第3話

文字数 5,911文字

 五時になっても室井美咲は現れなかった。
 衰えることのない西日を三十分も浴びて、さすがにぐったりしてきた。汗を吸い込んだ革の腕時計を見た。せっかちな秒針が五時を過ぎてからカチカチと二周回った。僕は帰ろうかどうしようか本気で迷った。
 別にすっぽかしたところでどうってことはないだろう。退学届はもう一度書けばいいわけだし、彼女の話を聞いたところでたぶん考えは変わらないだろう。どうせ赤点を取ったくらいで落ち込むなとか言ってくるんだろうけど、そんな理由じゃない。きっと、彼女には理解できないだろう。
 それに、彼女は僕の携帯を知らない。僕は知っているが・・・。教えるだけで聞かなかったということは、掛けてこいということなんだろう。僕は携帯を取り出して、さっき登録したばかりの宛先を見た。
 苗字―室井
 名前―美咲
 電話番号―090‐・・・・・・
 メールアドレス―・・・・・・@ezweb.ne.jp
 関係―友人。
 ここ半年で初めての新規登録だ。僕は「電話番号」を選択すると、通話ボタンを押した。
「お客様のおかけになった電話番号は・・・。」
 おかしいな・・・。僕はもらった紙切れと見合わせた。間違っていない。彼女は自分の番号を間違えたのだろうか。それとも・・・。
「山本く~ん。」
 人込みをかき分けるように室井美咲が駆け寄ってきた。僕は携帯とメモ書きをしまうと、小さく手を上げた。
「ごめんね、待たせちゃって。ちょっと、トラブっちゃって・・・。」
 彼女はハンカチで首元をぬぐった。しかし、どれだけ汗をかいていても、きらきらとしたアイシャドーは崩れていなかった。

「へ~、アクロス金山ってこういうふうになっていたんですね。コロッセオみたいですね。」
 僕は彼女に引っ張られるように二階のイタリアンに入った。窓からは丸い建物の中の広い中庭が見えた。
「あら、山本君はアクロスに来るのは初めてだったの?。」
「ええ、ここは家からは中途半端な距離にありますし、僕の家は外食はしない方ですから・・・。」
「でも、ご家族と来なくても、デートなんかには悪くないと思うけどな。」
 彼女はにっこり笑うとメニューを取ってくれた。僕は見慣れないカタカナの羅列に悪戦苦闘しながら、結局彼女と同じものを注文した。
「そうそう、ちょっと聞いてよ。ここに来るまで大変だったんだからね。」
 思い出したように彼女は話しだした。よく効いた冷房のおかげで首筋の汗は消え、乾いた素肌はより白さが際立っていた。
「ああ、確かトラブルがあったとか言ってましたよね?。」
「そうなの。学校を出た時、山本君からの着信がないかな~ってかばんを開けたら携帯がないの。これはまずいっていろんなところ探しまわっていたら、時間がぎりぎりになっちゃって・・・。」
「そうだったんですか・・・。僕はてっきり・・・。でも、いいんですか?携帯は見つかったんですか?。」
「うん、見つかったは見つかったんだけど、水没してて・・・。」
「水没!?。」
「そう・・・。どうやら、お手洗いの時落としちゃったみたいで・・・。いつも気を付けてはいたんだけどな・・・。」
「それでか・・・。壊れちゃったわけですね?。」
「そうなの。だから、データも全部パー。せっかくいろんな人から番号教えてもらったのに、どうやって連絡を取り直したらいいのやら・・・。」
 その時、ウエイターが「お待たせしました。」と現れた。テーブルには同じパスタと白ワインが二つずつ並べられた。
「かんぱ~い!。」
 一口飲んだだけで白ワインの甘さと苦さが口の中に広がった。
「ところで、ちゃんと考え直してみた?。」
 慣れた手つきでフォークとスプーンを動かしながら、彼女が聞いてきた。
「何のことですか?。」
 僕も彼女を見ながらぎこちなく両手を動かした。
「あら、もう忘れたの。ほら、退学届のことよ。」
「ああ、あれはもういいんです。両親ともよく相談しましたし・・・。」
「ご両親には何て言ったの?。」
「それはその・・・、ロースクールを辞めて県職員になるからと・・・。」
「本当にそう?。」
 彼女は食事の手を止めて、僕をじっと見つめた。目線は同じ高さにあるはずなのに、やはり母親に見下ろされているような感じだ。
「本当です。だから、もう公務員試験のための問題集も買ってあるんですよ。」
 そう言うと彼女は小さく笑った。
「そういうことじゃないの。本当に公務員になりたいからロースクールを辞めるの?ってこと。」
「は、はい・・・。その・・・、父も公務員なんです。だから、僕も公務員になるって言えば、父も納得するかなって・・・。」
「ふ~ん、お父さんってどんな人?。」
「それは、その・・・、真面目な・・・、というか、保守的な・・・。毎日時間通り家を出て、毎日時間通り家に帰ってくる。そんな感じの父だから、弁護士や公務員ならともかく、民間は嫌がるかなって・・・。」
