女が聞いてきた。「いいよね?。」と聞かれても、何が「いいよね?。」なのか、はっきりわからない。でも、答え方は一つしかない。
「いいよ・・・。」
 彼女は嬉しそうに笑うと洗濯を再開した。僕は肉付きのいい太ももや二の腕を見てから、ベッドに寝そべった。やがて、彼女も洗濯を終えシャワーを浴びに行った。ザーザーという水の音を聞いているうちに、僕はいつの間にか眠ってしまった。
 気がつくと部屋は真っ暗になっていた。何時かわからないが、朝までにはまだだいぶ時間があるようだ。隣には彼女が寝ているが、本当に寝ているかどうかはわからない。
 僕は仰向けの身体を九十度回転させ、彼女の方を向いた。彼女はこちら向きで寝ていた。暗闇にも目をつぶっているのがわかる。化粧っ気のない顔は昼間も夜も変わりがない。
 僕はさらに身体を近づけた。吐息を感じる距離だ。もし、彼女が起きているなら、僕の行動に気づいているはずだ。だが、彼女は動かない。僕がさらにどう出るのか、様子をうかがっているのだろうか。
 僕がこのまま何もしなければ、何もないまま朝を迎えるだろう。僕は男だし、彼女は女だ。そして、十分に若い。だが、僕が何もしなければ、何も起きないだろう。
 その時、開け放たれたままの窓から、風が吹いてきた。その風は彼女を通り越し、僕の顔を通り抜けた。彼女から漂う石鹸と汗の匂い。僕は左手を伸ばし、彼女の右の二の腕に触れた。しっとりと濡れた皮膚に、張りのある弾力を感じた。
 すると彼女も反応し、右手を僕の背中にまわして抱きつくと、唇と唇を合わせた。僕は目を閉じ息を止め、じっと彼女のなすままにされた。
 すると今度は舌が入ってきた。僕はあごの力を緩め、彼女の舌を受け入れた。長い舌が別の生き物のように僕の口の中を縦横無尽に動き回った。
 僕は背中にまわしていた左腕で強く抱きしめると、唇を離れ耳をなめた。しばらくはお互いが耳をなめ合っていたが、やがて彼女の力が抜けた。僕は首から鎖骨と徐々に下にさがっていった。乳房はキャミソールの上から唇で触った。中央に突起があった。たぶん、乳首だろう。
 やがて、股間まで来ると、ゆっくりとキャミソールとショートパンツを脱がせた。彼女がパンツ一枚になると、急いで僕も同じ格好になった。改めて彼女を抱きしめると、しっとりと湿った汗が上半身全体にひんやりと感じられた。
「ねえ、これつけて。」
 彼女は手を伸ばすと、引き出しの中から何かを取り出した。
「わかってる・・・、でも・・・。」
「どうしたの?。」
「実は、僕・・・、まだ勃っていないんだ・・・。」
「本当だ。」
 彼女はパンツの上から、僕のあそこをまさぐった。なかなか勃たないのに業を煮やした彼女は、パンツを脱がせ直接あそこをさすりだした。他人の冷たい右手が行ったり来たりする。それに反応して、僕のあそこもようやく半分くらい勃った。「ありがとう。」後は自分でこすってコンドームを装着した。暗闇の中だ。ちゃんとできているか不安になり、何度も手で確かめた。
 その間に、彼女の方も準備を整えていた。ベッドに寝そべって僕が来るのを待っている。暗闇でよくは見えないが、そこにいるのは間違いなく全裸の女だ。僕はあそこが萎えないように小さくさすりながら、ゆっくりと股間と股間を近づけた。
「ここかな?・・・いや、もうちょっとこっちか。」
 暗闇の中いくら探ってみても、入れるべき場所が見つからない。彼女の穴とは違う場所を、僕の突起が何度も突いた。
「私が入れてあげるね。」
 そう言うと彼女は寝そべるように促した。僕にまたがった彼女は、僕のあそこをつかむと股間にあてた。そして、そのままゆっくり腰を下ろした。
 セックスと言うものが成立したらしい。だが、不思議と感触はない。つながっているかどうかはおろか、ちゃんと勃起しているかどうかさえ疑わしい。僕は首を起こして僕と彼女の股間を見た。暗闇なので確証は持てないが、どうやらつながっているらしい。僕は安心して首を下ろした。
 その後彼女は僕の身体の上で上下左右に動いた。彼女が休むと、僕の方から突いてみたりした。彼女は時々押し殺したような吐息を上げた。だが、僕の方は何も感じない。身体で一番神経の集中しているところに、人間の行為においてもっとも刺激のある行為をしているというのに、その実感が得られない。セックスとはこういうものなのかと思った。
 今度は僕が上体を起こし、彼女を下にした。覆いかぶさるように抱きつくと、お互いの汗がべっとりと絡み合った。この湿度の中これだけ動けば当然だ。キスをすると唾液と汗の味がした。
 その後何度か上下を交代したが、僕のあそこはなかなか射く気配がしなかった。すぐに果ててしまったらかっこ悪いなと思っていたが、心配はむしろ逆だった。最後はやけになってひたすら腰を動かし続けて、ようやく射精できた。息はぜいぜいと上がり汗は滝のように流れていた。
「もう一度シャワーを浴びてくるね。」
 身体をゆっくり引き離すと、萎えたあそこが現れた。「ふーん、こう言うふうになるんだ。」彼女は興味深げに観察してから、浴室へと向かった。彼女の身体もずぶ濡れだ。たぶん、その液体の半分近くは僕のものだろう。
 一人残った僕はパンツだけはいて、ベランダで携帯をいじっていた。三時を過ぎてようやく気温の下がった屋外の空気が、全身の汗を一斉に揮発させた。団扇をあおぐと、その部分に鳥肌が立った。
 まったく、狂っている。この夏がこんなに狂ったように暑くなければ、僕はことをなすまでには至らなかっただろう。僕は携帯を開けて、その相手の登録内容を確認した。
 苗字―川原
 名前―恵子
 電話番号―090‐・・・
 メールアドレス―・・・・・・@softbank.ne.jp
 関係―友人。
 関係は友人のままでいいだろうか?確かに、僕たちはやってしまった。だが、やったからと言って即関係が昇進するとは限らない。
「何見てるの?。」
 彼女がシャワーから戻ってきた。バスタオルを巻いただけの姿の彼女は、パンツ一枚の僕にぴったり寄り添うように横に立った。
「いや、何でもない。それより、僕もシャワーを浴びてくるよ。」
「ねえ、山本君。」
「ん?。」
 シャワーへ向かおうとする僕の右手をがっちりとつかんだ。
「大好きだよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。僕も、川原さんのことが大好きだよ。」
 僕は携帯の内容を「友人。」から「恋人。」に変えた。
 まったく、狂っている。季節はようやく八月の終わりが見えたばかり。一体この夏はいつまで続くのだろう。
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