第4話

文字数 6,101文字

 次の日、Lネットを見てみたが、受信ボックスの中に室井美咲からのメールは来ていなかった。僕は思いっきり冷房を効かせた自分の部屋で公務員試験の勉強をしながら一日を過ごした。
 その次の日、やはり僕の受信ボックスは空のままだった。仕方なく僕は、自分からメールを送ってみることにした。

宛先:室井美咲
件名:この間はありがとうございました。
本文:この間はどうもありがとうございました。室井さんの言う通り、僕は父の意向ばかり気にして生きてきたのかもしれません。これからはもっと父から自立して、自分の意思で生きていけたらなと思います。そのためには公務員だけではなく民間も選択肢に入れてみる必要があるかもしれません。
 室井さんはその後どうですか?携帯の方は新しく手に入りましたか?もしかしたら、携帯は入手できていても、Lネットの操作がうまく行かないのかもしれませんね。その場合はぜひクラスメートに聞いてみてください。ロースクールにはそういうのに詳しい人が多いですから。(Lネットの使い方がわからないのなら、この文章も読めていないのかもしれませんが・・・。)
 念のために僕の携帯の番号とアドレスを教えておきます。ご返事待っています。

 何度か読み直して、ようやく送信ボタンを押した。パソコンのディスプレイ上には、「送信を完了しました。」の文字が現れた。
 次の日、受信ボックスには一通のメールが届いていた。だか、それは室井美咲からのものではなかった。

差出人:川原恵子
件名:急なことで驚いています。
本文:突然メールしてしまってごめんなさい。でも、それ以外に山本君に  連絡を取る方法が思いつかなくって。お願いしていた憲法のレポートのことがあったので、しばらく学校で山本君のことを探していたんだけど、全然見つかりませんでした。夏休みになったので、家で勉強しているのかなって思ってました。だって、山本君は学期中もほとんど自習室を使わず、すぐに家に帰っていたから。
 でも、違ったんですね。室井さんたちが話しているのを聞いて、初めて知りました。山本君がそんなことを考えていたなんて、私全然気がつきませんでした。本当は、いろいろ悩みがあったんですね。それなのに変なお願いしてしまって、ごめんなさい。
 もしよかったら、食事でもしませんか?私は追試も終わり、時間ならあります。もしかしたら、山本君は忙しいかもしれませんが、少しでも付き合ってくれたらうれしいです。まだ、山本君がLネットにつながっているかわかりませんが、これを読んだら返事をください。それから、変な文章になってしまってごめんなさい。

 最後に彼女の携帯が添えられていた。僕は少し迷ってから、乱雑な机の上の携帯に手を伸ばした。
 苗字―川原
 名前―恵子
 電話番号―090‐・・・
 メールアドレス―・・・・・・@softbank.ne.jp
 関係―友人。
 次の日、受信ボックスは空だった。僕は室井美咲にもう一通送ろうと思ったがやめた。その代り、別の人に送ることにした。

宛先:川原恵子
件名:RE急なことで驚いています。
本文:追試お疲れ様でした。うまく行っているといいですね。それから、レポートのことはすみません。まだ、Lネットにつがなっているので、もう遅いかもしれませんが、お渡しできます。僕はもう辞めるので、そのまま提出してもらってもかまいません。
 それから、僕は暇なので時間はいつでも空いています。

 最後に携帯番号を付けくわえようと思ったが、そのまま送信ボタンを押した。ディスプレイ上には「送信を完了しました。」の文字が現れた。
 返事はその日のうちに来た。

差出人:川原恵子
件名:RE急なことで驚いています。
本文:よかった。山本君はまだLネットにつながっていたんですね。じゃあ、今日の夜とかどうですか?私は何時でも大丈夫です。