「なるほどね。でも、お父さんがどう思うかなんてそんなに大事?だって、これはあなたの人生でしょ。」
「それはそうですが・・・。」
「じゃあ、あなたの本当の気持ちはどうなの?。」
「それは、その・・・。」
 エアコンで一度は乾いた汗が、またじわじわとにじみ出てきた。僕の心の内を見透かしているかのように、彼女からは小さな笑みが消えなかった。
「もしかして、ロースクールに来たのも、お父さんのことを考えて?。」
「う~ん・・・、どうかな?少なくとも、父は名古屋大のロースクールに行ってもらいたかったんだと思うけど・・・。」
「国立だから?。」
「・・・まあ、そうですね。試験に落ちてしまったんだから・・・。正確に言うと、補欠合格だったのですが、辞退者がいなくて。だから、中京に行くしかしょうがないですけどね。」
「でも、山本君が落ちたなんて意外ね。中京大にいる人より、ずっと頭がいいはずなに・・・。」
「別に、頭がいいってことは・・・。ただ、受験当日に高熱を出してしまって・・・。まあ、そんなの言い訳なんですけど・・・。」
「あら、そうだったの。でも、不思議な縁ね。熱を出してなかったら、私たち絶対に知り合いになっていなかったもの。そう考えると、よかったんじゃない?。」
「はあ・・・、そういう考え方もあるんですね。室井さんはずいぶんとポジティブなんですね。」
「そうよ。山本君ももっとポジティブにならなきゃ、人生もったいないわよ。」
 僕はフォークに巻き付けられたままになっていたパスタを初めて一口運んだ。母がよく作ってくれるナポリタンとは全く違う味がした。
「ところで、室井さんはこれまで何をしていたんですか?そもそも、どうしてロースクールに入ろうと考えたんですか?。」
 今度は僕の方から質問した。まだ数口しか飲んでいない白ワインが、少しずつ体内に回り始めていた。
「私の場合はね・・・。もともとは保険会社に勤めていたの。これでも営業としてバリバリやっていたのよ。でも、職場の人と結婚して辞めちゃって、子どももできて、今に至る。」
「今に至る・・・って、それじゃ、どうしてロースクールに来たのかわかりませんよ。」
「それはね、たまたまなの。たまたま運がよかったの。」
「運が良かった・・・?。」
「そう。あのね、仕事を辞めた後しばらく時間があったから、通信制の大学に通っていたの。そこを修了してロースクールっていうものがあるって知ったものだから、だめもとで受けてみようって考えたの。そしたら、運よくうかっちゃって、それでせっかくだから行ってみようかなって感じで。」
「へ~、そうなんですか。でも、お子さんがいらっしゃるなら大変なんじゃありませんか?。」
「そうね・・・。それについては、お母さんに世話になりっぱなしかな。今は実家に暮らしているから、ほとんどお母さんに面倒を見てもらっているの。」
「それはお母さんも大変ですね。まだ、お子さんは手のかかる年齢なんですか?。」
「そうね。この間三歳になったばっかりだから。」
「お名前は?。」
「ひなた・・・。私がつけたの。せめてこの子には日の当たる人生を歩いて行ってほしいなと思って・・・。」
「じゃあ、室井さんは日の当たる人生じゃなかったんですか?。」
 僕は何気ない質問をしたつもりだった。ただ、会話の流れに乗った自然で当たり障りのない・・・。
 だから、どうしてその時彼女がしばらく黙りこんでしまったのか、理由がわからなかった。だから、どうしてその時彼女が目に涙を浮かべ始めたのか、理由がわからなかった。
「す、すみません・・・。いけないことを聞いてしまったみたいで・・・。」
「ううん・・・。そんなことない。私こそ急にごめんね・・・。」
 彼女は涙をナプキンで軽くふき、白ワインを一気に飲み干した。そして、押しとどめていた何かを解放するように話し始めた。
「私はね、自分のお父さんがどんな人だかよく知らないの。物心つく頃にはもう離婚していたから。お母さんが言うには、飲んだくれだったらしいんだけど。もともとお酒好きではあったんだけど、私が生まれてから急に量が増えちゃって。しかも、酔うと人格が変わっちゃうの。昼間っから飲んでは暴れまわってばかりで、身の危険を感じたお母さんは私を抱えて家を出ちゃったんだって。
 でも、私としてはお父さんのいない家族ってさびしく仕方なかったかな~。父親の存在というものがどうものなのかわからないけど、他の家はもっと楽しいんだろうなって。お母さんはいい人よ。女手一つで育てるなんて、今考えてもすごいことだと思う。
 でも、時々ものすごくしつけが厳しくなることがあった。もしかしたら、今で言う虐待の一歩手前だったかも。あざが残るくらいぶたれたこともあった。でも、それも当然よね、ああいう環境じゃ。私も母の負担にならないようにって必死で頑張った。自分が悪い子にならなければ、お母さんは優しくしてくれるんだって。実際、どれだけいい子でいられたかはよくわからないんだけど・・・。