 僕はそのままパソコンで返信しようかと思ったが、すぐに携帯に持ち替えた。

宛先:川原恵子
件名:山本です。
本文:わかりました。では、5時にアクロス金山でどうでしょうか?食事ができる場所を知っています。

 送信ボタンを押すと、すぐに「送信を完了しました。」が現れた。これで彼女の携帯にも僕の情報が登録されることになる。

 金山には二分遅れで着いたが、川原恵子はすでにアクロス金山の前で待っていた。強烈な西日に顔をしかめていたが、僕を発見すると小さく笑った。僕もそれを見て小走りに近寄った。
「すみません。時間通り来ようと思ったんですが、少し遅れてしまったようですね。」
 そう言うと彼女は大げさなくらいに首を横に振った。
「ううん。私もさっき来たところだから。それに無理にお願いしたのは私の方だから。」
「そうだったんですか・・・。」
「・・・。」
「・・・。」
「そうだ・・・。」
「じゃあ・・・。」
 しゃべるタイミングが重なってお互い話せなかった。やはり、お互い「どうぞ。」と言い合って、結局僕から話し出した。
「憲法のレポートですね。お渡しすると言っていて、先延ばしにばかりしてきましたからね。これじゃ債務不履行ですね。損害賠償を請求される前に・・・。」
「あ、それはもういいんです。」
「え、もういい?。」
 僕はかばんの中を探る手の動きを止めた。
「はい・・・。その・・・、ごめんなさい。でも、結局自分で書きましたから・・・。せっかく持ってきてくれたのに、本当にごめんなさい。」
「ごめんなさいって、悪いのはむしろ僕の方ですよ。」
「ううん。そもそも人から見せてもらおうとした私が悪いんですから・・・。」
「そうですか・・・。」
「・・・。」
「・・・。」
 再びお互い見あったまま沈黙してしまった。
 夕方の金山には家路を急ぐ人の波ができていた。その中で向きあった二人には汗だけが流れていた。
「では・・・。」
「あっ・・・。」
「いや、僕の方は何でもない。川原さん、どうぞ。」
「あの・・・、ここで立ち話も疲れるので・・・。どこか食事のできる場所を知っているとメールで言っていたので・・・。」
「あっ、そうですね・・・。すみませんね、全然気がつかずに・・・。それじゃ、行きましょうか・・・。」
 そう言うと僕はアクロスの自動ドアをくぐった。川原恵子もぴったりくっつくように後からついてきた。

 窓際の同じ席からは、やはり同じように広い中庭が見えた。向かいに座った川原恵子は、さっきからメニューを見ながら首をかしげてばかりいた。
「決まりました?。」
 と聞くと、やはり彼女は首をかしげたまま
「まだ。山本君は決まった?。」
と聞いてきたので、僕は「これとこれ。」とメニューを指さした。先日室井美咲と来た時と全く同じ、パスタと白ワインだ。すると川原恵子も「私もそれでいい。」と言って、メニューをパタリと閉じた。
「・・・。」
「・・・。」
「それで・・・。」
「あっ・・・。」
 まただ。お互いに「どうぞ。」と言い合って、今度は彼女の方から話し出した。
「山本君、急に辞めてびっくりしちゃった・・・。ごめんね、いろいろ悩んでいたはずなのに、私全然気がつかなかった・・・。」
「いえ、別にそんな・・・。それに僕はもう公務員試験を受けると決めてるんです。だから、別に悩んでなんか・・・。」
「そう・・・。もしかしたら、私が悪いことしちゃったのかなって・・・。」
「悪いことって、何かしました?。」
「わかんないけど、何か気がつかないうちに・・・。」
「そんなことないですよ。川原さんはネガティブに考えすぎなんですよ。」
そう言って僕は笑って見せたが、彼女は笑っているようには見えなかった。ただ、不安気に黒い瞳をぴくぴくさせていた。
「川原さんはどうですか?この間追試でしたが、うまく行きそうですか?。」
 その時ウエイターが食事を運んできた。テーブルにはこの間と同じようにパスタと白ワインが二つずつ並べられた。
「まだ、結果が返ってきてないからわからない・・・。でも、私って向いてないかもしれないな・・・。いきなり赤点じゃ、これから先大丈夫かどうか・・・。」
「でも、赤点取ったのは川原さんだけじゃないですよ。憲法の教授は厳しかったですからね。僕も含め、半分近くが追試だったはずですよ。」
「でも、山本君は未習者だから・・・。」
「え・・・、川原さんは既習者だったんですか?。」
「うん。大学は法学部だった・・・。四年間一応司法試験を目指して頑張ってたんだけどね。だから、全然関係のない学部にいた人よりは最初は有利なはずなのに・・・。」
「そうですか・・・。まあ、テストなんて時の運ですからね・・・。」
 そんなことを言いながら、ようやくパスタの最初の一口を運んだ。彼女も僕をまねるようにフォークとスプーンを動かしたが、すぐに話を続けた。
「もしかしたら、勉強の仕方がよくないかもしれない・・・。」
「と言うと・・・?。」
「成績がいい人って、みんなペアになって勉強してるんだよね。たぶん、ペアになった方が勉強がしやすいんだと思うの。だって、一人だとどうしてもさぼりがちになっちゃうし、集中力も続きにくいじゃない?でも、ペアになると、お互い監視しているし、それにわからないところは教え合えるから・・・。」
「なるほど・・・。」
 そこまで言うと、ようやく彼女はパスタを口にした。飛び散ったパスタが頬に付いた。彼女はそれを紙ナプキンでそっと拭いた。
 川原恵子は今時の女性にしては珍しく化粧っ気がない。全くしていないのではないだろうかと思うほど、まゆ毛もまつ毛も唇もそのままだ。それがただでさえ小柄な彼女を一層子供っぽく見せていた。
「だから・・・、もし山本君が辞めていなかったら、山本君をペアに誘おうと思っていたの。」
「・・・。」
「だって、山本君もいつも一人でいたから、たぶんペアを組んでいる人がいないんだろうなって・・・。」
「・・・。」
 僕は何も言わないまま、ワインを一口飲んだ。
 確かに、彼女の言う通りだ。僕はいつも一人だったし、ペアを組んでいる人もいなかった。だから、彼女に誘われていたら、彼女とペアになっていただろう。断ろうにも理由がない。断ってしまったら、三十人という狭いコミュニティーの中でそんな気まずい関係の人と後二年半も過ごすことになってしまうし・・・。
「山本君は今、付き合っている人とかいるの?。」
「ん?。」
 彼女もワインを一口飲んだ。アルコールに弱いのか、それだけで化粧っ気のない顔は真っ赤になった。
「いえ、今は付き合っている人とかは・・・。」
「そうなんだ・・・。私ももう二年以上いないの・・・。」
「・・・。そうか・・・。じゃあ、今は勉強に集中ってところだね・・・。」
「別にそんなことはないんだけど・・・。むしろ、いた方が安心できるのかなって感じで・・・。」
「・・・。そうか・・・。」
 僕は短くそう答えると、下を向いたままパスタを食べ続けた。だが、彼女は食事に集中するどころか再びワインを飲むと、さらにこう続けた。
「山本君は、今までどんな人と付き合ってきたの?。」
「ん?。」
「付き合った人がいないわけじゃないんでしょ?。」
「まあ、そうだね・・・。」
「じゃあ、例えばどんな人?。」
「んー・・・、そうだな・・・。考えてみると、年上の人が多かったかな・・・。」
「年上ってどれくらい?。」
「んー・・・、まあ、付き合うと言ってもいろいろだからな・・・。デートをしたら付き合うにカウントしていいのなら、例えば一回りくらい・・・。」
「え、うそ!一回りって十二歳!?。」
「まあ・・・、それくらいかな・・・。」
「へ~、それは意外・・・。ねえ、それってもしかして結婚している人?。」
「うっ・・・、うん、まあね。一回り上だとそういう人もいるね・・・。」
「へ~、じゃあ、子供とかもいたり・・・?。」
「まあ、結婚しているとそういうこともあるね・・・。」
「へ~、山本君って実はすごい経験してきたんだ。意外なことを知れて、何だかおもしろ~い。」
「別におもしろいものじゃないよ・・・。」
 僕は何かをごまかすように白ワインをぐいぐいと飲んだ。今日に限っては甘さより苦さの方が一層舌にしびれた。

 支払いは割り勘にしてもらった。外に出ると、やはり重たい空気がねとっりと肌にまとわりついた。
「じゃあ、駅まで送りますよ。JR?。」
そう言うと、彼女は首を激しく横に振った。
「じゃあ、名城線?・・・ちがう・・・。じゃあ、鶴舞線?・・・え、それも違うの。じゃあ、バスとか?。」
「そうじゃないの。酔っちゃったから、少し歩いてさましたいの。ねえ、一駅だけでも付き合ってくれる?。」
「・・・ああ、別にいいけど・・・。」
 彼女は小さく「ありがとう。」と言うと、手で髪の毛をといた。右耳の当たりのクリンとカールした部分だ。
 真夏の夜の大津通りを二人の男女が北上した。ただでさえ高い湿度に加え、アルコールで高くなった血圧が余計に全身を汗でじとじとと湿らせた。
 だが、彼女は次の駅についてもなかなか地下鉄の階段を降りようとしない。「もう一駅だけ。」「もう一駅だけ。」を繰り返しているうちについに矢場町の繁華街に入ってしまった。
 広い歩道にあふれんばかりの人の波が北へ南へ、西へ東へと動いていた。僕はその波をすりぬけるように黙々と歩き続けた。その後ろを音もなくついてきた彼女だが、ある時から急に後ろに引っかかるような感覚があった。見ると彼女が僕のシャツの裾をつかんでいた。僕は歩くペースを少し緩めた。
 ついに栄まで来た。僕が家に帰るためにはここを東に折れてさらに細かい路地を行かなければならない。
「もう十分でしょ。川原さんのうちはどこなの?。」
 と聞くと
「泉・・・。」
 と短い答えが返ってきた。右手は僕のシャツの裾をつかんだままだ。
「泉って東区の・・・?。」
「・・・うん。」
「じゃあ、近いじゃん。」
「・・・うん。」
「実家?。」
「ううん。」
「一人暮らし?。」
「うん・・・。もともとはおじさんが住んでたアパートなんだけど、今は私がそのまま借りているの・・・。」
「ふ~ん、じゃあ、・・・家まで送ろうか?。」
 と言うと、彼女は小さく首を縦に振った。もう三十分以上たっているのに、彼女の顔は赤いままだ。
 彼女の家は広小路通から路地を何本か入ったところにある小学校の裏の細長い八階建てのマンションだった。驚いたことに僕の家からは十分と離れていない。
「じゃあ、ここまでだね。今日はありがとう。さようなら。」
 と言ったが、彼女はなかなか裾を離そうとしない。裏路地に面したマンションのエントランスには僕らをのぞいて人の気配が全くない。彼女はやはり裾をつかんだままこう言った。
「私一人暮らしなの・・・。」
「知ってるよ。僕は実家暮らしだから、早く帰らなきゃ。僕の父は昔堅気の人だから、遅くなると何て言われるかわからない。」
 それからしばらくして、ようやく彼女は裾を離した。そして、無言のまま体を反転させて、駆けるように階段を上っていった。僕はその足音が聞こえなくなるまでマンションを見上げていたが、どこの階の部屋も窓に明かりが灯ることはなかった。
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