 そんなこともあって、結婚願望は人一倍強かった。早く身を落ち着けて母を安心させてあげたいっていうのもあったんだけど、温かい家庭への憧れっていうものあったかな。優しい両親がいて、その下に無邪気でかわいい子供がいるっていう、ごく当り前で平凡だけど、かけがえのない・・・。
 でも、私、男運だけはどうしても悪いみたい。なぜだか好きになる人は結婚には向かない男ばかりなの。あのね、会社に入ってしばらくは既婚者と付き合っていたんだから。仕事もできて誰に対しても親切な本当にいい人だったんだけどね。でも、結婚してちゃダメよね。『妻とはいつか別れる』って口先ばかりだったから、私の方から離れちゃった。今となってはいい教訓かな。
 ただ、別れたはいいけど、気が付いたら私も二十代後半でしょ。だんだん焦りが出てきたの。それでね、たまたま近くに結婚してくれそうな人がいたから結婚したの。それが今の旦那。
 彼は私が元彼と付き合っている時からずっと声をかけて来ていた変な人なの。確かに悪い人じゃないんだけどね。でも、精神的に幼いというか、お坊ちゃんで生活感がないと言うか・・・。私が育児に追われている時でも家でごろごろするだけで手伝わないし、かといって仕事に情熱を持っているわけでもないし。いい年して『他にいい仕事ないかな』が口癖なのよ。全然現実が見えてない。
 だから、もう夫婦仲が冷めきっちゃってて・・・。喧嘩する気力もなくなっちゃった。両親を見て自分だけは離婚はするまいと思ってたんだけど、こんな親の元に育っても返って子供にはよくないかなって。通信講座を始めたのも、本当のところは離婚した後できるだけいい就職先に付けるようにって考えてのことだったんだけどね。
 でも、ロースクールに入っちゃったら三年は離婚できないわね。今日の追試がうまく行っていて、留年なく三年で卒業できても、司法試験に一発で合格できるとは限らないしね・・・。ていうか、たぶんこの調子だと無理だと思う。何だか運がいいのか悪いのか。
 別に難しいことを望んでいるわけじゃないのにどうして私ばっかりうまく行かないんだろう。私はただ、当り前の幸せがほしいだけなのにな。私は幸せになれない星に生まれてきたのかな・・・。」
 長い話しを終えると、彼女は再び目頭を押さえた。僕は何て言ってあげたらいいのかわからず、ただテーブルの下で手をもじもじさせていた。
「ごめんね。いきなり泣かれても迷惑だよね。何でこんな話しちゃったんだろう。自分でもわからない・・・。」
 再び目を押さえようとしたが間に合わず、涙が一筋すーっと流れた。女の人の涙は、僕が想像していたものよりはるかに美しかった。
「ところで、山本君は大丈夫?遅い時間になりそうだけど・・・。」
「そうですね。一応家に電話しておいた方がいいかもしれません。」
「ああ、ごめんなさいね。山本君は自宅生だったのね。じゃあ、そろそろ帰りましょうか。」
「もういいんですか?。」
「うん。今日はこれ以上話しててもまた泣いちゃいそうだし。それに学校辞めるにしても、名古屋にはいるんでしょ。会おうと思えばいつでも会えるね。・・・って、だめか。私の携帯・・・。」
「じゃあ、携帯を買い直したら、新しい番号をLネットで教えてくださいよ。まだ、しばらくは僕の登録が残っていると思いますから。」
「Lネット・・・?。」
「あれ、使ってないんですか?大学のネットワークシステムですよ。学校のサーバーの中に生徒一人一人の個人アドレスが割り振られていて、それを使ってメールのやり取りができるんです。データフォルダもあるから、僕なんかよくレポートの下書きを保存したりしてたんですよ。」
「ああ、それね。私機械に弱いから、何となく使ってなかったの。でも、山本君に連絡を取るにはそれしかないみたいだから、頑張ってみるね。時間かかるかもしれないから、待っててね。」
 そうして、僕たちは席を立った。会計は彼女が「払うよ。」と言ってくれた。「それは申し訳ないですよ。」と僕も言ったが、結局は彼女が全て払った。
「今日はとても楽しかったわ。Lネットの使い方がわかったら、またデートしようね。」
「え、デート・・・。今日のって、デートって言うんですか・・・?。」
「そうよ。こういうのをデートって言うのよ。」
 そう言うと、彼女は子どもにやるように僕の頭をポーンとなでた。
 もうとっくに日は暮れているのに、昼間と変わらないくらいの蒸し暑さが続いている。ねっとりと体に付きまとうような重たい空気の中、僕はJR金山駅の改札をくぐる彼女の姿をいつまでも見ていた。
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